京男雑記帳

洛中で生まれ育った京男が地元視点で見た日常風景や話を雑記的に掲載

くるみ餅

2010年08月31日 05時13分21秒 | お土産


昨日にひきつづき、これもいただきもの。
最近、生菓子はどうも手に入れようとするのですが
この暑さで職人さんも腕が鈍っているのでしょうね。
本来生菓子は、夏はオフシーズンなんです。
だから売ってはいますが、どうしても無理がある感じ。
これは、「くるみ餅」といいます。
ぱっとみたら東北方面の「ずんだ餅」っぽい感じですね。
このいただきもののくるみ餅は、テイクアウト用でタッパに入っています。
お店でならこの上にかき氷をのせ「氷くるみ餅」で食べられるそうです。
なるほどそれも美味しそうだな。
京都にはありそうでないものですね。



店名の由来をHPから引用させていただきます。
かん袋は、鎌倉時代末期、元徳元年(1329年)に和泉屋徳兵衛が和泉屋という商号で御餅司の店を開いたのが始まりです。



安土桃山時代に、豊臣秀吉が大阪城を築城し、その際に堺の商人へ多額の寄付を要求しました。文禄二年(1593年)の春中頃、桃山御殿が完成したのを機会に、秀吉は寄付金の礼として堺の商人納屋衆を招きました。その時、天守閣は瓦を葺く工事中でした。暑い日盛りの下で、蟻がえさを運ぶように職人が一枚一枚瓦を運び上げていました。この様子を見た和泉屋徳左衛門は、容易に片付かないと思い、毎日奉仕に出ました。餅作りで鍛えた腕力を使い、瓦を取っては次から次へと屋根の上に放り上げました。瓦は春風に煽られて、紙袋がひらひらと舞い散るように屋根に上がりました。そこに居合わせた人々は、度肝を抜かれました。これを見た秀吉が、「かん袋が散る様に似ている」と、その腕の強さを称えました。秀吉は、「以後かん袋と名づけよ」と命じ、それより「かん袋」が、和泉屋の商号になりました。
室町時代の中頃(1420年頃)には、堺の町は明との勘合貿易の貿易港として栄えていました。明国より入荷した農作物を利用して、五代目の和泉屋忠兵衛は塩味で挽き合わし、茶菓子を作り出しました。お餅をくるんで食べるところから「くるみ餅」と名づけました。その後、ルソンから砂糖が輸入され、甘味が加えられ現在のくるみ餅となりました。



かん袋って聞いて童謡唱歌の『山寺の和尚さん』を思い出す。
あの歌詞にでてくるカンブクロってなんだろうって思ったものです。
一説にはお寺ということで棺袋(かんぶくろ)という説もある。
普通は、紙製の袋のことでしょう。

『山寺の和尚さん』
「山寺(やまでら)の和尚(おしょう)さんが
 毬(まり)はけりたし 毬はなし
 猫をかん袋に 押し込んで
 ポンとけりゃ ニャンとなく
 ニャンがニャンとなく ヨイヨイ」



※京男バージョン
「山寺の(ホイホイホイ)狸(たぬき)さん(スットコドッコイ)
 太鼓(たいこ)打ちたし 太鼓なし(ポコ・ポンポンポン)
 そこで金袋(きんぶくろ)を ダラリ出し(アラ・アァ~~ラ!)
 ポンと打ちゃ ポンと鳴る
 ポンがポンと鳴る ヨォ~イ・ヨイ♪」

※雌狸バージョンもありますが、これ以上やると京男のイメージがダダオチになりますので、慎んで差し控えさせていただきます。
「えっ!もう落ちている?」
暑さのセイです。気のセイです。(きっぱり!)

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干し柿でつくってあるなんて面白い

2010年08月30日 05時08分25秒 | オミヤ


これは、いただきものの「久里柿(くりがき)」
信州市田の干し柿で栗きんとんを包んだお菓子です。
とっても凝ったつくりね。
干し柿の甘さと栗きんとんのほのかな甘味がうまく調和していました。
ヘタまでついているのが面白い。





今年のように猛暑の時は柿はどうなるんだろう。
栗もそうだな。あまり影響ないのかな。
うまく悪影響がでませんように。



秋になって柿がでてくる頃に身体が欲するでしょうね。
柿は、ビタミンCが豊富で、大きい物ならば一個で一日に必要な量は補給できてしまう。
日焼けも回復してくれそう。
ただビタミンCは干し柿にすると無くなってしまう。
その代わりにビタミンAが干し柿にする前の2倍となる。
しかも食物繊維が豊富なので動脈硬化や高血圧の防止によい。
どちらにしても一日一個程度食べるとよいそうです。







