礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ソ連は明8月9日から日本と戦争状態に入る

2017-08-05 03:53:37 | コラムと名言

◎ソ連は明8月9日から日本と戦争状態に入る

 富田健治著『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』(古今書院、一九六二)から、第四二号「終戦の詔勅下る」を紹介している。本日は、その二回目。
 昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 一方当時モスクワに駐在していた佐藤〔尚武〕大使は、六日べルリンから帰ってきたモロトフ外相に面会を申込んだが、八日午後五時に会うというモロトフの返事であった。そこで八日定刻佐藤大使が行くと、モロトフ外相は、大使の用件を聞きもしないうちに、突如対日参戦の宣言を読み上げた。
『ヒットラーのドイツの敗北及び降伏後に於ては、日本だけが戦争を継続する唯一の大国となった。日本軍の無条件降伏に関する、米、英、支の七月二十六日の要求を、日本は拒絶した。因ってソ連に対する日本政府の調停申入れは、全くその基礎を失った。日本の降伏拒否に鑑み、連合国はソ連に対し、侵略に対する戦争に参加して、以って戦争終結を促進し、犠牲者の数を減少し、且つ急速に平和の恢復に資するように提案してきた。ソ連政府は、その連合国に対する義務に従い、右の提案を受諾し、七月二十六日の連合国宣言に参加した。ソ連政府はそれが平和を促進し、各国民をこれ以上の犠牲と苦難とから救い、日本をして、ドイツが嘗めた如き危険と破壊を回避せしめる、唯一の手段だと考える。よってソ連は、明八月九日から日本と戦争状態に入る旨を宣言する』
 かくて八月九日未明、ソ連が満州に怒涛の如く侵入してきた時、日本政府にはまだ佐藤大使からソ連参戦の報告をうけとつていない状況であった。陛下をはじめ木戸〔幸一〕内大臣、近衛〔文麿〕公そして鈴木〔貫太郎〕総理も、一日千秋の思いで、待っていた和平仲介の回答の代りに、ソ連は不意打ちに、我国に宣戦の通告を突きつけてきた。勿論この時はなお日ソ中立条約は更に一ヵ年間有効に存在していたのである。そしてソ連はこの背信な、だまし打ちともいうべき侵略行動に依って、満州、樺太はもとより日本固有の本土たる南千島や北海道の一部であるハボマイ、シコタンに迄、侵入占拠し、戦後十四ヵ年今日に至ってなお、これを返還しようとせざるのみか、八月九日の侵略的武力行動に依って、これら地域に居た日本軍人はもとより、多くの日本民間人を捕虜とし、公私の資産を掠奪し、婦女子を凌辱して、テンとして恥じないのである。かゝる不信なるソ連に対し、日本人であるならば、永久にその事実を忘れることは出来ない筈である。
 八月九日、陛下は木戸内大臣を召されて、原子爆弾の広島投下といま又、ソ連の宣戦により、戦争終結一日も忽がせ〈ユルガセ〉にすべきでないから、その促進方につき、鈴木総理と至急懇談するようとのお言葉であった。さきにも述べた通り、六月初旬以来戦争終結のため陛下の思召を体して日夜肝胆を砕いた入は、何と言っても木戸内大臣をもって、第一等とする。私は近衛公が終戦後、よくこう言われたことを憶えている。『木戸の内大臣としての功罪については、人各々見方もあるだろう。があの強硬な軍部の徹底抗戦、一億玉砕論を抑えて、これを終戦に持って行くことができたのは、何といっても木戸一人の功績と申すべきである。この功績は木戸の色々の功罪を償ってあまりありと私は信じている。私は最後迄この意味において、木戸を弁護する』と言っておられた。【以下、次回】

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