礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

1919年、赤十字社連盟を成立させた蜷川新

2018-01-12 01:06:01 | コラムと名言

◎1919年、赤十字社連盟を成立させた蜷川新

 蜷川新著『天皇』(光文社、一九五二)から、「私の歩んだ道」を紹介している。本日は、その四回目。

   五 学界入りについで再渡欧
 私は、大正三年〔一九一四〕九月にヨーロッパから帰ると、当時、京都に創始せられることになつた同志社大学に、教授として就職することになつた。私立の大学を発展せしめることは、日本の文明のために、必要であることを私は信じていた。
 同志社大学では、満三年のあいだ、国際法と外交史の講座を担当していた。有望の学生もそうとうに多くいた。今日でも、社会にそうとうの地位を占め、私と交遊している人もある。私は一時、健康をそこない、肺病の初期のように医師からいわれた。私は京都に引きこんでいるのを、愉快としなかつた。そこで私は、三年の勤務をおわつて辞任し、大磯に閑居することにした。私は自然を友として、しばらく遊んでいた。
 大正七年〔一九一八〕の春、日本赤十字社は、石黒社長の代理として石黒忠篤【いしぐろただあつ】氏を、私の大磯の私邸によこされた。そうして、日本赤十字社の慰問使として、ヨーロッパに行くことを申しこまれた。私は、二日の後にそれを承諾した。そうして、ヨーロッパの戦地に行くことになつた。一行は、徳川慶久【よしひさ】公爵と赤十字の医師と合計八人であつた。
 われわれの一行は、まずアメリカにわたつた。そうして大西洋をこえてイギリスにわたつた。第一次大戦の末期であつたが、まだいずれの国でも、ドイツの敗北を予断する人はいなかつた。洋上のわれわれは危険であつた。艦隊を編制して、軍艦に護衛され、ものものしい警戒のもとに航行するのであつた。幸いにして敵の攻撃をこうむらずに、約十日の航海をへて、われわれはイギリスに上陸した。それからフランスにわたり、フランス、ベルギー、イタリアの前線に進み、軍と赤十字とを慰問した。医師は三名をつれて行つたが、先方で希望するならば、先方の病院に残留せしめる方針であつた。ところが、各国ともに、医師も十分に準備してあつたので、ただ、たんに視察して、日本の医師は日本に帰つたのであつた。その方のことは、じつは無益であつた。しかしながら、未曽有の大戦のおこなわれているヨーロッパにいつて、政治、経済、人道を研究したことは、じつに甚大の利益があつた。
 私は各国の国王や、政治家や、学者や、軍人や、一般人やに接触して、いろいろのことを研究した。その研究の結果は、かねて約束してあった陸相田中義一氏にたびたび報告した。また私の視察と感想とは、私が著書をもつて、世に報告してある。(『復活の巴里より』〔外交時報社、一九二〇〕という著者が出ている。)私は知人の田中睦相から、ドイツ軍おこなつた「占領地行政」をくわしく調査することを、出発前に依頼されていたのである。私はフランスの陸軍省に申し出て、ドイツ軍の全占領地を、フランスの一陸軍中尉をともない、一週間にわたつて、くわしく調査したのであつた。フランスの陸軍は私を知つていた。
 私は大戦の悲惨を目撃して、世界の平和永続の方策を研究した。そうして、第一次大戦が終つたのちも、赤十字事業を引きつづき平和時に、全世界にわたつておこなうことを、列国間に新たに条約すべきことを、列国の有力者に力説した。それが国際連盟規約の第二十五条となつた。またそれが、赤十字社連盟規約の締結となつて、世界に新しい「赤十字世界」創設せられたのであつた。人道、平和上の一事業であることを、私は信じている。
 一九一九年〔大正八〕のヴェルサイユ会議のときには、私は、フランスの大新聞「タン」、「マタン」、その他いくつかの雑誌に投書して、世界の問題を論じたが、幸いに、パリーに集まつた世界の識者の注目を集めた。このときには、外務省の役人も、たくさんパリーにきていた。松岡洋右〈マツオカ・ヨウスケ〉や、吉田茂や、芦田均も、書記官として来ていた。まだ、名の知れていない、微力の人びとであつた。青島【チントウ】の帰属は一時はシナにゆくことにきまり、日本全権は失望の極に達していたけれども、私の学理による一片の論文によつて、それが解決せられ、日本に譲りわたされることになつたのである。ただし日本の全権〔主席全権は西園寺公望〕は、このことを偽つて、原〔敬〕首相に報告している。
 私は、一九一九年(大正八年)五月五日に、パリーで公式に赤十字社連盟を成立させることに成功して、ひとまず帰国を命ぜられ、九月に日本に帰つた。しかしながら、その十一月には、ふたたび赤十字会に出席する任務をおびて、またジュネーヴにむかつて出発した。そうして翌二十年〔一九二〇〕の九月に、日本に帰つた。各国人は、私の親しい友であつた。インド洋上の航海は、私にはたのしみの一つであつた。また来ましたかと、途中の内外人にいわれたほどであつた。【以下、次回】

 要するに、ここで蜷川新が強調したかったのは、松岡洋右、吉田茂、芦田均といった外交官が、まだ駆け出しだったころ、自分はすでに、世界の檜舞台で活躍していたということだと思う。なお、蜷川がここで述べている史実、あるいは、それらに関与したという蜷川の功績については、他の文献にもあたって確認してみたいと考えている。

*このブログの人気記事 2018・1・12(なぜか8位にぴよぴよ大学)

 

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