栗も後一カ月ぐらいで食べられるかな。
栗赤飯が食べられる・・・うれしいな。
早く秋になってほしい。

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ちょっとだけ刺激物を食べる

2010年08月29日 06時58分27秒 | 

↑中華粥

夏の後半は厳しい暑さ、さすがに食欲もなくなり気味。
まあ、京男の記事をみている限りでは、それほど食欲がおちてないといわれればそうだけど。
私なりに食欲が減退している。


↑なぜか香菜じゃない。なんでやろ?

今年の夏は、京都でじっとしていることが多かった。
そのかわり京都以外のお客様が上洛され
会うということが多かったかも。
京都に住んでいるとこういう時が楽です。
この日もそうだった。


↑やっぱり香菜でないとしまらないな。

いつもの京都駅の八条口の新都ホテルのロビーラウンジで打ち合わせ
ランチ時になったので、地下に移動。
いつもの四川へ行く。
ここならメニューと量をだいたい憶えているし便利。
しかも静かだし。
以前は地下だったから携帯が通じないから便利だったな。
食事をしている時に携帯が鳴ったらいやでしょ。
いまは通じるようになってちょっと残念。
私のもっているiPhone3GSは上等だから通じないかも。(悲)
Softbankのアホ~~ッ!エエカゲンニセンカイ!(怒)


↑四川風のゴーヤの炒め物。この唐辛子が好き。もちろん辛いけど。


↑杏仁豆腐

もうここも長いな。
お店の人もなんとなく顔見知りだしね。
新幹線で京都にこられるお客様と食事はここが一番。
新幹線のホームまでの時間がよめるのが便利。
新都ホテル

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そめどのさん

2010年08月28日 05時18分52秒 | 社寺

↑新京極から見ると入り口はこんな感じ。四条通からすぐなんです。

ここは、新京極の入り口にある地元では「そめどのさん」と、親しまれている「安産祈願」のお地蔵さん。
目立たないけど歴史が1000年ぐらい詰まっている。
おそらく京都に観光にきたら前を通っていると思います。
街中の異界のように感じますね。
京都のこのあたりは昔は(今も結構あるけど)お寺が多いんです。
繁華街なのに裏にまわると墓地があったりする。
考えたら不思議。


↑ちょっと入るだけで空気が変るのがすごい

染殿院の沿革(看板から書き写しました)
染殿院は大同3年春(808)空海(弘法大師)の開基にして入唐帰朝の後、当院に留まり十応心論を清書調巻されたことから十住心院と称した。
古往(おうこ/むかし)は、釈迦院或いは敬礼寺又は清和院釈迦堂其他釈迦堂(鎌倉期の一遍聖絵巻)とも呼ばれた。
本尊は地蔵菩薩にして高サ2m余の木彫裸形の立象にて秘仏である。



ここが安産の守護となったのは人皇55代文徳天皇(850~858在位)の后・藤原明子(藤原忠仁公の息女)は天皇より一手にその寵愛を受けていたが、ただ一つ皇子が授からない悩みがあった。
明子が懐妊するかどうかは彼女だけでなく、父良房の地位、ひいては藤原一門の運命がかかっていた。
※京男談/娘の懐妊で一門の運命が決まるなんて情けない話しやね。懐妊なら京男&京女の写真を持つといいのに。(笑)それなら京男地蔵になったかもね。


↑知り合いにここで腹帯というというのを授かったのはきいたことがないな。たいていわら天神だもの。わが家もそうだった。

そんな折、四条の地蔵菩薩が子宝にご利益があることを聞きつけ、早速地蔵堂に参り17日の願をかけたところ、満願の日に明らかに懐妊の兆候があり、10月10日ののち明子は男の子を出産した。後の清和天皇である。
これが縁で宮廷において摂政関白を独占し藤原王国が築かれたのだった。明子が染殿皇后と呼ばれたのにあやかって、染殿地蔵尊と称された。
人皇62代村上天皇(946~967在位)題3皇子一品式部郷久賀為親王は、四條中川のあたり(中川は御所より今の寺町通りに流れていた川)境域広く家造りされた。
染殿地蔵堂も自然にこの内に含まれ、御願寺となって皇子を染殿親王と申した。



