◎大逆事件の判決と特赦の筋書きを作ったのは誰か
昨日の続きである。拙著『大津事件と明治天皇』(批評社、一九九八)から、終章「平沼騏一郎の回想」の一部を紹介している。本日は、その二回目(最後)。
昨日、紹介した箇所のあと、次のように続く。なお、〔 〕内は、原文の注、【 】内は、今回の引用にあたっての注である。
大津事件と大逆事件
もしもそれだけならば、これは「司法権の独立」に関わる一挿話に過ぎない。しかし、右の「侍従職待機」事件には、ウラがある。……
当日、侍従職で待機していた桂や平沼は、天皇と同様、電話があるまで「判決内容」を知ることはなかったのだろうか。……
ごく普通に考えれば、「知っていたはずはない」ということになるだろう。私も最近まで、当然そのように思っていた。
ところがこれは違う。
桂首相は、この日一時三十分、何と判決文の「写し」を持って侍機していたのである。判決内容を完全に把握していたのである。平沼も、もちろんわかっていたのである。侍従職にかかってきた電話というのは、「判決内容」を知らせる電話ではなく、単に、今、判決が下ったという「事実」のみを伝える電話だったのである。
なぜそう断言できるのか。実は決定的な資料がある。
判決前日の一月十七日、宮内次官河村金五郎は、山県有朋宛に次のような手紙を送っている。
《明十八日午後一時三十分、桂首相判決写を携へ、参内の上奏せらるゝ節、首相に対し御沙汰〔命令〕あること。首相は右御沙汰ニ基キ十九日午前九時、大審院長【児島惟謙】・検事総長【三好退蔵】・民刑局長【平沼騏一郎】、其他を内閣ニ召集し、為参考意見を聴取すること。此の席には宮相【土方久元】参加する事。……》
十八日の判決時には、桂首相が「判決の写」を持って侍従職に待機する、その後、天皇から恩赦についての御沙汰があるから、十九日にその件についての協議を行うといった段取りについて報告しているのである。
全ては、筋書きができていたのである。黒幕はまたもやもちろん山県である。山県は、判決の内容を掌握した上で、そのあとの恩赦の内容や段取りについてまで考えていた。その山県の構想(閣下御羞の趣)を持って河村次官が宮相や首相のところをまわった結果、全て了解が得られたということを報告しているのがこの手紙なのである。
手紙には、次のような部分もある。
《手続は右の通りにて、閣下御考慮の通り、上御一人を煩し奉らざる形式を取る事と相成り、……》
言葉は慇恝だが、要するに、天皇の介入を排除するで進めたい、と言っているのである。【以下、略】
この本を出したとき、「侍従職」の「職」に、「しき」というルビを振ったが、『広辞苑』第五版では、「侍従職」を「じじゅうしょく」と読ませている。なお、侍従職というのは、宮内省に属し、天皇側近の事務を扱う役所。その長を侍従長、職員を侍従という。大津事件当時の侍従長は、徳大寺実則〈トクダイジ・サネツネ〉である。
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