礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

予ノ國體論ハ今ハ孤城落日ノ歎アルナリ(穂積八束)

2024-05-07 01:47:45 | コラムと名言

◎予ノ國體論ハ今ハ孤城落日ノ歎アルナリ(穂積八束)

 鈴木安蔵の論文「美濃部博士の憲法学説問題」(初出、『社会評論』1935年4月)を紹介している。本日は、その三回目で、「二」の節の前半を紹介する。

       
 美濃部博士の憲法学説は、一度明治大正の交〔かわりめ〕にも、博士の「憲法講話」発行(明治四十五年三月一日発行)を機として、その天皇機関説はじめ、立憲主義的批判的所論のゆゑに論難の対象となつた。周知のごとく故上杉〔慎吉〕博士は、天皇機関説をもつて我が國體を破壊し朝憲を紊乱〈ビンラン〉するの謬説なりとし、市村〔光恵〕博士によれば、「甚だしく非学者的なる」「態度」、「或物を提げ〈カカゲ〉て学者の議論を威迫せんとする気味ある」「態度」(同博士「上杉博士を論ず」――「太陽」第十八巻第十号、星島二郎「最近憲法論」所収)をもつて、美濃部博士を攻撃した。この上杉博士によつて火蓋を切られた反美濃部的論争は、国民新聞はじめ二、三の新聞雑誌によつて拡大され、そのあるものは美濃部博士を目して国賊のごとく罵つたのである。
 論点は全く今日のそれと同一であり、且つ上杉博士および穂積八束〈ホヅミ・ヤツカ〉博士の論難は、学界的には到底支持すべからずとされたほどに、超科学的な宗教的信条的のものではあつたが、しかも、論争は主として学会論壇の内部において、諸憲法学者間に闘はされた。最初から議会における弾劾的演説によつて論難攻撃が開始され、政府当局に学説の禁圧を要求する政治運動として展開され、はては不敬罪をもつて告発するといふやうな政治性は、当時の論争には無かつたのである。
 学界的には、天皇主権説の学的創唱者たる八束博士が「若シ多数ヲ以テ決スヘシトセハ、我カ学者ノ通説ハ所謂君主機関説ナルコト論ナシ。予ノ國體論ハ之ヲと唱フル既ニ三十年〔中略〕而モ世ノ風潮ト合ハス〔中略〕今ハ孤城落日ノ歎アルナリ」と嘆じたほど(四十三年刊行「憲法提要」上巻二一三~二一四頁)天皇機関説は、我が公法学会の主流となつてゐた。美濃部博士に対する上杉博士の挑戦は、抬頭し確立し来つた政党政治に対する旧勢力の焦慮と煩悩とに照応せる逆行的な理論的奮起であつた。八束博士の「逆流に立ちて双手〈モロテ〉を挙げて狂瀾を回へす〈カエス〉の気慨がなくてはならぬ」(美濃部博士に対する論難「國體の異説と人心の傾向」末尾の間――「太陽」第十八巻第十四号――星島前掲書所収)とのその気概の理論的代弁であつた。
 美濃部博士の「憲法講話」を中心に論争の闘はされていた時、他方政界において西園寺〔公望〕内閣は上原〔勇作〕陸相の単独辞職上奏、陸軍の反対にあつて脆くも崩壊し、山県〔有朋〕の後継者桂〔太郎〕が内閣を組織するにいたれるを機として、閣僚内閣反対、政党政治樹立を目指して民衆運動が組織され、いわゆる大正の政変史を展開したのであるが、まさしくそれは、従来独占的に山県らの官僚的旧勢力によつて左右されて来た政権に対するブルヂョアないし小ブルヂョア政党の指導権獲得の反抗運動であつた。したがつて彼らは、ブルヂョア立憲主義を自己の理論的武器として要求し使用した。尾崎行雄が、桂の官僚的策動を弾劾して、「彼等は常に口を開けば直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へておりますが、其為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて、政敵を攻撃するが如き挙動を執つてゐる」「彼等は玉座を以て胸壁となし詔勅を以て弾丸に代えて政敵を倒さんとするものではないか」と叱咤し、元田肇が「現行官制に依れば陸海軍大臣は現役大中将に限れり、現内閣は之を以て憲政の運用に支障なきものと認めるか」と詰問したのは、大正二年〔1913〕二月の第三十議会であつた。【以下、次回】

 市村光恵(いちむら・みつえ、1875~1928)は、憲法学者、政治家(京都帝国大学教授・京都市長)。
 上原勇作(うえはら・ゆうさく、1856~1933)は、軍人(元帥陸軍大将)。
 元田肇(もとだ・はじめ、1858~1938)は、政治家(衆議院議員・衆議院議長・逓信大臣・鉄道大臣)。

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