礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

民族の自由と平等とを第一義として働いた(蜷川新)

2018-01-11 01:29:30 | コラムと名言

◎民族の自由と平等とを第一義として働いた(蜷川新)

 蜷川新著『天皇』(光文社、一九五二)から、「私の歩んだ道」を紹介している。本日は、その三回目。

   四 東京大学入学とその以後
 私は、東京大学の法律科〔東京帝国大学法科大学〕に入学した。そうして、主としてフランス語と、国際法を学んだ。学生時代に、私は、ルノールの有名な国際法を翻訳して出版した〔ルイ・ルノール著・蜷川新訳『国際法論』東京専門学校出版部、一九三三〕。フランス語の力をつけるためであつた。私はいく人かの学友とともに、演説の講習会をつくつて、大学の大教室で演説の練習をやつた。その仲間には、後年に有名となつた人がいる。長島隆二、小川郷太郎、渡辺千冬、中川健蔵らが、それである。スイス人の教師ブリデルには、私は大いに信用された。民法の講義を受けたが、私は、そのフランス語の講義を、大した誤りもなく筆記しうるようになつた。私は、外人で日本を訪れる人のために、通訳となつて日光の案内をやつたこともあつた。外人を理解することが、私の目的であつた。私はそれによつて、得るところは多かつた。
 私は、明治三十四年〔一九〇一〕に法科大学を卒業した。まず自身で大蔵省に行つて、就職を求めてみた。係官の一書記官は、その机の上に準備してあつた「大学卒業生の成績表」と私とを対照し、私と少しばり話をまじえたが、私にむかつて採用を約束された。私は関税課の勤務となつた。その課長は有名な目賀田種太郎【めがたたねたろう】氏であつた。私にむかつて、「そのうちに、在外財務官が設置されることになつている。君をそのほうに当てる予定である。」といつた。私は、目賀田氏の人物に非凡のところがあるのをみとめて、唯々として、その命にしたがつていた。あるときは、えらく叱られたこともあつた。
 私は、ひそかに外交官試験を受けてみた。試験官は書記官石井菊次郎氏であつたが、フランス文の書いてある一枚の紙を私に渡した。それを読んでみろと言われた。私はすらすらと読んだ。石井氏は、「どういう意味か。」と私に問われた。私は、「わからない。」と答えた。「なぜか。」と問われた。私は、「フランス文の文字が、二つ私にわからないのがある。それで意味が取れないのである。」と答えた。石井氏は、「教えてやろう。」と言われた。私は、「試験場に出てきて、知らない文字を教えられては、私の不名誉である。」と、キッパリと答えた。石井氏は少しく怒気をふくんで、「それならば、もうよろしい。」と言われた。私はそれで、試険は落第ときまつた。私は、それも運命だと思つた。私は、官吏は私にはむかないと考えた。そこで、大蔵省も辞職した。目賀田氏は、私をその邸にまねいて、「思い止まれ。」といわれたが、私は固くことわつた。明治三十五年〔一九〇二〕のことである。
 私は、みずから読売新聞社に行つて、臨時の記者に揉用された。私は大いに政治を論じた。岳南のぺンネームで書いたが、自由で、はなはだ愉快であつた。やがて渡辺国武子爵は、伊藤内閣〔第四次伊藤博文内閣〕の大蔵大臣を辞し〔一九〇一〕、あらたに新聞を発行されることになつた。私は渡辺子爵をかねて知つていた。そこで、その新聞に転ずることになつた。電報新聞といつた。私は社に宿泊して、新聞事業に身を投じた。その当時、私は大学院の学生に席をおき、将来は自由な学者になることを志していた。明治三十六年〔一九〇三〕のことである。
 その当時は、日露間には不穏の事態があらわれ、有名な七博士は、率先して開戦を叫んだ。私もその一味の応援者であつた。私は開戦を論じていた。明治三十七年〔一九〇四〕の二月に、開戦の宣言は発せられた。同時に、旅順港の襲撃がおこなわれた。私は、予備の陸軍少尉であつたところから、ただちに召集されて、軍隊の人間となつた。私は第一軍司令部附の国際法顧問を命ぜられて、黒木〔為楨〕司令官らとともに、宇品【うじな】から出発し、大同江をさかのぼり、平壤【へいじよう】についた。その以後は、国際法上の違反がおこらないように、私は軍司令部参謀にやかましい意見をのべ、満一ヵ年を、満州の戦場におくつたのであつた。
