◎警察から邪険にされた幣原喜重郎
昨日の続きである。二・二六事件の勃発で、幣原喜重郎が都落ちのため駒込の六義園を出るところから。
ずっと自動車で市内を廻り廻つて行ったが、鎌倉へ行くには宮城〈キュウジョウ〉の前あたりを通らなければならない。雪はどんどん降っている。兵隊が到るところに屯ろ〈タムロ〉していて、通る人を誰何〈スイカ〉している。
この大雪の中で、この宮城の前で、いよいよ私の最後を飾るのかと、気持ちを落ち着けていたが、幸い発見されないで、二時間もかかって鎌倉へ着いた。
無事に鎌倉の家に着いて、ホッと一息ついているところへ、サーベルの音がして、また署長がやって来た。ここは行政区画上管轄は鎌倉署でなく、葉山署であった。葉山の署長は、
「誠に済みませんが、鎌倉市内でもどこか葉山署の管轄区域外へ行って頂きたいのです」
という。そのわけは、葉山の管轄内には宮様がたくさんおいでになる。警察の手がとでも足りない。そこへ私に来られて、どうにも繰合せがつかないというのである。私は、
「鎌倉市内といっても知った家はないが」
というと、
「海浜ホテルでも結構です」
という。海浜ホテルだとて私が泊ったら、多数の警察官がホテル内外に立番するに違いない。人出入〈ヒトデイリ〉の多い旅館内外に突然多数の警察官が立番すれば、ますます人目に立つだろう。それでは泊り客はもちろん付近が騒々しくなって、皆に迷惑をかけることになると思われたから、私は、
「あなた方は私の身体を保護するつもりでそういわれるのは誠に有りがたいが、もう保護は要りません。私自身それを放棄します。ここは私の家ですから、しばらく滞在しますが、あなた方は引取って下さい。そのため私が危害を受けても決して苦情はいいません」
といって保護を断わった。この流儀で、警察官が興津の西園寺〔公望〕公を何処かへ連れ出したらしいが、私は頑として応じなかった。そして四、五日経った。その間に、牧野伸顕〈マキノ・ノブアキ〉さんが湯河原で襲われたことを知った。しかし私のところまで、わざわざ殺しに来る者はなかった。
それから一週間ばかり経って、私は勝手に鎌倉から東京へ帰った。それは先日急いで身支度を整えず都落ちをしたので、日常生活の必要品に不自由を来たしたためであった。するとまた駒込の署長がやって来て、
「だいぶ世の中が静かになって来ましたが、決して安心出来ません。それでもう少し落ち着くまで、御親戚なり、お友達の家なりに身を隠してくれませんか」
という注文であった。私はそれを断わって、
「何処に隠れていても、やられる時はやられる。僕はやられても仕方がないが、僕をかくまってくれた家を騒がすことになる。そんな事はさせたくないから、死ぬならここで死ぬ方が遥かに気楽だ。ここならば逃げようと思えば逃げられる。庭は何万坪もあるのだし、人の気付かんような穴みたいなものや、いろんな隠れ場所もあるから、あなた方の心配は無用に願いたい」
と頑張って、駒込の家に留まった。警察では非常に神経を病んでいた。幸いに何事もなかったが、実に不愉快な時代であった。
これを読んで、つくづく、幣原喜重郎というのは、人がいいと感じた。彼は、葉山署長に対し、「あなた方は私の身体を保護するつもりでそういわれるのは誠に有りがたいが」などと言っているが、本気でそう思っていたのだろうか。
要するに、羽山署長は、あなたが管轄内にいると迷惑だから、出て行ってくれと言っているだけである。この点は、本郷駒込警察署長の場合も全く同じである。相手が、国家の重臣であってもこうなのであるから、零細な庶民に対して、日ごろ、警察がどんな対応をしていたかは、推して知るべしであろう。要するに、この当時の警察というのは、みずからの保身だけを考え、国民の身体・生命・財産を守ろうという使命感は、あきれるほど稀薄だったと言っても過言ではなかろう。
幣原は、自動車で家を出て、宮城の前まで来たとき、「いよいよ私の最後を飾るのか」と感じたと書いている。そんなことなら、家を出て鎌倉に向かうべきではなかったのである。もし出る場合でも、護衛として私服刑事に同乗してもらいたいぐらいのことは言えたし、また言うべきであった。
なお、三菱財閥の総帥・岩崎小彌太は、二・二六事件の発生を事前に察知し、「警視庁出身の護衛二名に護られ」、本郷の本邸を出たという話がある(八月一二日のコラム参照)。当時、警察の対応に何ら期待することができなかったことを考えると、この岩崎小彌太の対処は正しかったと思う。ただ、ひとつ疑問なのは、岩崎は親戚である幣原に、なぜ察知した情報を伝えなかったのかということである。もちろんこれは、「事前に察知」という話を信じた上での疑問だが。
今日の名言 2012・11・29
◎この大雪の中で、この宮城の前で、いよいよ私の最後を飾るのか
幣原喜重郎の言葉。2・26事件の発生当日、駒込の六義園を出て鎌倉に向かった幣原は、途中、宮城前で、死を覚悟したという。上記コラム参照。
「そんな、雨が降るなんて知らなかったんだから、雨合羽なんか用意してるわけないだろ!こんなことやってる暇があったら、さっさと殺人事件の犯人でも捕まえて来い!」と言いかけましたが、逆に私が思想犯として逮捕されても嫌だと思い、その場をやり過ごしました。笑