66代一條院永延元年(987)に東大寺沙門然(ちょうねん)が入宋帰朝し赤旗檀の釈迦像を伝来し嵯峨野の清涼寺に安置されたが、然はまた自ら御丈三尺余の釈迦像一体を造り当院に奉納(金蓮寺霊宝庫に現存)これより四条京極の釈迦堂と呼ばれた。


↑向こう側が四条通。甘栗の林万昌堂本店の店内になっています。よく考えたら不思議な構造だな。出にくいかも・・・。そういえば久しく食べてないな甘栗。

鎌倉期の一遍聖絵巻(国宝)に「弘安七年閏四月十六日関寺より四条京極の釈迦堂にいり給ふ。貴賎上下群をなして人はかえり見る事あたはず。車はめぐらすことをえざりき十七日ののち因幡堂にうつり給ふ。」 とある。
すなわち、一遍上人が大津関寺から入洛四条京極の釈迦堂にて念仏賦算をしたというのは、この寺のことである。
金蓮寺より釈迦堂の方が歴史も古く、一遍とのゆかりも深いのであるが、室町時代はどの寺社にも属しておらず、時の移りとともにその時代の権力者によって次から次にと護持伝来されてきたが、偶々足利義満が嘉慶二年十二月二十二日金連寺に寄進したため、本末転倒して金蓮寺の塔頭になった。





『夢窓国師が苔寺(洛西西芳寺)の作庭に没頭したとき、この地蔵尊が一旅僧となって国師を助けたという伝え』
嵯峨天竜寺開山夢窓国師が松尾に西芳精舎(苔寺)を創し、泉水の美観を好み築山の構えを営もうとしたとき、石は重く大きく少しも動かなかったが、たまたま一人の僧が忽然ととして現れ、ただ一人で自由に大石を動かし、国師の意の通り庭園を作ったので、国師は歓喜のあまり何かお礼をしようかと思案したが、幸いにその僧は袈裟を持たないのがわかったのでこれを進じようと自ら着けていた袈裟を贈った。その僧はその袈裟を受け、錫杖を地に立てたまま消え失せたのである。


↑新京極に出ると空気はもと通り

後日国師が四条の辺りに托鉢し、たまたま四条京極の染殿地蔵堂に詣り、御扉を開けて拝すると、先の袈裟は地蔵菩薩の肩にかかっており手に錫杖はなかったので、疑うところもなく件の僧はこの地蔵の化身であったことを知り、国師は感激の涙を流されたということである。
その錫杖は現在も松尾の西芳寺の地蔵院に残されている。
現存の染殿院の建造物は、元治元年(1864)に京都御所以南が大火に見舞われた(通称ドンド焼け)その時に建てられた假堂(かりどう)である。
「染殿地蔵院」地図

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この店に行くまで数年かかった!?

2010年08月27日 05時24分57秒 | 

↑これが京阪電車の車窓からの風景。一瞬しか見えない。


↑知らないと入れないかもね。まわりは田んぼと住宅地。

ここはかなり前から気になっていた。
京阪電車の特急に乗って京都方面に帰る時、進行方向の左側の窓際に座っている時にチラッとみえる。
それが気になっていた。
「民生」ってあの神戸南京町のお店の名前だ。
必ずしも窓際に座るということもないからいつもみていなかった。
どこの駅で降りたらいいのか、チェックしたりしていた。
でも特急は停まらない。
駅は「萱島(かやしま)」だ。
わざわざ行かないといけない。
ちょっとした決心がいります。


↑イカ天ぷら

この「民生」というのは、神戸の南京町にある。
最近では、並ばないと入れない。
予約もできそうにない。
そんなのはいやや~。


↑酢豚。美味しそうでしょ。


↑器が独特


↑いまでもこういう甘酸っぱいものが食べたいな

南京町の「民生」によく行っていたのは、神戸ポートアイランド博覧会(1981)前のこと。
明日からお店の改装するという前の日、全然お腹が減っていないのに
最後に食べに入って味と景色を憶えておこうと、おもいきり食べたな。
汚いバラックのようなお店でした。
店内は中国語が飛び交っていたものです。
それがまたよかった。
怪しい雰囲気を醸しだしていたもの。
神戸ポートアイランド博覧会以降、南京町は変りました。
地上げの嵐が神戸のあの辺りを襲った。
なくなった小さい名店も多かった。
阪神淡路大震災で、また雰囲気がかわったな。