 明治三十八年〔一九〇五〕、私は陸軍省の命令により、名古屋の俘虜収容所附に転じた。旅順で勇戦した有名な将官らが、名古屋にいた。私はその取締りにむけられたのである。私は俘虜から敬愛された。そこにいること三ヵ月であつたが、俘虜は私に大いに感謝した。当時の日記は、私の手もとに保存してある。人類愛の実行であつた。私は交際社会で大いにもてたのも一つ話である。
 同年七月私は、新設された樺太軍の国際法顧問にされた。樺太の占領にかんして、私は大いに人類のために働いた。その事業は、意義の大きいものであつたが、詳細はここにははぶく。ポーツマスの平和条約が成立して、樺太軍の大部分は日本に帰つたが、私は一箇連隊とともに残された。樺太引き渡しの事業にあたることになつた。いつさいの談判は、私ひとりでおこなつた。これもまた意義の大きな外交事務であった。当時の記録を私は保存している。日本の占領していた北部樺太の引き渡しは終了した。無事にすんだのを陸軍大臣らは大いによろこんだ。
 私は、十一月日本に帰つたが、陸軍大臣は、私に旅順にいつて、「外人の遺留財産の整理委員」となるように命じた。私は、それを引き受けて旅順にいつた。この事業は、全満州における外国人の遺留した動産不動産を、整理することであつたが、そこに私は、一年三ヵ月のあいだ留まつていた。その事業のなかには、撫順【ぶじゆん】の大炭坑を、口シア人とシナ人に還附すべしという請願事件もあつた。それは、ポーツマス条約のなかに、ロシアのために有利な条文が挿入してあつたところから生じた一大事件であつた。私はその問題を、ロシア人と毎日、談判した。ついに日本のために有利に解決したのであつたが、それは、私としては大事業であつた。
 私は、その任務を終了して日本に帰つた。明治四十年〔一九〇七〕三月のことである。それから私は、韓国政府の官吏となることになつた。目賀田顧問のもとに、経理の事業をおこなう任務であつた。まもなく韓国は、イギリスの支援をもつて日本の保護国となつた。それ以来、私は韓国宮内府【くないふ】に入り、宮中の一大改革をおこなう任務をあたえられた。私は大胆に、宮中の大粛正をおこなった。この時代に、多年、李太王の寵人〈チョウジン〉であり、顧問であり、韓国の外交を一女子の身をもつて引きずり廻していたフランス人ゾンタク夫人と、私は最初は大いに抗争して、その専恣〈センシ〉を押えた。しかし、私は伊藤〔博文〕統監から命ぜられて、その夫人と和睦した。そうして日本の外交を勝利にみちびいたのであつた。
 韓国にあること六年であつたが、伏魔殿といわれた宮中は、まつたく粛清された。李太王は相当の人物であつたが、私には一目をおいていた。私は目的を達して、いさぎよく官を辞したが、李太王は寺内〔正毅〕総督に人を派し、「あと二年だけ蜷川を留任せしめたい。」と申し入れられた。私は固くことわつたが、李太王の策略であつたかとも思われた。
 私は大正元年〔一九一二〕十月に、京城において文部大臣から学位を授けられた。私はこれを機会として、事務の人間から学界の人間へと一転した。そうして私は、大正二年〔一九一三〕三月をもつて、ウラジオストックに渡航した。そこからモスコウに向かつた。そうしてパリーにゆき、専門の学問に志した。ついでに私は、全ヨーロッパを旅行した。私は大正三年〔一九一四〕九月に日本に帰つた。
 私は、明治三十七年〔一九〇四〕二月以後、大正二年三月にいたるまでの十年余の歳月は、極東において、日本民族の自保自存のために、一身をささげて働いていたものである。私には地位や収入など、まつたく眼中になかつた。予備の一中尉として、あるいは嘱託として、あるいは韓国の一小官吏として働いたのであつたが、私には、眼中に長官はなく、自由な一人間として、日本民族の光栄と自由とのために奮闘した。私の基本とする原則は、国際法であり、人類の福祉であつた。私は、ロシア人の生命も相当に救つた。シナ人、朝鮮人の生命や財産も保護した。日露の戦中または戦後の対外政策の一端に、私はあずかつていたけれども、私のなしたことは、けつして侵略ではなかつた。侵略への反抗であつた。私と接したすべての外国人は、私の誠意をみとめて、いずれも感謝してくれた。私は、民族の自由と平等とを、第一義として働いたのであつた。【以下、次回】

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