礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

文部大臣・平生釟三郎の漢字廃止論

2012-10-03 05:36:31 | 日記

◎文部大臣・平生釟三郎の漢字廃止論

 昨日のコラムで引用した文章に、平生釟三郎〈ヒラオ・ハチサブロウ〉という名前が出てきた。成蹊学園の創立者・中村春二の胸像の除幕式で、祝辞を述べた文部大臣である。
 この平生釟三郎は、カナモジカイの会員であり、漢字廃止論者であった。平生がこの除幕式に参加したのは、おそらく「かながき」運動の過程で、生前の中村と交流があったからではないかと推測する。
 平生が文部大臣になったのは、一九三六年(昭和一一)三月である。この直前に、二・二六事件があった。殺害されたと思われていた岡田啓介首相は、実は生存しており、二月二七日、反乱軍が包囲する官邸から、奇跡的に脱出する。しかし、二月二九日には、内閣総辞職。その後、三月九日になって、広田弘毅〈ヒロタ・コウキ〉内閣が成立、同内閣で文部大臣に就任したのが平生釟三郎であった。当時、甲南学園理事長、川崎造船社長、貴族院議員であったという。
 同年五月一日、第六九特別議会召集。この議会で、立憲民政党の斉藤隆夫が「粛軍演説」をおこなったことは有名だが(五月七日、衆議院)、本日の話題はそれではなく、五月九日に貴族院でおこなわれた平生釟三郎文相に対する質疑答弁である。
 以下は、島田春雄『明日の日本語』(冨山房、一九四一)という本からの引用である(八一~八三ページ)。

 二・二六事件の直後召集された第六十九議会が、異常な緊張のうちに論戦の峠に登りかけた五月九日、貴族院本会議は午前十時半から国務大臣の演説に対する質疑に入つた。この時同成会の加藤政之助氏起つて〈タッテ〉左の如き七箇条の質疑事項を挙げて、文部大臣の答弁を要求した。
 一、昭和五年二月十日「漢字廃止論」と題する著作を起草し、これを公刊頒布した平生文相は、今なほその書籍が版を重ねて頒布されてゐる事実を認められるか。
 二、文相はこの説を今なほ心中に堅く持し、これによつて行動されつつあるか。
 三、漢字廃止を実行するとすれば、詔勅、勅語等に用ひられてゐる漢字を仮名に改められる考へであらうか。.
 四、皇室典範、憲法、諸法律、諸規則等の文書もまた漢字を禁ずる考へであらうか。
 六、伊澤修二氏〔教育学者、貴族院議員・伊澤多喜男の兄〕が初め熱心な漢字廃止論者であつたが、実行の結果却つて〈カエッテ〉漢字存続論者となつたことを御承知か。〔「五」は欠〕
 七、漢字廃止は東亜に於ける日本の天職遂行に逆行するものではなからうか。
 右の質問に答へるために壇上に起つた平生文相は、経済界から文教の府に入つた人にしては、珍しく該博な文字論を以て答弁し、満場を傾聴させたが、質疑に替へつつ平素〈ヘイソ〉懐抱する漢学廃止論を長時間に亘つて強調したために、貴衆両院を通じて質疑が続出するに至つた。

 伊澤修二という名前が出てくるが、これは吃音矯正の研究と実践で知られた教育学者である。その弟の伊澤多喜男は、官僚出身の貴族院議員で、貴族院の院内会派・同成会の中心的人物だった。ちなみに、劇作家の飯沢匡〈イイザワ・タダス〉は、伊澤多喜男の次男にあたる(本名・伊澤紀〈タダス〉)。
 島田春雄の『明日の日本語』は、このあと四九ページにわたって、「速記録」を引用している。これを、すべて紹介するわけにはいかないが、とりあえず、平生文相の答弁の冒頭部分を紹介してみよう(原文はカタカナ文だが、これをひらがな文に直した)。

 〇国務大臣(平生釟三郎) 只今加藤君より御質疑になりました件に付きまして御返事を致します。私は漢字廃止を致さうとして居る者であります。但し漢字を全廃して仮名文字ばかりを使ふことはずつと将来のことであつて、今の所は民間で自由に研究し又運動をやつて見るのが宜いと思つて居るのであります。政府と致しましては之を直ちに断行しよう云うやうなことを考へて居るものありませぬ。私は我々の祖先が日本の国語を書き表すのに最も適するやうに拵へて〈コシラエテ〉呉れました仮名文字で日常の生活が出来るやうになることが必要であると信じて居る者であります。私は民間に於て此の運動をやつて居りまして、又国字問題は日本国民の斉しく〈ヒトシク〉注意を払ふべき重大問題だと思うて居るのであります。何故〈ナゼ〉私共が漢字廃止を唱へて居ると申しますれば是は我が国文化の進展の為め極めて必要なことであると信じて居るからであります。

 この続きも、少しずつ紹介してゆきたいと思うが、おそらく、数日を置いて、そのあとになる。それにしても、二・二六事件の直後の特別国会で、「漢字廃止論」が話題になっていたとは知らなかった。

今日の名言 2012・10・3

◎仮名文字で日常の生活が出来るやうになることが必要である

 カナモジカイの会員にして、文部大臣であった平生釟三郎〈ヒラオ・ハチサブロウ〉の言葉。第69議会(1936)速記録より。上記コラム参照。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 中村春二、「かながき ひろ... | トップ | 警察庁長官狙撃事件は、なぜ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事