礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

護衛憲兵はなぜ教育総監を守らなかったのか(改)

2016-02-26 04:16:22 | コラムと名言

◎護衛憲兵はなぜ教育総監を守らなかったのか(改)
 
 今から、七一年前の二月二六日、「二・二六事件」という軍部クーデター未遂事件が発生した。
 当ブログでは、今月一二日以降、同事件に関する話題を積極的に取り上げてきた。その間、いくつかの文献にあたったため、ブロガーの知見も、幾分か向上したように思う。かつて、「憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか」(2012・8・11)というコラムを書いたことがあるが、今、読みかえすと、不十分なところが目につく。
 本日は、このコラムを、この間に得た知見を踏まえながら、書き直してみたい。なお、もとのブログは、自身に対する戒めの意味も兼ねて、そのままの状態にしておきたい。
   *   *   *
 二〇一二年八月一〇日発売の雑誌『文藝春秋』本年九月号に、渡辺和子さんの「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」という手記が載った。新聞広告でこれを知り、久しぶりに同誌を購入した。渡辺和子さんは、この事件で射殺された渡辺錠太郎〈ジョウタロウ〉教育総監(陸軍大将)の次女にあたる。事件当時、九歳だった彼女は、至近距離から父・渡辺錠太郎の死を見届けたという。
 その手記の一部を引用させていただこう。
 
 一九三二年には五・一五事件がありました。その約三年後の三五年七月に皇道派とされる真崎甚三郎大将が教育総監を更迭〈コウテツ〉され、父が後任になりました。翌月には永田〔鉄山〕少将が暗殺される事件も起きました。そのような背景がありましたから、父の警護のために自宅には憲兵が二人常駐していました。私と父とで一軒先にある姉夫婦の家に行くわずかな時間にも、必ず憲兵が後ろについておりました。
 私が疑問を感じているのは、この憲兵たちの事件当日の行動です。お手伝いさんの話では、確かにその日、早朝に電話があり「(電語口に)憲兵さんを呼んでください」と言われ、電話を受けた憲兵は黙って二階に上がっていった、というのです。しかし、一階で父と一緒に寝ていた私たちのもとのは何も連絡が入りませんでした。私にはその電話の音は聞こえませんでしたが、もし彼らから何か異変の報告があれば、近くに住む姉夫婦の家に行くなりして逃げることも出来たはずです。しかし、憲兵は約一時間ものあいだ、身仕度をしていたというのです。兵士が身仕度にそんなに時間をかけるでしょうか。
 また、父が襲撃を受けていた間、二階に常駐していた憲兵は、父のいる居間に入ってきていません。父は、一人で応戦して死んだのです。命を落としたのも父一人でした。この事実はお話ししておきたいと思います。

 この早朝の電話は、牛込憲兵分隊の「当直下士官」からのもので、その内容は、「今朝、首相官邸、陸軍省に第一師団の部隊が襲撃してきた。鈴木侍従長官邸や斎藤内大臣邸もおそわれたらしい。軍隊の蹶起だ。大将邸も襲われるかもしれない。直ぐ応援を送る、しっかりやれ」というものだったという(大谷敬二郎『昭和憲兵史』)。
 しかし、電話を受けた佐川憲兵伍長は、この内容を渡辺錠太郎教育総監に伝えなかったばかりか、襲撃部隊が到着するまで、一時間近く、二階で慢然と待期していた。このことから、この「当直下士官」の電話は、公的なものでなく私的なもので、その内容は、「これから、そちらに襲撃部隊が向かうと思うが、このことは渡辺総監には伝えるな。また、襲撃部隊に対して、最後まで抵抗すると、命を落とすことになるので、それは避けよ」といったものだったと推測される。
 さて、この手記を読んで、あるいは、関係の文献を読んで、今なお、いくつかの疑問が去らない。箇条で挙げよう。

1 渡辺和子さんは、『文藝春秋』二〇一二年九月号の手記で、常駐していた護衛憲兵が教育総監を守らなかった事実を、初めて、明らかにされたのか、それとも以前にも、何らかの形で、それを明らかにされていたのだろうか。
2 事件当時、渡辺錠太郎邸に常駐していた護衛憲兵は、佐川憲兵伍長と憲兵上等兵のふたりだったというが、その氏名(フルネーム)は? また、その所属は、牛込憲兵分隊で間違いないか。
3 当日早朝、渡辺邸に電話をした「当直下士官」の階級および氏名は? また、その思想傾向は?
4 二名の護衛憲兵、および「当直下士官」は、当日の挙動をどのように釈明したのか。また、その釈明についての記録は残っているのか。
5 二名の護衛憲兵に対し、「行政処分」がなされたというが、「辱職罪」が適用されなかった理由は何か。また、「当直下士官」に対して、何らかの処分がなされたのか。

 二・二六事件に関しては、まだまだ述べたいことがあるが、このあと、しばらくは、話題を変えたい。

*このブログの人気記事 2016・2・26(ここ数日、岡田首相関係にアクセスが集中)

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