礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

菅原文太さんと江井秀雄さん

2015-10-17 04:52:44 | コラムと名言

◎菅原文太さんと江井秀雄さん

 ここ数日、『多摩のあゆみ』の第八一号(一九九五年一一月)の座談会記録を紹介してきたが、本日は、その最終回としたい。新井勝紘さんと色川大吉さんが、「五日市憲法」の発見の瞬間について語っている。この座談会では、この部分が、最も刺激的だと思う。

 五日市憲法草案の発見
 司会 新井〔勝紘〕さん、あのころはみんな五日市憲法の生まれた情況や条文についてよく覚えていたと思うんです。だいぶ時間がたって最近少し忘れかけたかなと思いますので、ここであらためて「五日市憲法草案」のことを語してください。
 きょう〔一九九五年〕九月一日は五日市が「あきる野市」に変わって、「五日市町」という名称がなくなった日でもあるものですから。
 新井 私は、ともかく生まれて初めて土蔵を開けるのをやったんです。どう開けたらいいのかとか、どのように調査をしたらいいのか、全然わからなかったので何も用意していかなかったんです。あのときたしか色川先生は着がえをもってこられたと思うんです。私たち学生は何ももっていかなかった。それから、何が出てくるかわからないから、まず消毒から始めようということで、中に白い消毒剤をばらまいて、土蔵の外でしばらく待っていた記憶があります。
「五日市憲法草案」を発見したときはどういう驚きでしたかとか、どんな感動がありましたかと、その後何遍かいろいろな方に聞かれましたけれども、私には何の感動もなかったんです。大体、その史料の重要性を当時の私は全然わかっていなかったのです。学芸講談会の規則や彼らが読んだ本とかが大量に出てきて、やっぱり五日市にも民権運動があったと確認した方が大きかった。続々とそれを証明するものが出てきたので、これはすごい発見だという自覚はしましたが、憲法そのものについては、それから二ヵ月ぐらいたってからでしょうか。
 本当に五日市のオリジナルなものである。五日市のグループがみんなでいろいろ検討しながらつくり上げたものであるということがわかって、なおかつ今までだれも発表してない、初めて出てきたものであるということを自覚したのは土蔵調査から一~二ヵ月たってからだと思うんです。土蔵の二階の桁の下の、私がたまたま手にした竹で編んだつづらを開けたら、中から民権結社の学芸講談会の史料が出てきて、その一番最後のほうに憲法草案があったんです。それも「日本帝国憲法」と書いてありましたから、その時の私には彼ら自らがつくった憲法草案とは露〈ツユ〉ほども思わなくて、おそらく大日本帝国憲法あたりを書き写したものだろうというぐらいの認識しかなかったのです。
 色川 たしかあの晩は民宿へ泊まったんだよね、五日市の川っぺりの。そのとき二〇人ぐらい学生がいて、新井さんの先輩で江井秀雄さんが大学の研究室の副手をしていた。新井さんが小さなつづらをもってきて、先生、いろいろ出てきますよというから、ばらばらにするとわからなくなるからばらばらにするな。今晩借りていこう。で、ゆっくりみようということで、ちょうど深沢一彦先生がお帰りになるときに、先生これ今晩一晩お借りしていいですかといったら、いいですよということで借りてきてしまったんです。彼〔江井〕が「先生これ憲法ですよ」というから、だれかの憲法を写したんじゃないかと私はいったんです。でも、みたら帝国憲法ではないし、そこにみたことのない男の名前があって…。
 そのころ私は、西多摩の自由党員の名簿、それに関連する親戚もみんな頭に入っていたのですが、自分の頭の中のリストには千葉卓三郎というのはいないんです。
 新井 私もたしか聞いたと思います。千葉卓三郎というのはどういう人ですかといったら、知らないとおっしゃっていました。
 司会 〔北村〕透谷の友達としてもいなかったんですか。
 色川 いないんです。で、江井君もよく知っていましたから、君は? といったら、知りませんねというわけです。では、新井君と江井君でこれを調べてくれ。新井君は、特にこの憲法の一つ一つ条文を検討してみて、一体何者でどこからこんなものが出てきたのか調べてくれと。それから一ヵ月以上かかったよね。
 新井 かかりましたね。
 色川 十月二十三日に読売新聞がスクープしたんだよね。ちょうど政府が明治一〇〇年祭をやった日ですよ、武道館かで。それにぶつける形で、一〇〇年祭の夕刊に「山村に眠る憲法発見」とスクープした。あのときにはかなりわかっていたんだけれども、その間に江井君、新井君たちが中心になって一生懸命追求したんです。
 それから私もじっくり検討して、「嚶鳴社〈オウメイシャ〉草案」と比較したら、それとも違う。嚶鳴社のは最も進んだ憲法でしたが、それよりもよい。植木枝盛〈エモリ〉の憲法とも違う。しかも非常にオリジナルだというので、名前は何とつけようかということで、千葉卓三郎草案という案も出たんですが、同時に五日市学芸講談会の史料が出ていたんです。回覧状や「討論題集」があり、憲法の議論をしていることが出てくるわけです。それでは、思い切って「五日市憲法草案」とつけようじゃないかと私がいったんです。
 しかし、五日市町のほうはきわめて冷たくて、千葉卓三郎なんて知らないというわけです。調べさせてくれと新井さんたちが行って、そこに名前の載っている人たちを一軒一軒、戸籍を調べたんですよ。

 色川さんの発言の中に、江井秀雄さん(一九四〇~)というお名前が出てくる。「五日市憲法」の発見については、この人のお名前も欠かすことはできない。
 二〇一二年一月一五日、NHK教育テレビで、「自由民権 東北で始まる」(「日本人は何を考えてきたのか」シリーズ第二回)が放映された。ナビゲーターは、俳優の菅原文太さん。福島の自由民権運動の紹介が主だったが、各地の自由民権運動も紹介され、菅原文太さんが、江井秀雄さんの案内で、五日市の深沢家土蔵を訪ねる場面もあった。
 いま、インターネットで確認すると、その時の江井さんの肩書は、「民衆思想史研究所代表」となっていた。http://d.hatena.ne.jp/cangael/20120201/1328055111

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