まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

ほとぎす 梅雨明け時期は まだまだか

2017年07月18日 | 観光ガイド的日常

 さぬき市地方は、気圧の谷や湿った空気の影響で東部を中心に雨や雷雨となっていた。気温は26.2度から30.0度、湿度は88%から72%、降雨量は2mm/hから13.0mm/hと台風並みの激しい雨が降った。風は4mから7mのこれまた台風並みの強風が吹き荒れた時があったが、夕方には青空が見えるようになってきた。明日の19日は、高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

 

 激しい雨が降る中、お約束だからと、今日も前山に向かった。毎週火曜日は「前山出勤」の日なのである。

 

 一時は、雨で車の天井に穴が空くかというような土砂降りやら、激しい雷鳴やらで、「これでは遭難してしまうかも・・」と思うような激しい雨が・・・。

 

 でも、前山おへんろ交流サロンに着くと、すっかりと落ち着いていて雨もあがったみたい。さすがに、今日は歩き遍路の姿はなかった。

 

 で、ここに出勤するメンバーも通常に出勤してきた。

 

 先週に出された不明な点や追加の情報などを皆さんに配って見て頂いた。ま、あれこれと、修正事項も出てきた。その都度、修正していくしかない。

 

 今日は、秋のツアーの話で、「大窪寺まで歩くおへんろウォーク in 大窪寺」のプランの確認やらキャッチフレーズ作りなどがメインになってしまった。秋の紅葉シーズンに、旧おへんろ道を歩いて、門前のうどん屋さんで打ち込みうどんを食べる・・というプランである。

 

 さて、この看板だが、お大師堂が完成した図だが、便所もないし、寶杖堂も原爆の火もないし、修行大師の前に、ミニュチュアのお大師さんがずらりと奉納されていたものもない。私はこの頃、何をしていたんだろうかと考えていた。昭和58年、9年頃といえば・・・。

 

 昭和58年といえば、おしんが大ヒットした年であり、ロッキード事件で田中角栄に実刑判決がおりた年。59年にはグリコ森永事件のあった年。民営化前の電電公社最後の年だった。そういう年にお大師堂ができたのか・・・。

 

 仁王門ができたのが平成2年だと言われている。この頃は、「パソコン通信担当」とか、「OA推進担当」とかという職場にいた頃。

 

 東西ドイツが統一したり、

 

 ソ連が崩壊したり、バブルがはじけた頃・・・。そういう時期に、あの巨大な仁王門が作られたのか・・・。その頃は、オフコンのセンター管理ということで、マシン室で寝泊まりしていた時代。大窪寺の動きなどは眼中になかったのかも。

 

 私が子供の頃に遊びに行った大窪寺は、今の「二天門」から「本堂」に向かう、まっすぐな参道だけだったような気がする。今の納経所がお大師堂だった時代。自分史年表と対比してみれば、ああ、そうだったのか・・・みたいな感想をもったことだった。

 

 今日の掲示板はこれ。「生きるということは 思い通りにならないということが はっきりとわかることです」というもの。真宗大谷派の「祖父江文宏」先生のことばである。この言葉を残された祖父江文宏さんは、長年、児童養護施設「暁学園」の園長を勤められた方だという。祖父江さんは子供を尊重し、「子供」と言わず、「小さい人」と呼んでおられたそうで、体を張って虐待をうける子供を保護してこられた、その姿勢は子供たちに伝わり、子供たちから親しみをこめて「園長すけ」と呼ばれていたとも聞いている。この掲示板の言葉は、その祖父江さんの姿勢をつらぬく芯のようなものではないかと思っている。この思い通りにならないからこそ、人は苦しみ、悩み、怒り、泣き、わめいて、暮らすのだ。それが「生きること」だからである。そのことをはっきりとわかれば、悩みも怒りも悲しみもそねみもやわらかくなるというのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。



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