↑小エビチリソース。プリプリがいい。辛さはさほどでもない。

この萱島の「民生」は昔の匂いがしていたんです。
このお店は、どうやら姉妹店で結構昔からあるらしい。


↑レタス包み


↑こういう食べ方、とても懐かしい。

入ったらお客さんがいなくて、貸切状態でした。
家族でやっておられる感じでした。
近くにこういうお店があったらな・・・。
萱島は、ちょっと気軽に来るというには遠過ぎる。
次いでに下車という感じではないしね。



これは、カレーライス。
まかないのカレーという感じなんです。
タマネギと豚肉でつくってある。



こういうカレーもいいかもしれません。
時間がかからずにつくれるし。
ちょっとココナッツミルクなんかを入れるともっといいかも。

結局、この店に来るまで何年もかかった。
神戸の南京町に行くより安易でいいのかもしれませんよ。
また行こうっと。
「民生」地図

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すごい!?

2010年08月26日 05時24分54秒 | カレー

↑タンドーリーサラダ

なんか残暑が続いていますね。
双子君たちは、夏休みでウロウロしてくれる。
ランチ時には、私が食欲がなくてもなにか用意しなくてはいけない。
京女は仕事に行っているし・・・。
この日は、もう食欲がなくてぼう然としていた。
長男と山科のRAJUに行く。
結構久しぶりだ。


↑タンドーリーチキンが美味しいな

インド料理というのは結構久しぶりかも。
まずはタンドリーチキンをつかったサラダを注文。


↑机の上をみるとこんなのがあった。なんかすごい体験をしたくなるでしょ。

長男は、豆のカリーが食べたいといった。
京男は、カシミールカリー。
メニューの説明によると「カシミール地方の人は、辛いカレーを好んで食べるそうです。辛さに自信がある人は試してください。全部食べた人にはチャイをサービスいたします(辛さ5倍)」
そうなんだ。
各々ナンで食べる。


↑どちらが辛いかみたらわかりますね

最近、顔を覚えられているからカシミールカリーを頼んでも聞き直さない。
ちょっと寂しいかも。



長男にちょっと味見をさせてやったら飛び上がった。
テレビのバラエティのリアクションだ。
ほんとなんだ。(笑)
確かに辛いけどね。
父親の実力がちょっとわかったか。
まあ、あまり誇れることでもないけど。



無事カレーをいただいてチャイを飲みました。


RAJU山科店

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狛いのししは夫婦?

2010年08月25日 05時46分21秒 | 社寺


歩いて祇園や四条河原町方面にいく時は、大抵建仁寺の禅居庵の前を通る。
いまぐらいの時期は結構観光の人も少なくゆっくりできます。



禅居庵は、摩利支尊天(まりしそんてん)がお祀りしてある。
摩利支天はもともとは陽炎を神格化した女神で、七頭の猪に乗った三面六臂の本尊が祀られている。
摩利支天は一切の災難を防ぎ、身を隠す術を得ると言われ、中世の武士の間に広まり、
江戸時代には民衆に広く信仰された。
ということで境内にはいのししがたくさんやはります。
亥年生まれの人には特に御利益が大きいそうです。
わが家にもひとりいますね。





南禅寺の塔頭寺院の聴松院(ちょうしょういん)でも摩利支尊天がお祀りしてあり、狛いのししがいてはります。
南禅寺の狛いのししは、あまり知られてないかも。





お堂の前の一対の狛いのししさんをじっと観察してみました。
雄と雌であることが判明。
ちょっと失礼だけど、写真を撮ってみました。
狛犬もだけど、後ろから見るとなんだか、かわいいな。

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夏休みも終りやねぇ

2010年08月24日 06時04分22秒 | 和菓子


21、22日は地蔵盆をしてはる町内が多かった。
本来の地蔵菩薩の縁日は24日だからちょっと早いけど、用意をする大人の都合で土日にする町内が多い。
小中学校の時は、地蔵盆がきたら夏休みももうお終いというなんだか切ない気持ちになったものです。
そろそろ夏休みの宿題をしなくては・・・と思うからかも。
京男の場合は、9月の始業式がはじまってから級友と情報交換をしていたものです。
実際に宿題をやったのは図画工作ぐらいかな。
図画工作だけは、いつも表彰だった。
手先だけの子供だった。(口先は小さい時はなかった)
京都駅前の百貨店「丸物※」で展示してもらったな。
※丸物を知る人はきわめて少ないだろうな。後の近鉄百貨店ね。
その近鉄百貨店ももうない、今年の秋にヨドバシカメラでオープンする。



