一昨日、ヨドバシカメラに行き、東本願寺から大丸から高島屋へと歩きました。
こういうのは久しぶりかも。
東本願寺では、撮影したいものに出会わなかった。
このカメさんぐらいかな。
玄武なんだろうか・・・。
次に烏丸通で「俊成社」を見た。
あれ?前こんな雰囲気じゃなかったような・・・。
錯覚かな?
↑普通に撮るとこんな感じ
↑京男が見た感じはこんな感じです。これは便利な機能。
調べてみるとビルが建ち、その中に社が埋め込まれてしまっているのです。
高札を書き写してみました。
◆俊成社
ここは、藤原俊成の邸跡といわれ後世の人が、俊成の霊を祭ったものという。俊成は平安末鎌倉初期を代表する歌人。定家の父で、後白河法皇の命により『千載和歌集』を撰した。
謡曲俊成忠度は、平忠度が歌道に執心のこと及びその最後の様を描いた修業物即ち岡部六弥太忠澄は西海の合戦で忠度を討った時、その尻籠に収めてあった短冊を持って都に帰り、忠度の和歌の師であった俊成の邸を訪れ、その短冊を見せる。その短冊に、旅宿の花という題「行き暮れて木の下落を宿とせば 花や今宵の主ならまし」と書いてあった。俊成はその文武両道に優れたのを惜しみ厚く成仏を祈る。
藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。はじめ葉室家に養子に入り藤原(葉室) 顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り改名した。法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太后宮大夫。『千載和歌集』の編者として知られる。
ちょっと華やかさに欠けるので、生菓子をどうぞ。
↑長久堂「雪中華」
↑きんとん、小倉あん
※現時点では、PanasonicのLX3の方が安心して撮影できる。色合いの問題です。肌目というか手触り感は、サイバーショットDSC-RX100M2の方が上なんです。もうすこし研究が必要。
↑これから暫くの間、京男の和菓子本のお知らせをさせてもらいます。説明は1月27日の記事をご覧ください。(色のかわっている部分をクリックすると表示されます)
Twitter→@kyo_otokon
こういうのは久しぶりかも。
東本願寺では、撮影したいものに出会わなかった。
このカメさんぐらいかな。
玄武なんだろうか・・・。
次に烏丸通で「俊成社」を見た。
あれ?前こんな雰囲気じゃなかったような・・・。
錯覚かな?
↑普通に撮るとこんな感じ
↑京男が見た感じはこんな感じです。これは便利な機能。
調べてみるとビルが建ち、その中に社が埋め込まれてしまっているのです。
高札を書き写してみました。
◆俊成社
ここは、藤原俊成の邸跡といわれ後世の人が、俊成の霊を祭ったものという。俊成は平安末鎌倉初期を代表する歌人。定家の父で、後白河法皇の命により『千載和歌集』を撰した。
謡曲俊成忠度は、平忠度が歌道に執心のこと及びその最後の様を描いた修業物即ち岡部六弥太忠澄は西海の合戦で忠度を討った時、その尻籠に収めてあった短冊を持って都に帰り、忠度の和歌の師であった俊成の邸を訪れ、その短冊を見せる。その短冊に、旅宿の花という題「行き暮れて木の下落を宿とせば 花や今宵の主ならまし」と書いてあった。俊成はその文武両道に優れたのを惜しみ厚く成仏を祈る。
藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。はじめ葉室家に養子に入り藤原(葉室) 顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り改名した。法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太后宮大夫。『千載和歌集』の編者として知られる。
ちょっと華やかさに欠けるので、生菓子をどうぞ。
↑長久堂「雪中華」
↑きんとん、小倉あん
※現時点では、PanasonicのLX3の方が安心して撮影できる。色合いの問題です。肌目というか手触り感は、サイバーショットDSC-RX100M2の方が上なんです。もうすこし研究が必要。
和菓子 | |
中村 肇 | |
河出書房新社 |
↑これから暫くの間、京男の和菓子本のお知らせをさせてもらいます。説明は1月27日の記事をご覧ください。(色のかわっている部分をクリックすると表示されます)
Twitter→@kyo_otokon
まだまだ、カメラの性能テストが続いていますね。
社が近代的なビルに埋め込まれて、何か不思議な光景ですね。
撤去されるより健全だけど♪
弱点があるのがわかりました。
さてどうするか。
昨日は、寝ていたら結構な地震が起こった夢を見ました。阪神淡路の時のような揺れでした。リアルでしたよ。正夢にならないといいのだけど。
ビルの埋め込まれた神社。不思議ですね。