◎火野正平さんと柏木隆法さんと少年探偵団
先週末、柏木隆法さんから、個人通信「隆法窟日乗」を拝受した。一月五日から二六日までの通信である。
一月五日の通信には、「昨日午前3時3分、拙の母はるゑは天寿を全うしました。亨年98歳。」とあった。御母堂の御冥福をお祈り申し上げます。
一月二四日の通信には、「今日は大逆事件の真相を明らかにする会の集会があるが、今年は体調が悪いのでご無礼することにした」とある。「大逆事件の真相を明らかにする会」は、毎年一月下旬に、東京・新宿の正春寺で、大逆事件処刑の追悼をおこなっているが、本年は、一月二四日に「大逆事件第一〇五回追悼集会」が開かれた。
私が最初に柏木隆法さんにお目にかかったのは、この追悼集会の席だった。柏木さんは、管野〈カンノ〉スガ(一八八一~一九一一)の墓前で、かなり長いお経をあげておられた。正確な年は覚えていないが、この集会で、『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書、一九九六)の著者・阿満利麿〈アマ・トシマロ〉さんの講演があったことを覚えている。
柏木隆法さんの名著『千本組始末記』の復刻につながることを期待しながら、平凡社の長島次郎さんを柏木さんに紹介したのも、この追悼集会の席であった。これは、比較的、最近のことで、二〇一二年一月の集会である。
通信にもあったように、本年は、柏木さんは出席されなかった。しかし、日頃から柏木さんの薫陶を受けている中川剛マックスさんが、岐阜県から参加されていたので、ご挨拶した。中川さんは、昨年の二月に『峯尾節堂とその時代』という本を、風詠社から上梓されている。
峯尾節堂は、大逆事件に連座して死刑判決を受けた臨済宗の僧侶である。その後、特赦で無期懲役に減刑されたが、一九一九年(大正八)に獄死している。中川さんの『峯尾節堂とその時代』は、単行本としては、峯尾節堂に関する唯一の文献であろう。この本については、いずれこのブログで紹介してみたいと思っている。
今回、「隆法窟日乗」を拝読していて、ハッとした記述がいくつもあった。そのうち、本日紹介してみたいのは、一月二一日の記事に含まれていた記述である。まず、一月二一日の「隆法窟日乗」を引用させていただこう(通しナンバー278)。
去年の秋、多治見の修道院に母の用事で出かけた。修道院はドイツ福音派の教会で元臨済宗の破戒僧としての拙なんか縁がなさそうな所だが、拙が生まれた頃は拙の母はちゃんと洗礼を受けたクリスチャンだった。破戒僧といえども拙も子供のころから教会に馴染んでいた。そもそも拙が神父の格好をするとなかなかよく似合う。たしかゴルベスとかいう神父は幼い拙を見て「この子は教会に入れなさい」といわれたそうたが、子供のころはどこか神々しい素質があったようだ。それが全共闘で暴れまくった暴力学生に育ったのだから神父の眼もあんまりあてにはならない。天使の子供というより悪魔の子供であったようだ。拙のミドル・ネームはダミアンか、はたまた堕天使か。母も信仰からは離れてもこの修道院はよく行っていた。名古屋の南山大学は教会と同宗にあたる。拙は幸か不幸か、南山大学やら、上智大学の入るアタマはなかったからせいぜい花園大学だったからこの体たらく。だから仕方がないが修道苑とはいまでもつきあいがある。そこに行った帰りに見たような男が自転車でやってきた。よく見ると二瓶康一だった。二瓶といっても誰も御存知ない。いまの名前は火野正平というそうな。拙とは小3のころから何度も会っている。拙の母が開放性の結核にかかり、拙は東京二子玉川の伯父に預けられた。そのとき新東宝のオーディションがあり、伯父が佐伯清という俳優と知り合いだったことから、拙もエキストラ同様に『少年探偵団』にでることになった。このときの明智小五郎が佐伯清でテレビ版そのまま本編に焼直して公開した。役名は覚えていないが二瓶は小林少年だった。拙は10カ月いただけだったから「かぶと虫の恐怖」が最後だった。段ボール箱と竹の籤〈ヒゴ〉で作ったかぶと虫が戦車のように動き回るところだけ覚えている。小柄で眼玉のギョロリとしていた可愛い子供だった。拙と同じ年だったから直ぐに仲良くなった、ドラマが終わるとそのまま疎遠になってしまった。そこから10年の空白がある。驚いたのはNHKの大河ドラマ『国盗り物語』で火野正平という新人が秀吉を演ると聞いてそれを観たら何と二瓶だった。どういう経緯で『国盗り物語』に出たか知らないが意外と早く再会する機会があった。京都映画の『必殺仕事人』だった。【以下略】
柏木さんが、幼いころ、キリスト教の教会に通っていたことは知らなかった。小学校のころから火野正平さんと交流があったことも初めて知った。しかし、ハッとしたのは、実はその部分ではない。「かぶと虫が戦車のように動き回る」という記述であった。
小学生のときに、東映系の映画館で見た少年探偵団の映画で、「かぶと虫が戦車のように動き回る」場面が出てくるものがあった。今にして思えば、これは一九五七年(昭和三二)に製作された東映映画『少年探偵団 かぶと虫の妖奇』だったと思う。
インターネット情報によれば、火野正平さん(当時は、二瓶康一さん)がテレビ版の少年探偵団に出たのは、一九六〇年~一九六三年だという。しかし、「かぶと虫の恐怖」が放映された日時などは、判明しなかった。
一方、柏木さんは、上記において、二瓶康一さんとは「小3のころから」会っていると書いている。一九四九年(昭和二四)生まれの柏木さんや火野さんが小学校三年だったのは、一九五八年(昭和三三)のことである。若干、年代がずれるが、柏木少年や二瓶少年が、東映映画『少年探偵団 かぶと虫の妖奇』に、エキストラとして出演した可能性が全くないとまでは言えない。
そんな妄想を抱きながなら、柏木さんの文章を興味深く拝読した。
ついでに言えば、この『少年探偵団 かぶと虫の妖奇』という映画は、戦車のようなカブトムシが出てきたところで終わってしまった。この歳になっても、そのことを鮮明に覚えているのは、その時、子どもながらに、どうも納得がいかないという感情を抱いたからである。
しかし、今回調べてみたところ、この映画には、『少年探偵団 鉄塔の怪人』(一九五七)という「後編」があったことが判明した。後編まで見て、初めてストーリーが完結するのである。今さら後編を見たいとは思わないが、後編が存在したという事実を知りえただけで、積年の胸のツカエが降りた気分である。
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