礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ふたりの陸軍中佐が東条英機の遺書を偽造

2015-06-24 05:16:06 | コラムと名言

◎ふたりの陸軍中佐が東条英機の遺書を偽造

 昨日の続きである。保阪正康氏は、その著書『昭和良識派の研究』(光人社FN文庫、一九九七)の中で、東条英機が自決を決意した際に書いたとされる三通の「遺書」について、「疑問を持っている」と書いていた。
 この三通の遺書とは、すなわち、「英米諸国人ニ告グ」、「日本同胞国民諸君」、「日本青年諸君ニ告グ」のことで、これは、清瀬一郎が、その著書『東京裁判』の中で引用している「東条英機ノ遺書」と同じものと思われる(当ブログ六月一一日のコラム「東条英機『自殺決心時の遺言』の真偽」参照)。清瀬一郎によれば、この遺書は、東条の自決の当日、自室の机上にあったものであり、ウイルバース中尉によって押収されていたものだという。
 しかし、保阪氏によれば、三通の遺書は、UP通信のA・ホープライト記者が、「東條の側近の陸軍大佐」から入手したものである。「東條の側近の陸軍大佐」が、なぜ、その遺書を持っていたかを、ホープライト記者は明らかにしていない。もし、その遺書がホンモノのであることを強調するのであれば、同記者は、その遺書が、ウイルバース中尉によって押収された遺書の現物、または、その現物と「同文」のものであるとして、その根拠を挙げ、かつ「東條の側近の陸軍大佐」が、その遺書を持っていた理由を説明しなければならなかった。
 しかし、ホープライト記者は、このあたりをアイマイにしたまま、「私は、これが本物の東條の遺書であると信ずる一切の理由をもっている」と述べている。こういう言葉は、信ずるに足りないのである。
 六月一一日のコラムのコラムでも述べたが、この「遺書」は、文章上の技術において未熟なところがある。もし、これがホンモノであったとすれば、徳富蘇峰など、しかるべき文人の添削を受けていたはずであり、こんな未熟な文章であるはずがない。
 また、その内容においても、納得しがたいところがある。清瀬一郎『東京裁判』によれば、自決未遂の直前の東条英機は、自分が公布した「戦陣訓」によって、「俘虜の辱めを受くるよりも死をえらべ」と説いたことを、かなり気にしていたらしい。その東条が、敗戦後もなお、「国民に命令し青年に訓を垂れている」ような遺書を残すということが考えられるだろうか。
 こうした「遺書」は、占領がようやく終了しようとするころ、旧軍人が何らかの意図にもとづいて偽造したものであろう、と私は考える。その旧軍人は、敗戦当時における東条の心境など忖度できないし、忖度しようとも思っていなかった。だからこそ、ああいう「遺書」になるのである。
 ちなみに保阪正康氏は、東条の「遺書」をホープライト記者に提供したと思われる「二人の陸軍大佐」を突きとめ、この二人から話を聞いている。驚くべき調査能力、取材能力であるが、できれば、その「二人」の実名、この二人を特定した経緯などを、明らかにしてほしかった。
 保阪氏は、この遺書が成立した事情に関する、ホープライト記者の説明を肯定していない。すなわち、東条が自決前に二人を呼び、「口述し筆写させた」という記者の説明に対して、「東條が雑談で話した内容をまとめたにすぎない」という自己の印象を対置している。
 これはほとんど、この三通の遺書はニセモノだと断定しているに等しい。その時点では、そうハッキリとは断言できない事情があったのかもしれない。しかし今日、できれば保阪氏には、その「二人の陸軍大佐」の実名、本当に東条英機の「側近」であったか否か、遺書を偽造した理由、その時期、ホープライト記者に提供することになった経緯、などについて、公にしていただきたいものである。

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