夏休みの宿題で京男は、結構ユニークな工作をつくっていた。
・リニアモーターカー(永久磁石と電磁石を使って)
・電気ショックネズミ捕り(交流の電線を張ってネズミに電撃を与え捕まえる)
・回転式本棚(ビー玉をたくさんつかって)
・集音器(録音機と組み合わせて)
・潜望鏡(鏡とレンズを組み合わせた本格派)
・ジュースの自動販売機(画用紙でつくったたわいないものでしたが)



『夏休みの友』は、出版元に電話して答付きのものを手に入れていた。
こういう悪知恵だけは、小さい時からあったようです。
夏休みの昼間は、家にほとんどいなくて、若王子プール、疎水、白川で泳ぎ。
吉田山でブンブン、カミキリ、クワガタ、カブトを仕掛けを作って捕り。
如意ケ嶽(大文字山)や南禅寺方面で水晶や椎の実を探して走りまわった。
出町柳あたりの鴨川へ行っては、魚を捕りたき火をして食べていた。
当時の鴨川は、高野川上流の染色工場の影響で汚い水だったのにね。
イモリやザリガニも友人のお寺の池に釣りにいったな。
たくさん捕って二条の黒焼屋に売りに行こうとしていた。
わが家の子供はそういう夏休みをしていない。
彼らの行動範囲は驚くほど狭い。
これからのサバイバルの時代に生きていけるだろうか・・・。



映画だってひとりで観に行ったのが小学校の4年だった。
幼稚園前から父親に連れられて映画を観に行っていたからさほど抵抗はなかったのかも。
映画『ニュー・シネマ・パラダイス』の感じがよくわかる。
あの映画中の映画をジッと家のテレビで観ていたのを憶えています。




↑長久堂「処暑」


↑みじん羹、こなし、煉切、白こしあん

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化粧のりがよろしいな・・・地蔵盆

2010年08月23日 04時46分11秒 | 行事


夏の行事の最後が地蔵盆。
あっちの町内、こっちの町内でお地蔵さんをおまつりしていた。
最近、子供がすくのうなってきて、いてはるのは元子供ばっかり。
地蔵菩薩の本来のご縁日は24日だけど、どうしても大人の都合で土日にするところが多い。



この日は、お地蔵さんを洗い清めて新しい前垂れを着せ、化粧をして飾り付ける。
お地蔵さんは、中近世以降子供の守り神として信仰されるようになった。
広く知られた伝説によれば、地蔵菩薩が、親より先に亡くなった子供たち(親より先に死ぬのは不孝といわれている)が賽の河原で苦しんでいるのを救う。
そういえば妹が中学の時亡くなったのですが、その時、火葬場には親はいけないという決まりになっていた。だから私が行ったのを憶えている。


↑渋谷街道沿いの永田町の地蔵堂なんです。でも政治家はいません。

「賽(さい)の河原の石積み」というのは、やってもやってもやり遂げられない事を、際限なく続けるという苦しみ、悲しさ、空しさをいったもの。
この世とあの世の境に「賽の河原」があって、そこは石ばかりがゴロゴロしている川です。(行ったことがないのでようわかりません)
死んでも回向(えこう)※1もしてもらえないので、仏の世界に行けない子供たちが、みずからが何か功徳(くどく)※2を積んで仏の国に行こうと考えた。
考えてやったことというのは、石を積んで「仏塔」を建てようとするのですが、石が丸くて中々積み上げられない。
やっと少し積み上げると、そこに大鬼が出てきて、折角のものを壊してしまうというのです。子供は仕方なくまた泣きながら、石を積み始めるのですが、また鬼が出てくる・・・。
その繰り返しの苦しみから、地蔵菩薩が出て来て助けてくれるというのです。
この地蔵信仰は考えてみると、子供を死なせた切ない親の子供に詫びる思いから出ているものでしょう。
虐待の事件の子供たちもやっぱり賽の河原で石積みするんだろうか。
だとしたら切ないな・・・。
お地蔵さん、なんとかしてあげてくださいね。
お願いします。
※1 回向/自己が行なった修行や造塔・布施などの善行の結果を、自己や他者の成仏や利益(りやく)などのために差し向けること。
※2 功徳/現世・来世に幸福をもたらすもとになる善行



ちなみに地蔵菩薩は釈迦の入滅後、56億7000万年後(!)に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救う菩薩さんなんです。だから仲良くしておいた方がいいだろうな。



