◎国書刊行会第一期完成「感謝の辞」(1909)
昨日は、市島謙吉編『国書刊行会出版目録附日本古刻書史』(国書刊行会、一九〇九年四月)の巻末に置かれた「第一期刊行顛末」から、同会発足時の趣意書「国書刊行会主旨」を紹介した。
この、「第一期刊行顛末」は、全部で二十八節、二十二ページ分あるが、本日は、その最後の節にあたる「感謝の辞」を紹介してみたい。
感謝の辞
国書刊行会が幾多の困難に遭遇して、予定の期間より幾分延びたに拘らず、よく江湖の信用を繋いで出版界稀有〈ケウ〉の大企画を遂げたのは、決して微力の致す所でない、畢竟〈ヒッキョウ〉徳望一代に高き大隈〔重信〕伯爵が此の会を統理せられ、学海の耆宿〈キシュク〉重野〔安繹〕博士が会長の任に在つて総裁を補佐せられた為めに今日の成功を見たのである。豊川〔良平〕理事によつて会が重きを加へたことも甚だ多い。茲〈ココ〉に謹んで感謝の意を表する。
又種々の方面から此の会の事業に援助を与へられた向〈ムキ〉に対して、自分は感謝の情を禁じ得ない。
善本の獲難い〈エガタイ〉ことは前に述べた通りである。然るに内閣記録課、史料編纂掛〈ガカリ〉、宮内省図書寮〈ズショリョウ〉、帝国図書館、帝国大学図書館、静嘉堂文庫等は会の主旨を諒として、貴重図書の閲覧若しくは帯出を許され、朝井秀実、藤田安蔵、田邊勝哉、朝倉亀三、長谷川馺栄、河田羆〈カワダ・タケシ〉の諸氏は借覧について斡旋の労を執られた為めに、非常の便益を得た。早稲田大学図書館の図書を会の需要に充てたことは申す迄もない。
評議員諸氏は選択に就てそれぞれ有益なる助言を寄せられ、又は秘蔵の図書を貸与せられた。中にも井上頼圀〈イノウエ・ヨリクニ〉、萩野由之、吉田東伍、前田慈雲、畠山健、小杉榲邨〈コスギ・スギムラ〉の諸氏は続々群書類従の監修者として、幸田露伴氏は新群書類従の監修者として指導の任に当られた。又赤堀又次郎氏は屡々編輯局に来つて、材料の選択配合、例言の起草等につき最も周到なる注意を与へられた。夫木抄〈フボクショウ〉索引、刊行図書目録も氏の立案によつて出来た。刊行本のだんだん整つたのは氏の力が大に与かつてゐる。
水谷不倒氏は演劇歌曲について、牧野謙次郎氏は詩文について、各自編纂校訂の労を執られ、又大槻如電〈オオツキ・ジョデン〉、山田安栄の両氏を始め、三浦周行〈ミウラ・ヒロユキ〉、和田英松〈ワダ・ヒデマツ〉、佐伯有義〈サエキ・アリヨシ〉、齋藤惇、和田信二郎、加藤才次郞、神田乃武〈カンダ・ナイブ〉、田中勘兵衞、驚尾順敬〈ワシオ・ジュンキョウ〉、保科孝一〈ホシナ・コウイチ〉、穂刈信乃、植松彰、弥富浜雄、沢辺復正、多湖銈作、北村松之助、楢原嘉一郎、鈴木貞次郎、波多野鍈次郎、山内二郎、白石正邦、寺田弘の諸氏は、或は材料を供給せられ或は校訂の労を助けられた。
経営の上には初めより畠山健氏の助言に負ふ所が少くない。吉川弘文館の当事者林縫之助〈ハヤシ・ヌイノスケ〉、相沢敏太郎の両氏が終始印刷配本の事に尽された労も甚だ多とすべきである。
西尾豊氏は好意を以て久しく大阪支部の事務を管理せられ、宮原正喬氏は創業の際京都に於ける多忙の事務を担当せられた。東京の下村房次郎、羽田智證、戸田宇八、鶴岡伊作諸氏、北海道の河東田経清〈カトウダ・ツネキヨ〉氏その他は会員募集の事に助力せられた。
以上の諸氏に向つて深く其の厚意を感謝すると同時に、会の内部に在つて間断なく努力した人々の功労を爰〈ココ〉に表彰しておきたい。功労の第一には編輯主任たる黒川眞道〈クロカワ・マミチ〉、矢野太郎の両氏を推さゞるを得ない。黒川氏は故眞頼〈マヨリ〉博士の令嗣〈レイシ〉、家学を承けて典拠故実に通じ、編輯局の活字典として推重〈スイチョウ〉せられ、又三代秘蔵の珍書稀籍を惜気〈オシゲ〉なく編輯用に供せられた為めに非常なる便宜を感じた。矢野氏は故玄道〈ハルミチ〉翁の令甥〈レイセイ〉、史学専攻の文学士であつて常に自ら進んで難物を引受け孜々〈シシ〉として倦まず、黒川氏と共に校訂校正を督励せられた。次に堀田璋左右〈ホッタ・ショウゾウ〉、山崎弓束、馬瀬長格、米光関月〈ヨネミツ・カンゲツ〉、小瀧淳、御橋悳言〈ミハシ・トクゲン〉、古内三千代、中山速男、友年亀三郎の諸氏は満二年以上、或は校訂に或は校正に各々其の得意とする所を発揮せられた。村尾元長、羽生芳太郎、近藤鉱三、森岡格雄、渡邊魁、妻木直良〈ツマキ・ジキリョウ〉、新井昌平、石割松太郎、泉清、中尾清太郎、丸山錦吾、松尾茂の諸氏も編輯に参与せられ、早川純三郎氏は創業の際編輯庶務諸般の事に鞅掌〈オウショウ〉せられた。全躰校訂や校正は極めて変化に乏しい根気仕事で、長くこれに従事すれば健康を害し易いものであるのに、幸ひに最年長の村尾氏の外一同健在なのは自分の最も悅ぶ所である。最後に山田清作氏は、会の創立以来事務の主幹として、紛雑なる庶務を料理して遺憾なからしめたのみならす、傍ら編纂事務をも兼ね勤勉一日〈イチジツ〉の如く、早稲田大学事業の繁劇なる為め、会に欠席勝ちなる自分を助け、克く此の業の第一期を完成せしめた功は、特にこゝに鳴らさゞるを得ない。
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終に臨んで他日の紀念として、最初に発表した趣意書を左に掲げておく。
このあと、行をあけずに、昨日、紹介した「国書刊行会主旨」が引用され、さらに、そのあと、一行あけて、次の言葉がある。
此の刊行顛末は最終刊に掲げる筈のを都合に依り繰上げた
明治四十二年三月
右の「感謝の辞」には、非常に多くの人名が登場するが、今日となっては、そのプロフィールはおろか、読み方すらわからなくなっている人が多い。ここで、挙げられている名前で、ひとり気になったのは、「渡邊魁」である。もし同姓同名でなければ、この渡邊魁は、「裁判官になつた終身脱獄囚」として知られる異色の人物である(一八五九~一九二二)。
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