礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

外征軍が崩れれば本土は忽ち敵機に蹂躙される

2017-06-23 03:31:06 | コラムと名言

◎外征軍が崩れれば本土は忽ち敵機に蹂躙される

 昨日の続きである。昨日は、『航空情報』第二二号臨時増刊、特集「日本軍用機の全貌」(一九五三年八月)から、奥宮正武「本土防空作戦史 その二」を紹介した(ただし、最初の部分のみ)。
 本日は、同誌同号にある秋山紋次郎「本土防空作戦史 その一」を紹介してみたい。秋山の「その一」と奥宮の「その二」とは、内容が重複しているところがあるが、記述は、「その一」のほうが、ずっと詳しいものになっている。

  本土防空作戦史
  そ の 一   元第100飛行団長陸軍大佐 秋 山 紋 次 郎

 われわれの空はわれわれの手で護ろう、という声が、そう高くはないがしかし力強く、国民の中堅層の中から聞かれるようになつた。太平洋戦争では、日本の空は、遂に米空軍に踏みにじられてしまつたが、その戦いが如何に戦われたのであつたかを明らかにすることは、日本の空を日本人の手にもどす一つの出発点となるのではあるまいか。

  本土防空についての軍の
  基本的な考え方
 陸海軍合同の軍事参議官会議 昭和16年〔1941〕11月5日、この日は日本が、米英蘭国に対する開戦を決意した歴史的な日であつたが、その前日の11月4日、天皇親臨の下に陸海軍合同の軍事参議官会議が開催され、国防用兵に関する件が諮詢せられた。その席上、東条〔英機〕陸相は、百武〔源吾〕海軍大将の国土防空に関する質問に対して次のように答弁した。
「防空は陸海軍殊に航空部隊の積極進攻作戦を基礎として考えざるベからず。即ち国土防空は軍の積極作戦を妨害せざる範囲に準備せらる。
 わが防空兵力は、陸軍約100機、海軍約200機の空中兵力と、要地直接防空のため、高射砲、陸軍約500門、海軍約200門とを有し、微弱ながら最近その整備を終り訓練中なり。
 敵の空襲は、開戦直後にあらずして、若干の余裕あるものと考えあり。時々空襲を受くる程度にあらざるか。先ず航空母艦を進めて空襲す。敵がソ領を基地として空襲を行うに至れば相当危険なるも、開戦直後には起らずと考う。」
 この答弁は,軍中央部の国土防空についての基本的な考え方を明瞭に示したもので、わが本土を空襲し得る地城には敵の存在を許さないという積極防空を本旨としたものであつた。
 積極防空 防空には由来、積極防空と消極防空の二つの方法があると考えられていたが、積極防空というのは、空襲される危険をすくなくすることで、敵の航空根拠地を占領したり、或いは航空母艦を撃沈したりして、敵の空襲を不可能にしてしまうことであり、消極防空というのは、来襲する敵を如何にして防ぎ、また如何にしてその損害を局限するかを意味するものであつた。
 軍中央部の国土防空の基本方針は、陸海軍ともに、この積極防空であつた。軍の編制、装備、作戦、教育、訓練、技術、研究等は、すべてこの方針によつて律せられ、その殆んど全力を外征軍の強化に向けられたため、太平洋戦争の開始に際し、国土の直接防空に充てられた兵力は、数においても素質においても微弱なものであつた。限られた国力で、尨大な野戦軍と防空軍とを同時に編成装備することは事実不可能でもあつたであろうが、しかし軍の防空についてのこの考え方には、攻撃をもつて最良の防禦となし、また守れば足らずとする兵学上の鉄則が、伝統的思想となつて、その底に根深く横たわつていた。
 緒戦以来、わが陸海軍は、南方及び西太平洋の要域を占領し、敵を遠隔の地に撃退したので、開戦初期においては、当時の敵機の性能上、わが本土が敵の本格的空襲を受ける危険は全くなくなつた。従つて本土の対空防備は微弱なままに放置された。
 危険はそこに伏在していた。もし外征軍が崩れたならば、それ自身に待つある備えのない本土上空は、大なる抵抗を試みることも出来ずに忽ちにして敵機に蹂躙されるであろうからであつた。
 この積極防空の理念は、防空部隊の兵器と編成の上にも現われ、防空用飛行機は、このため特に研究製作されたものではなく、野戦用をそのまま充当されたもので、したがつて、その性能は防空戦闘の要求を充足するに不十分であり、また高射砲部隊等の素質も野戦部隊に較べると見劣りするものであつた。
 防空態勢の整備開始 昭和17年〔1942〕4月18日本本土は敵機の奇襲を受けた。その作戦上の性質は、わが第一線の崩れから来たものではなかつたので、さして恐るべきものでもなかつたが、わが国は、本土防空陣が余りにも貧弱なるを痛感し、これを契機として防空態勢の本格的整備を開始することになつた。
 陸軍では、昭和17年5月、防空宣任の飛行部隊として第17(東京)、第18(大阪)、第19(小月〈オヅキ〉)各飛行団を編成し、また京浜、小倉各防空隊(高射砲部隊)を強化してそれぞれ東部、中部、西部防空旅団に改編し、また航空情報網を整備強化した。
 海軍では、昭和18年〔1943〕3月、防空戦闘隊たる第302航空隊を横須賀鎮守府に編入し、次で、第332航空隊を呉鎮守府に、また第352航空隊を佐世保鎮守府に編入した。
 防空兵器の性能向上は、国力、なかんずく科学、技術、工業力に直接つながり、また兵力の強化は、外征軍との兼合いであつたので、これらの実現は容易なことではなかつた。ローマはやはり一日にしては成らなかつたといえよう。【以下、次回】

 一九四一年(昭和一六)一一月四日に開かれた陸海軍合同の軍事参議官会議の席上、東条英機首相兼陸相は、防空兵力が「微弱」であることを認めている。「陸軍約100機、海軍約200機の空中兵力」で、本土が守れるはずはない。
 こうした「微弱」な防空兵力のままで、対英米戦を決断したということは、本土が空襲される事態を、ほとんど考慮していなかったということである。あるいは、一定の戦果を挙げた段階で講和を結べばよい、などの目算があったのだろうか。それにしても、あまりに無謀な開戦ではあった。

*このブログの人気記事 2017・6・23(3・9位に珍しいものが入っています)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 積極防空の隙をついたドウリ... | トップ | 敵の航空母艦が東京を空襲し... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事