町内によっては、地蔵盆当日の朝に「数珠回し」を行う。
町内の子供が、直径2~3メートルの大きな数珠を囲んで座り、僧侶の読経にあわせて順々に回すというものである。
こんな行事を通じて、子供たちに教えていたんだろうな。
最近は、そういう宗教的なことはダメという人も多い。
単なる子供祭とするところも多いそうです。
こういう行事は無形の文化財だと思うんだけどな。
町内の大人で子供や老人を見守って行く方がコスト的に安くつくと思うんだけどな。


↑お供えのお料理がすばらしい

昔の地蔵盆は、野外で映画大会があったり(化け猫の映画が怖かった)、福引で「ふごおろし」という福引担当の家の向かいの家から渡したロープにつるし紐で手繰り寄せた。その後、その品を紐で1階へ下ろして渡すものなんです。
おやつは蒸し芋だったな。
最近の子供で蒸し芋をおやつといったら、どんな顔をするだろう。
「繊維質があって、お通じもようなって、ビタミンCがいっぱいで美容やダイエットにぴったり」といわんとあかんかも。


↑こういうお供え料理も次世代に伝えてほしいですね

この地蔵盆が終わったら夏休みも終り。
そろそろ宿題をしなくては・・・と思うやるせない時期なんですわ。

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千鳥紋ってかわいい

2010年08月22日 05時39分11秒 | 風景・和菓子


千鳥といえば先斗町ね。
鴨川の冬の鳥、千鳥をモチーフに1872年「鴨川をどり」の時につくられたそうです。
昔は、京都でも千鳥が多かったみたいですね。
最近は、少ないかも。
「千の鳥」という意味では、たくさんいたんだろうな。
鳴き声が「チ」→「千」ということで「千鳥」となったというのもある。
俳句の季語的には「冬」ね。



先斗町は京都五花街のひとつ。
この五花街もともとは、六花街だったらしい。
島原、上七軒、祗園甲部、祗園東、先斗町、宮川町の6つ。
島原が茶屋営業がなくなったので五花街になりました。
最近、お茶屋で遊ぶ旦那衆も減ってきたんと違うかな。





先斗町もずいぶん景色がかわってきた。
なんか寂しいな。





この先斗町の「先斗(ぽんと)」は、ポルトガル語の「ponta(「先端」の意味)」ハイカラな名前なんだ。



現在は、狭い路地のために、消防法などにより、建て替えを行う場合には路地から壁面を後退させなければならず、町並みの維持が危ぶまれているんだそうです。確かにここが火事になったら大変だろうな。
大阪の法善寺横丁みたいになるだろうな。
でも火事は怖いしね。


↑二條若狭屋「浜千鳥」


↑上用、こしあん

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これで夏バテが解消するか?

2010年08月21日 05時00分42秒 | 

↑嗚呼!!石焼まぶし!

もう夏バテでボロボロ状態なんだろうか・・・自覚はないけど。
いまさら、鰻ぐらい食べても同じかも。
なんて思いながらも、出張先でごちそうになりました。
ごちそうさまでした。
本日の鰻と8月18日記事と比べてみてください。
京都と三重県四日市方面と質と量が全然違います。
値段はほとんど同じなのに・・・。
京都市内で、寿司、天ぷら、鰻はやっぱり高い!
昔は雑魚だった鱧まで高い。


↑佃煮風鰻

夏バテを防ぐために鰻を食べる習慣は、日本では大変古くからあるようです。
『万葉集』にまでその痕跡をさかのぼる。
その頃は、鰻を筒切りにして蒲(がま)の穂風にして焼いて食べたらしい。
だからがま焼→カバ焼となった。


↑白焼き、ひょっとして梅肉で食べるのもありかも。

いまのように開いて料理するようになったのは江戸時代後期なんだそうです。
鰻は、ビタミンAが豊富で100グラムで成人一日分の二倍含まれている。
ビタミンAは脂溶性で油と一緒にとると吸収されやすいものですが、
EPAやDHAという栄養学上質の良い脂肪をたっぷり含んでいるウナギは、
効率よくビタミンAを吸収できるというもの。また、ビタミンB1、B2やミネラルも多く、
疲れ目や疲労感、倦怠感の回復に効果があり、夏バテ解消やスタミナ補強には最適なたべものです。
でも毎日京都で鰻を食べたら夏バテにはいいかもしれませんが、財布が夏バテになってしまうかも。


↑鰻巻き



土用の鰻というけど、鰻の旬は冬眠に備えて身に養分を貯える晩秋から初冬にかけての時期で、
秋から春に比べても夏のものは味が落ちるらしい。
鰻って冬眠するんだ!


