礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大逆事件(幸徳事件)と明治天皇による特赦

2018-01-29 07:02:35 | コラムと名言

◎大逆事件(幸徳事件)と明治天皇による特赦

 昨日のコラムで、大逆事件(幸徳事件)に連座した峯尾節堂は、一九一一年(明治四四)一月一八日に死刑判決を受け、その翌日、特赦で無期懲役刑に減刑されたと述べた。
 以前、『大津事件と明治天皇』(批評社、一九九八)において、大逆事件の「特赦」に関連した考察をおこなったことがある。
 本日は、同書の終章「平沼騏一郎の回想」から、その一部を紹介させていただく。〔 〕内は、原文の注、【 】内は、今回の引用にあたっての注である。 

 大逆事件と平沼
 平沼の回顧録【『平沼騏一郎回想録』同編纂委員会刊、一九五五】には、もう一つ注目すべき証言がある。その証言とは、「大逆事件」の項にある次のような回想である。
《桂さん〔桂太郎首相〕は、判決は他の者が分らぬ中に陛下に申上げねばならぬと言はれた。ところで判決言渡しは憲法で傍聴禁止できぬと言ふと、それは困る、何とかせよと言はれた。そこで私は侍従職に詰めてゐるから閣下もいらつしやい、判決が済むと電話をかけて知らす、さうすれば直ちに上奏しなさいと言つた。斯様にして陛下に一番に申上げた。あの当時は厳重であつた。》
 大逆事件とは、明治四十三年(一九一〇)に立件された「天皇暗殺未遂」事件のことである。翌明治四十四年(一九一一)の一月十八日に、幸徳秋水ら二十四名の被告に対し死刑判決が下された(うち十二名に対し、翌十九日、恩赦による減刑があった)。
 一八九一年【明治二四】の大津事件では「大逆罪」(旧刑法 一一六条)によって求刑がなされたが、実際の適用はなかった。それから二十年たった一九一一年に、大審院は、多数の被告に対し、大逆罪(新刑法七三条)を適用したのである。すなわち、両事件には、「大逆罪」という共通項があった。
 大逆事件当時、平沼骐一郎は四十四歳。司法省民刑局長(検事兼任)の要職にあり、同裁判においては、検察側の実質的な責任者であったという。
 右に引いたのは、その平沼が約三十年後に事件を回想し、何げなく洩らした一言なのだが、私は、これは極めて重大な意味を持つ証言なのではないかと考えている(あえて終章を股けたのは、実はこのことを論じたかったからなのである)。
 最初この部分を読んだ時、「これは本当のことなのか?」という疑問を抱いた。一刻も早く天皇に判決結果を知らせるためとはいえ、首相や民刑局長が「侍従職」に詰めて電話を待つなどということが本当にあったのか。
 侍従職に詰めるためには、判決当日、平沼は判決、公判を欠席しなければならない。検察側の責任者である平沼が、重要な判決公判を欠席し、侍従職で電話番をする。民刑局長のみならず、首相までが詰めている。これはどう考えても異常である。……
 そのうち、フト気づいた。天皇が桂首相に要求したのは、判決結果をまっ先に知らせよ、ということではなく、判決内容を「事前」に知らせよ、という事だったのではなかったのか。恐らく天皇は、この事件に限って、こうした異例の要求をおこなったのであろう。しかしいくら天皇の要求でも、これは簡単に応ずるわけにはいかない。そこで、その代わりに、判決直後に首相が結果を内奏するという便法を考えついたのではないだろうか。……
 これは一見すると、天皇に深く配慮しているように見える。しかし実は、政府はこういうまわりくどい方法で、天皇の要求を退けたのではないか。天皇の「干渉」を排除したのではないか。【以下、次回】

 同書全体の論旨を説明することなしに、この部分のみを抜いても、理解していただくのは難しいかもしれない。ここで言いたかったことのひとつは、明治天皇が、この大逆事件に関し、大津事件のときと同様、裁判への干渉を試み、大津事件のときと同様、元勲、閣僚、官僚らによって、その干渉を阻止されたということであった。
 もうひとつ、大逆事件に関しては、判決内容についても、また、特赦の方法についても、明治天皇の意思は、完全に排除されていたということであった。

*このブログの人気記事 2018・1・29(なぜか昨日の順位と似ている)

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