礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

藤村君の死を非難いたしません(黒岩涙香)

2016-01-18 03:20:14 | コラムと名言

◎藤村君の死を非難いたしません(黒岩涙香)

 昨日の続きである。山名正太郎の『思潮・文献 日本自殺情死紀』(大同館書店、一九二八)から、「藤村操の自殺」について論じている箇所を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
 昨日、紹介した文章のあと、改行して次のように続く。

 おもしろいのは、藤村操の死と『天人論』と、その著者故黒岩周六〔涙香〕氏との因縁である。黒岩氏の『天人論』は藤村操が自殺の前後に出版なつたものである。詳しくいふならば、黒岩氏の『天人論』が、『千古の疑問』と銘うつて物質の本性、宇宙の実体から霊魂の未来、宗教の真趣までを極めて魅惑的筆致にかき一元の解案で結んで印行したのは〔一九〇三年〕五月十一日で十四日発行と、その奥付にかいてある。この『天人論』が三十日を経ざるに五版を重ねてゐるのも興趣の深いことで、『天人論』が世に出て藤村操が〔五月二三日に〕自殺し、それから『天人論』がよく売れ出した、といふことになる。
 故黒岩氏は、世の多くが藤村操の死に同情をもたないうちにあつて、もつとも彼の死に同情をよせたのは人の知るところである。故黒岩氏は華巌の死を聞いて、『天人論をよんでくれたら』と述懐したといふが、明治三十六年〔一九〇三〕六月、東京は数寄屋橋会堂に於て『藤村操の死について』と題して哲学の見地から演説をした。この演説は一面からみると、『巌頭の感』の註釈ともいへるので、同氏の演説を抜萃して見やう。
『過日華巌の瀧に投じたる藤村操君の死は、万有の真理を疑ふより出でたるもの也と申しますから、今日までに類のない自殺である。単に『思想のための自殺』は空前の椿事といつて不可なしと思ふのであります。』
『勿諭死は罪悪であります。「死する」と「死せざる」とは場合の如何〈イカン〉に拘らず「死する」は罪である。然し私は藤村君の死を非難いたしません。』
『世人が彼を非難するに、これを褒めては流行を来す〈キタス〉恐ありといふ者があります。自殺がそんなに軽々しく流行するとせば私は随分世の人に自殺を勧めてみたい位に思ひます。』
『聊か〈イササカ〉極端の例でありますが、楠公〈ナンコウ〉〔楠正成〕が湊川〈ミナトガワ〉の自殺の如きも、ニイチエより評しますれば「悪」である。モツト彼を活して〈イカシテ〉働かせたい。然れども吾々がその死を非難し得ざるは、彼の心事に一点の私曲なく、唯誠意を以て充ちてゐた彼の強き意志である』
『彼の巌頭の感の文章、私は近頃斯くの如き熱誠ある名文を見た事はない。誠実あればこそ名文章を生んだのである。』
『世の評者には、文中の語句を笑ひ「ホレーシヨの哲学竟に〈ツイニ〉何等のオーソリチーを価するものぞ』とあるを咎め〈トガメ〉、ホレーシヨなどいふ哲学者はない。せめてカントとかいへば聞えるが、藤村はホレーシヨとかいふ名もなき人の哲学書を読んだのだらう』といふ人があつたが、諸君御承知の通り、ホレーシヨは沙翁〈サオウ〉〔シェイクスピア〕劇中の人物で、似而非〈エセ〉哲学者の代名詞に今では使はれてゐます。藤村君がこの語を用ゐたればこそ、一切の哲学をば似而非哲学の一言に蹴落して、哲学者よく何の真理をか捕へ得んやとの感慨が活躍して聞ゆるのであります。』
『不可解といふことは、「何処〈ドコ〉まで解しても猶其先きに解釈の届かぬ所あり」といふことである。しかし先の先に又先あり、以上の以上に以上あリて到底解し尽されぬといふことは、其実、何処までも解せらるゝといふことである。解釈とは「以上」を求むる事なるを以て何処まで行きても「以上」あらば、何処までゆきても解釈の道があるのであります。』
『彼は死の安泰なるを悟つたけれども生の更に死よりも安泰なることを信じなかつた。故にその悟ると一所に欣然として死んだのであります。彼もし「悟り」の以上に唯一歩を進め、信仰に帰しましたならば、その巌下に身を投ずる欣々の心と炊々の顔色とを以て人界に帰り来つたのでありませう。』
 故黒岩氏の演説はまだあとが引つゞいでゐた。もちろん『天人論』講演であるはいふまでもないが、滔々〈トウトウ〉数万言をもつて藤村操のために弁じたてたところ、涙香翁当年の意気甚だ盛んなところが見えておる。さうして結局、藤村操の死は時代思想の反映であること。すなはち当時〔現代〕の世は二元的の暗き信仰破れ、思弁的の旧き哲学滅び而して未だ一元的の光明ある信仰の大いに興らざる、中間の過渡期であること。然り而して〈シカリシコウシテ〉真理を求むるは生命より重んずべき由々しき大事なるを告げて人心を警破した藤村操の死を暗夜の暁鐘〈ギョウショウ〉にたとへ、時代に殉じた節死者の一人に数へて演説ををへてをる。

 引用した文章の最後に「節死者」という聞きなれない言葉がある。「節に殉じて死んだ人物」というほどの意味であろう。
 なお、いわゆる「ホレーショの哲学」なるものは、今日では、英文を誤って解釈した結果、生じた誤った概念であるとされている。ではあるが、黒岩涙香(一八六二~一九二〇)も述べているように、当時この言葉は、「エセ哲学者」という意味で使われていたらしい。また、黒岩は、その著書『天人論』(朝報社、一九〇三)において、シェークスピアの言葉を、「ホレーショよ、天地には汝が哲学にて夢想し得ざる所の者あり 砂翁のハムレツト」という形で引用している(二八ページ)。
 これらの点については、一昨年一二月八日のコラム「藤村操青年とホレーショの哲学」を参照いただければさいわいである。藤村操青年と「ホレーショの哲学」 

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