↑石焼まぶし定食

それと鰻の刺し身って食べたことがないでしょ。
なぜか?
毒があるんですよ。血液に。
イクシオトキシン (ichthyotoxin)というタンパク質性の神経毒がある。
穴子にも含まれているそうです。
タンパク質性ということで60度5分程度の加熱で不活性化できます。
だから基本的に生では食べない方がいい。
口に入ると下痢、吐き気などの中毒症状を、目に入ると結膜炎を引き起こす。
また傷口に入ると炎症を起こす。
大量に食べると死亡する。
調理する人も目に血液が入ったり、指にケガをしている時は注意をするらしい。
生煮えの肝吸いとかは、危険なのかもね。


↑焦げ目がなんとも美味しい

それとは別に、皮膚の粘膜にも毒素があるそうです。
鰻のつかみ取りとかはしない方がよさそうですね。


↑薬味をのせて~

鰻食物禁忌というのがある。
鰻を虚空蔵菩薩の使いとして、またはうなぎに災害から救われたので
食べることを忌避するという伝承を持つ地域がある。
でもまだ狛鰻というのは見かけたことはないな。


↑出汁をかけて~

鰻は幼魚や卵が見つからず繁殖の過程が謎であったことから、古来山芋が変じて鰻になるのだという俗説があった。
そのため、事物が向上発展することを指す「山芋鰻と化す」という表現があった。
「つかさ」地図

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水遊び

2010年08月20日 05時50分39秒 | 和菓子


それにしても今年は、暑さが厳しいですね。
異常気象とあまり言わないぐらい異常。
蝉も鳴くというより泣いているか叫んでいる感じがする。
外に出るときは紫外線対策をするのはいいけど、厚着になる。
さりとて軽装で出て行くとクーラーで冷えてしまう。
朝は汗まみれで目が覚める。
外出すると汗。
一日何回もシャワーのお世話だ。
あんまり水に晒していると、
大切にしているアクが抜けてしまって普通の京男(?)になるかも。



今年はオープンカーの時、指先のないタイプの手袋で快適にすごしたけど、
第二関節までだけ日焼けして、なんかカッコ悪い状態の手になった。
こんな状態だったら手モデルができひんし・・・なーんちゃんって。
BGMじゃなく本物の川のせせらぎが聞こえる部屋で仕事がしたいな。
夏場は、貴船の川床みたいな状態のオフィスなんてのはどうだろう?
快適かも。鉄砲水の危険性はあるけどね。
PCの横で、アマゴとか焼きながら原稿なんてのがいいだろうな・・・。
なんか暑さと「量子真空について」とか「宇宙の構造」とか考えていると頭の中が妄想でいっぱいになってきた。(笑)



こういうのを見ると涼を感じますね。
食べてみるとそうでもないのですが。
「水遊び」という名前って祇園で遊んでいるイメージやな。
「火遊び」よりは安全か・・・。


↑長久堂「水遊び」


↑吉野羹、煉切白あん

今日はなんか調子が外れていますね。暑さのセイか。

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カンカン貫?・・・清水寺

2010年08月19日 06時04分18秒 | 社寺


これは、清水寺の玄関口の仁王門、通称赤門。
清水寺に行ったら絶対目に入りますよね。
清水寺の不思議がこの仁王門にある。





向かって右側の柱の木口にカンカン貫(ぬき)といわれる場所がある。



よく見ると下の方がくぼんでいる。
一人が反対側に行き、耳をあて、一人が爪で叩くと
その音が反対側でその音が電話のように聞こえる。
残念ながらこの時は一人だった・・・。



以前にこの足跡を紹介したことがあります。
実は、これ仏足石じゃないらしい。
弁慶か平景清(たいらのかげきよ)の足跡らしい。
そういえば仏足石独特の模様がない。
なんでそうなんだろう・・・不思議やな。
清水寺は、平景清と縁が深いのかな。
私は落語ぐらいしか知らないんです。
能とか謡曲、浄瑠璃はあまり観ないし。
歌舞伎もあるらしいけど。
そう思ったらまた行く機会もあるのかもね。

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うなぎ~!

