礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

吉本隆明のフロイト理解は誤り(片岡啓治)

2017-04-17 03:02:19 | コラムと名言

◎吉本隆明のフロイト理解は誤り(片岡啓治)

 山本哲士氏の大著〝吉本隆明と『共同幻想論』〟(晶文社、二〇一六)は、吉本隆明思想の「読み方」を示した本である。これは、山本哲士という思想家が、吉本隆明という思想家を読み解いた本なのであって、これが吉本思想に対する唯一の「読み方」ではないことは、あえて言うまでもない。
 実は、〝吉本隆明と『共同幻想論』〟という労作を、まだ精読しておらず、通読すらしていない。したがって私には、安易に感想を述べる資格などないわけだが、今の段階で、ひとつだけ感じていることがある。それは、『共同幻想論』(初版、一九六八)が出た当時、同書に対し抱いた印象と、山本哲士氏が、この本で解説の対象としている同書の印象が、まるで異なるということである。
 山本哲士氏は、多年の研鑽の結果、ここに、『共同幻想論』についての周到な解説を示されている。その「読み方」に対しては、当然、敬意を表さなければならないわけだが、どこか腑におちないところがある。この違和感は、たとえ、山本哲士氏の大著を精読し終えたとしても、変わらないような気がする。

 ところで、本年一月二三日のブログで、「英雄は理解されぬまま小人に亡ぼされる」というコラムを書いた。
 片岡啓治著『幻想における生』(イザラ書房、一九七〇)から、「6 『共同幻想論』批判」という論考を紹介したのであった。
 こうした論考に接すると、『共同幻想論』が出た当時、同書に対して抱いていたイメージが、まざまざと甦る。私にとっては、ここで、片岡が論じている『共同幻想論』こそが、リアルな『共同幻想論』である。山本氏の〝吉本隆明と『共同幻想論』〟を少し読んだ後なので、よけい、そう感じるのかもしれない。
 前記コラムでは、「6 『共同幻想論』批判」の冒頭部分を紹介したにとどまり、片岡が、具体的に、どういう形で、吉本隆明『共同幻想論』を批判したのかについては、全く踏み込めなかった。
 本日は、片岡が、同論考で、どういうふうに、吉本『共同幻想論』を捉えていたのか(批判していたのか)を見てみたい。
 一月二三日に紹介した「冒頭部分」のあと、片岡は、一行あけて、次のように述べている。
 
 問題はたんてきにはじめられなければならない。
「共同幻想論」の序で、吉本氏は、この書の基本的な主題である「幻想」について、次のように問題を設定している。
「……全幻想領域というものの構造はどういうふうにしたらとらえられるか……」「どういう軸をもってくれば、全幻想領域の構造を解明する鍵がつかめるか」
「僕の考えでは、一つは共同幻想ということの問題がある。それが国家とか法とかいうような問題になると思います。
 もう一つは、僕がそういうことばを使っているわけですけれども対幻想、つまりペアになっている幻想ですね、そういう軸が一つある。それはいままでの概念でいえば家族論の問題であり、セックスの問題、つまり男女の関係の問題である。そういうものは大体対幻想という軸を設定すれば構造ははっきりする。
 もう一つは自己幻想、あるい個体の幻想でもいいですけれども、自己幻想という軸を設定すればいい。芸術理論、文学理論、文学分野というのはみんなそういうところにいく」|
「幻想」が共同性の位相を獲得してゆく契機として「対幻想」をおき、「対幻想」が「家族」として実体化される契機として「近親相姦」の「禁制化」をおく、氏の立論からするなら、論がまず「禁制論」として着手されるのは当然といわねばならない。
 さてその「禁制論」の冒頭で、「禁制」という概念に「まともな解析をくわえた人物」としてフロイトにふれつつ、氏は次のようにのベている。「かれは人間の心的な世界を乳幼児期からレンガのようにつみかさねられた世界とみなしている。もちろん、人間の心的な世界は幻想だからレンガのようにつみかさねられるはずがない。現在の心的な世界は、ただ現在ある世界であって、どんな意味でも過去からつみかさねられるはずがない」と。
 しかし、この考えは、フロイトを仔細によむならば誤解であることは明らかである。【中略】

 吉本隆明は、その「禁制論」をフロイト説の紹介からはじめている。片岡啓治は、吉本のそのフロイト理解が誤っているという。
 片岡は、「問題はたんてきにはじめられなければならない」と述べている。端的に言えば、片岡は、吉本の『共同幻想論』を、最初から(その根底において)、批判しようとしているのである。
 右のしばらくあとで、片岡は、次のように言う。

 むしろ、「レンガのように」といった空間的に定型化された比喩で理解されるべきは、この「共同幻想論」を通読したかぎりでは、吉本氏の立論のほうであるようにおもわれる。
 すなわち、先にみたような「幻想」の三つの位相〔自己幻想・対幻想・共同幻想〕を想定した独自性はみとめるとしても、その三つの位相の意味はそれら三者がたえず相互的な力動の関係にあるかぎりで有意でありうるのであって、それらが相互の流動性と変容の力動をもたず固定的範疇化されるときには単なる解釈学に一つの解釈をくわえるだけのことでしかない。【中略】
 おもうに、「共同幻想」と「対幻想」の力動的関係は、単なる「逆立」といったあいまいな比喩的表現でつくされうるものではない。この両者の関係について、「逆立」といった比喩よりも正確な規定を、われわれはついに吉本氏の口からきくことができないでいるのだが、氏の幾つかの言葉からわずかにそれを類推するほかはない。

 片岡のこの文章を初めて読んだのは、一九七〇年代初めのことである。当時の私が、この吉本論を理解しえたのか、あるいは、それをどう受けとめたかなどについては、ほとんど覚えていない。しかし、なかなか鋭い批判だという印象を受けたことだけは覚えている。

*このブログの人気記事 2017・4・17(4・8・10位に珍しいものが入っています)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする