礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

積極防空の隙をついたドウリットル空襲

2017-06-22 04:10:54 | コラムと名言

◎積極防空の隙をついたドウリットル空襲

 先日、なにげなく、『航空情報』第二二号臨時増刊、特集「日本軍用機の全貌」(一九五三年八月)を手に取った。巻末に、「本土防空作戦史」という文章があって、「その一」を秋山紋次郎、「その二」を奥宮正武が執筆していた。
 これを読んで興味深かったのは、秋山も奥宮も、口を合わせたように、本土の防空には、「積極防空」と「消極防空」というふたつの考え方があると、まず説明し、続いて、ドウリットル空襲についてコメントしていたことである。
 これを読んで初めて、「積極防空」と「消極防空」という対概念を知った。また、一九四二年(昭和一七)四月のドウリットル空襲は、当時の日本における「積極防空」体制の隙をついて決行されていたことを知り、たいへん勉強になった。
 順序は逆になるが、奥宮正武「本土防空作戦史 その二」のほうから、先に紹介してみたい。

  そ の 二   元海軍中佐 奥 宮 正 武

  積極防空と消極防空
 太平洋戦争中、本土防空という言葉は本州、九州、北海道及びその周辺の小さな島々を敵機の空襲から守るという意味で使われていた。
 戦略的に言つて、本土を敵機の空襲から守る方法には積極、消極の2つの方法がある。積極防空とは敵機を本土に近づけないことであり、消極防空とは来襲する敵機をいかにして防ぐかということであるが、本土の消極防空は海軍に関係ある一部地域を除いては、すベて陸軍の担任と定められ、海軍はそれに協力する立場にあつた。
 太平洋戦争の中期、すなわち昭和18年〔1943〕8月頃に、アメリカ陸軍の超空の要塞B‐29爆撃機の出現に関する確実な情報が入るまでは、わが国は積極防空を主として採用した。そしてそれは必ずしも不可能ではなかつた。というのは、B‐29以前の飛行機はその航続距離がそう大きくなかつたので、日本本土は、附近に敵飛行基地がない限り、敵機の空襲に対しては安全と思われていたからである。
 太平洋戦争の第一着手として、当時本土に最も近かつた米軍の航空基地であるガム島とウェーキ島に対する海軍の攻略作戦が、また中国の大陸において日本に近し、航空基地に対する陸軍の作戦が行われたのは主として以上のような防空の目的のためであつた。
 陸上を基地として行動する大型爆撃機や飛行艇の活動が、その基地を占領すれば完全に封ずることができるのと同じく、空母機の活動を封ずるには空母を撃沈するのがもつと手取り早いことは言うまでもない。ハワイの真珠湾攻撃が開戦へき頭行われたのも、またその根拠地で打ち洩した空母の本土空襲を早めに知るために、本土東方約700マイルの太平洋上に多数の監視艇からなる哨戒線が張られたのもこのためであつた。
 ガム島、ウェーキ島および中国大陸における作戦は一応その目的を達したが、肝腎の空母は真珠湾では捕捉できなかつた。当時同方面を根拠地としていた米空母は、ミッドウェーとウェーキの両島に飛行機を輸送中であつたといわれている。
  ドウリットル飛行隊の東京空襲
 わが空母部隊の飛行機隊が真珠湾に殺到した時不在であつた米空母ホーネットとエンタープライズを基幹とする部隊は、アメリカ西海岸で準備をととのえた後、昭和17年〔1942〕4月、初のわが本土空襲を敢行した。この時、所定哨戒線上のわが監視艇はいち早くこれを発見、極めて勇敢に行動して適切な報告を行つた。あらかじめ敵の企図を察して、連合艦隊司令長官山本〔五十六〕大将が関東方面に待機せしめてあつた第26航空戦隊は直ちに96式陸攻をもつてする索敵隊を、ついで零戦に掩護された1式陸攻を主とする雷撃隊を発進せしめた。しかし、敵艦隊がわが監視艇に発見されたことを知つて、飛行機隊を予定よりずつと早く発進せしめて反転したために、わが飛行機隊はこれを捕捉できなかつた。
 また、監視艇第二十三日東丸〈ダイニジュウサンニットウマル〉等が明かに敵双発機と報告したにもかゝわらず、内地所在の防空部隊は、空母に双発機はおかしい、とその報告に半信半疑であつたのと、空母がもつとわが本土に近づいてから飛行機を発進さすものと考えて敵機の来襲時刻を推定していたこと、さらにドウリットル中佐に率いられた双発のノースアメリカンB‐25爆撃機が、わが方の意表をつく低高度を飛んで東京その他を空襲したこと等が相まつて、わが陸海軍の邀撃〈ヨウゲキ〉戦闘機隊は敵機に対して全く何のなすところもなかつた。
 米機のこの空襲の後、6月上旬に行われたミッドウェー・アリューシャン作戦は、この時にはすでにその計画ができていたが、その作戦の一半の目的はこのような米空母部隊の行動を封ずることであつた。
 わが海軍の主力をあげてのミッドウェー作戦が失敗したにもかゝわらず、その後昭和19年〔1944〕中旬〔「6月中旬」か〕までは、敵機は全くわが本土の上空にはその姿を現わさなかつた。が、この約2年間も、東方洋上においては昼夜をわかたぬ監視艇の活動がつづけられていた。そしてこれらの監視艇の労苦は真に筆紙に尽せないものがあつた。【以下略】

 日本の防空方針は、一九四一年(昭和一六)一二月のハワイ真珠湾攻撃以降、一九四四年(昭和一九)六月一五日、中国の基地を発進したB‐29が北九州に姿をあらわすまで、終始、「積極防空」だったようだ。
 ハワイ真珠湾攻撃は、「空母機の活動を封ずるには空母を撃沈するのがもつと手取り早い」という、「積極防空」の考え方に基づくものだったという。
 太平洋戦争の「第一着手」として、海軍がガム島とウェーキ島を攻略したのも、また陸軍が中国大陸の航空基地を攻略したのも、「積極防空」の考え方に基づくものだった。
 その「積極防空」の隙をつかれたのが、一九四二年(昭和一七)四月のドウリットル空襲であった。この空襲の後、同年六月に行われたミッドウェー・アリューシャン作戦が決行されるが、その目的の一半は、「米空母部隊の行動を封ずること」にあったという。これもやはり、「積極防空」の発想である。
 結局、日本は、一九四四年(昭和一九)六月にいたるまで、「積極防空」から「消極防空」への転換ができなかった。B‐29の来襲によって、ようやく「消極防空」の重要性に気づいたが、そのとき、本土を有効に防衛する航空部隊に欠け、焼夷弾攻撃に耐える防火建築物も普及していなかった。
 最初から「消極防空」を重視していれば、大戦末期における多大な非戦闘員の犠牲は避けられたに違いない。いや、最初から「消極防空」を優先していれば、太平洋戦争そのものが勃発しなかった可能性もある。――こんなことを考えてしまった。

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