2010年08月18日 05時27分52秒 | 
もう10日以上前の話。
次女の誕生日だった。
ちょうど京男と京女二人で高島屋に買い物へ行く。
出先から同じあたりにいる次女と合流。


↑日本一の鰻というのがもうひとつわからない。
 この人をみてやめようと一瞬思った。

「誕生日だけど、なにか食べたいものある?」と次女に聞く。
次女は「うなぎ」とのこと。
「どこのうなぎがいいの?」と聞くとかねよという。
彼女なりにハレの食べ物なんだろうな。
私なら「かね正」か「松乃」あたりだろうけど、彼女は知らないのです。
「わらじや」だって知らない。
それでいい。
次女が幼稚園に行く前ぐらいに二人で稲荷山に散歩に行ったことがある。
なぜ二人だったのかは忘れました。
その時、山道をヘビが横切ったのです。
次女はそれを見て「ウナギ!」と言ったのが忘れられない。
きっと好きだったのね。

さて「かねよ」に行くと結構な人。
テーブルは満席状態。なんとか一席開いていた。ラッキー!
テレビで紹介でもされたのかな・・・。


↑上等と並はお漬物にも差がでている


↑これが昼食奉仕品のかねよ丼、なんかしょぼいでしょ。

ただ私たち夫婦は、あまり食べたくなかった。
次女だけ、「上等きんし丼」ときも吸物を注文。


↑上等きんし丼

大きなだし巻き風の卵が乗っています。
もちろん関東風の卵焼きではありません。
こんな大きさで砂糖がいっぱいなら泣いてしまう。
京都の人間は、あの甘い卵焼きは許せないんですよ。
はじめて食べた時はショックだった。


↑あっちの席、こっちに席でこうやって布団をめくって撮影したハッタ。
 なんだか恥ずかしいな。

やっぱりだし巻きが美味しいな。
この卵が乗っていることで直焼きの鰻がふっくらする。
これは家でつくる時のヒントになりますね。
安物の蒲焼をこういう風にすると上等な味になる。



これはきも吸い。
次女の好きな小物なんかのメーカーは、アナスイ。
鰻のきもは、ビタミンAがいっぱい含まれているから夜盲症には有効。
つまり眼球の網膜細胞を保護してくれる。
だから食べるといいんですよ。
心当たりの人はぜひどうぞ。

でも四日市あたりで食べる鰻の方が圧倒的に美味しいし、値段も安い。
京都では、鰻を食べるのは難しいな。
数日後に四日市の鰻を紹介しますね。

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お精霊さんまたね・・・五山送り火

2010年08月17日 05時35分37秒 | 風景・和菓子



↑昼間見える左大文字

昨晩(16日)は京都五山の送り火でした。
他府県の人からすると観光だろうけど、京都に住む人間にとっては違う意味合いがあるのが「送り火」。
よく他府県の方から「大文字焼きは、どこで観たらいいですか?」「どこか泊まるところはないですか?」などと電話をもらう。
「大文字焼き」とは、地元ではいいません。
そういわれると京都人は、ムカッとする。
「よそさんは、よう知らはらへんし・・・」


↑左大文字


↑今年は山が枯れていて延焼の可能性があるということで薪が少なかったそうです

この五山送り火は、お精霊さんをふたたび彼岸へお帰りいただく精霊送りの意味を持つ宗教行事なんです。
だから本来ならしっかり手をあわせてみないといけない。
ちょっと前ぐらいなら、京都市内の電気はかなり消していたな。




↑船形


↑実際はこんな感じで見えています

特に初盆を迎える家庭にとっては、送り火は格別の感慨がある。
送り火が涙で滲んで見える年は辛いものがあります。
そっと静かな場所で観るのにかぎる。
チラッとでいいから手をあわせてみたいものです。


↑鳥居形

この送り火、昔はたくさんの山で行っていた。
いまは、五山で行っている。
8月16日点火時間は
午後8時「大文字」
午後8時10分「妙法」
午後8時15分「船形」
午後8時15分「左大文字」
午後8時20分「鳥居形」
今年は、マンション裏の山の斜面から拝みました。
「船形」と「左大文字」と「鳥居形」が観える。
人はたくさんいないし充分です。
清水寺のお寺の鐘も鳴っているのが聴こえるしね。
今年は風があり涼しい風が吹いていました。


↑長久堂「燃ゆる山」

送り火が終わったらお盆もお終い。
後は地蔵盆が終わったら夏も終りです。
やっと夏が終わる。
なんとか乗り越えたかも。


↑外郎薯蕷、煉切、白こしあん

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