◎幣原喜重郎と2・26事件
二・二六事件(一九三六)については、このコラムでも何度か取り上げたが、本日は、幣原喜重郎〈シデハラ・キジュウロウ〉の二・二六事件体験を見てみよう。
幣原喜重郎は、大正末期から昭和初年にかけての、いわゆる「幣原外交」で知られる外交官・政治家である。二・二六事件当時は、すでに政治の第一線から退いており、反乱軍の標的にされていたわけではなかったようだが、それでも、事件勃発後は、警察署からの要請により、「逃避行」をおこなったという。
幣原の自伝『外交五十年』(読売新聞社、一九五一)から少し、引用してみよう。
それから四年、一九三六年(昭和十一年)の二月二十六日、いわゆる二・二六事件の当日、もちろん私は自分が危険に曝されて〈サラサレテ〉いるなどとは思ってもいない。駒込六義園〈リクギエン〉の一隅に仮住居〈カリズマイ〉して、春眠を貪り、朝の四時か五時ごろ、ふと目を覚ますと、ガヤガヤ人声がする。六義園の広い庭に大勢人が居る気配である。私はソッと雨戸を繰って〈クッテ〉見た。まだ暗いけれども、見ると何処〈ドコ〉から連れて来たのか、一面の警官である。そしてそこに署長がいたから、
「一たいどうしたんです」
と聞くと、署長は、
「私もよくわからんのですが、先刻電話がかかって来て、機関銃を携えた集団が襲来するという話です。それが普通の人の乱暴なら警察の力で十分なんですが、向こうは機関銃を持っているそうです。サーベルと機関銃では、どうも太刀討ちが出来ません」
という。いわゆる寝耳に水で、私は初めてこの突発事件が軍人のクーデタだということを知った。それで署長に向って、
「そうですか、それは大変だ。どうすればいいかな」
というと、
「済みませんが、ここを出て、何処か東京都外に立退いて〈タチノイテ〉頂けませんか」
と署長がいう。つまり私に都落ちをしろという注文である。そこで私は考えた。兵隊がどんどんやって来たら、この大勢の警察官は私を保護する任務を持っているのだから、これは衝突になる。そうすると可哀そうだけれどもこの警察官はほとんど皆殺しの運命に曝される、と思うと気の毒で堪らない。それで、
「なるほどサーベルと機関銃とでは喧嘩になりませんね。よろしい、それじゃ私は退却しましょう。例えば鎌倉辺ならどうです」
「至極結構構です」
という。そこで運転手を叩き起こして車の用意をさせ、私は著物〈キモノ〉を着替えて家を出ようとし。すると、署長がやって来て、
「どうか表門から出るのは止して〈ヨシテ〉下さい。もうじきやって来そうですから、直ぐぶつかります。裏門からこっそり出て下さい」
まるで泥棒でもして逃げて行くような恰好〈カッコウ〉で不愉決だけれども、どうも警察官が私を保護するためにいうのだから、私は理屈なしに裏門から出た。
この回想で、興味深いのは、警察署長が、重臣に対して、「済みませんが」と言って立ちのきを要請していることである。反乱軍から重臣を守るという発想が全くない。「衝突」を避けたいという「保身」の論理があるのみである。なおこの当時、六義園を管轄していたのは、本郷駒込警察署だったはずである。
一方また、幣原のほうも、その署長の要請をやすやすと受け入れている。人がよいというのか、重臣としての自覚がないというのか。警察や重臣が、こういう発想であった以上、決起部隊によるクーデタが成功した可能性も、十分にあったとすべきであろう。
ちなみに、この当時の六義園は、幣原にとって義父にあたる岩崎弥太郎が所有していた。そういう関係で幣原は、六義園に「仮住居」していたのであろう。【この話、続く】
今日の名言 2012・11・28
◎サーベルと機関銃では、どうも太刀討ちが出来ません
1936年(昭和11)の2月26日の早朝、幣原喜重郎の住まいを訪れ、東京からの退去を要請した本郷駒込警察署長の言葉。上記コラム参照。