礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

清水幾太郎の論理は「自分を利する論理」

2016-05-17 01:37:36 | コラムと名言

◎清水幾太郎の論理は「自分を利する論理」

 昨日の続きである。講談社の「人類の知的遺産 62」、安藤英治著『マックス・ウェーバー』(一九七九)から、「Ⅳ マックス・ウェーバーと現代」の「2 われわれにとってウェーバーとは何であるか?」の「二 自由なる精神」の最後の部分を紹介している。
 昨日、引用した部分のあと、次のように続く(三六七~三七一ページ)。なお、この部分が、同書の最後に当たっている。

 自由の意味 論理というものにはどうも二つの種類があるように私には思われてならない。言うならば、一つは自分を縛る論理であり、もう一つは自分を利する論理である。自分を利する論理はもっぱら自分の利害関係に有利になるように論理が発動する場合を言うのであって、この場合、論理は、自分の利益のために技術的に行使する手段であり道具であるにすぎないから、本質的に自己弁護の護教論に堕す〈ダス〉傾向を持ち、論理が論理として本来持っているべき首尾一貫性は保たれ難い。この論理は、極限化すれば詭弁に陥るであろう。
 これに対して、自分を縛る論理は、「自分」という存在を超えた超越者として働く論理であって、ギリシア人はこれをロゴスと呼んだ。この論理の意味を理解し易くするために極限化して考えれば、たとえばギリシア主知主義の世界でソクラテスがロゴスの命ずるところにしたがって刑死を選んだことに、あるいはルネッサンス・イタリアで、〝地球は動く〟というロゴスのために結局は焚刑〈フンケイ〉に処せられざるをえなかったジヨルダーノ・ブルーノなどの例に象徴されよう。〝単なる実存としての自我〟を超克するところにこそ論理の意味はある。ウェーバーは『職業としての学問』で「概念の万力」という点で論理の強制力を表現した。それは、守られるべき価値、人間の在るべき姿のために、生身【なまみ】の人間としての欲求と恣意を統御することにほかならない。
 こういうギリシア流のロゴスの代りに人格神の命令を置きかえれば、旧・新約聖書の世界になる(第Ⅲ部の3、4参照)。アダムの創造物語からしてすでに、たんなる実存としての人間は土塊にすぎず、人格神から人格を吹き込まれることによってはじめて〝人間〟になる、という意味に解釈することができるが、かの預言者達の召命は、人問が超越者に捉えられ、超越者の道具になることによっていかに強力な自己統制型の人間になりうるかを図解してみせてくれた。このようにロゴスや人格神に縛られて、自己を統制するとき、超越者に捉えられた人間にあっては超越者の意志がすなわち自分の意志になるから、そこに一つの自由感情が働くことになる。パウロはこういう意味の自由を縦横に語っている。
 要するに、自分を利する論理と自分を縛る論理という対比は、自分の利益に生きようとする利巧な人間と、いかなる意味においてであれ自分を超える存在をめざして誠実に生きようとする人間、という精神の対比でもある。この対比を極限化して政治の世界に置換えれば、「安全」と「正義」という対立になる。近代思想の黎明期においては第三身分の安全(生命・財産)が同時に人間の正義として語られえた。安全と正義がほとんど本質的に乖離〈カイリ〉してきたのが現代社会の一つの根本的特色であることは、公害問題一つとっても明らかであろう。このような状況下に立って、安全のためにロゴスをヒン曲げてはならないというのがウェーバーの要求であり、彼の学問論の精髄であった。それがまたウェーバーにおける「自由」であり、そういう意味における自由なる精神こそがウェーバーの「思想」であった。
 たまたま、本論執筆中に清水幾太郎氏の「戦後を疑う」一文が『中央公論』六月号(一九七八年)にのった。『週刊朝日』(一九七八年八月四日号)は、週刊図書館書評同人が「出版界('78年上半期)を斬る」座談会をのせた。この同人は彼を「風見鶏」と呼んでいる。つまり、その都度その都度の状況にうまく適合したことを言うが、その言説の軌跡を辿るど一貫性がないばかりか、まったく逆のことまで平気で言い出すという意味である。言いえて妙と言うべきである。ロマン・ロランはこういう風見鶏的思想家を「思想の器用な手品師」と呼んだ。小論とはいえ、戦後のいわゆる「進歩的文化人」の代表者的存在であった彼の言動のもつ意味は無視しえない大きさを持つ。昭和史論争が私にとっては日本の社会的エートスの本質的一側面を代表していたように、この人はその都度その都度の日本の社会的潮流の動向を測定するバロメータ的存在でもある。大政翼賛会を思わせる今回の発言をみると、「この道はいつか来た道」の感が深い。かつて内灘〈ウチナダ〉の闘争に大衆を動員し、治安維持法を「稀代の悪法」ときめつけたこの人が、今回その治安維持法を「自然の」成りゆきだと肯定し、天皇を「上御一人」〈カミゴイチニン〉などと時代がかった大見得〈オオミエ〉を切っているのをみると、「学問の世界から本体(得体)の知れない理想主義の化物を追い出した」学者として大内兵衛〈オオウチ・ヒョウエ〉氏がウェーバーの死を追悼したのが半世紀を超す昔物語、とは到底言えないであろう。今日の時点における日本の知的天候図として記録しておきたい。
 たしかに、この人のように状況の推移とともに転身してゆくのもまた一つの自由ではある。論理に自分を利する論理と自分を縛る論理があったように、自由にもまたしたいことをする自由と自分を縛る自由があることが改めて実感される。わが国の戦後民主主義に最も欠けていたものは、清水流の華麗なる自由ではなく、自分を縛る論理であり自分を縛る自由であったと私は考えている。
 しらけの時代といわれ、ものごとに賭けるというような生き方が肌に合わないのが当世ふう、とよく語られる。そういう風潮に逆らう考え方や生き方は、まさに「季節外れ」の考察であろう。だが、そういう「時流に逆らって」、「それでもなお!」と言える人間だけが真の意味での政治家たる資格を持つ、というのが『職業としての政治』を結ぶウェーバーの言葉であった。同時にそれが人間としてのウェーバーの生き方でもあった。彼はそういう生き方を人間の「名誉」であり「品位」であると呼んだ。彼はそういう人の生き方をその精神構造について「科学論」で、その歴史的意味と位置づけを「歴史の社会学」でそれぞれ論理化し、自分の「実人生」における実践をつうじてその意味を確証した。
【一行アキ】
 われわれもまた日常生活の内部において自分の生きる意味を確証してゆかなければならない――ウェーバーから学ぶべきことは、こういう意味での誠実な自己責任の原理だと私は考えている。

*このブログの人気記事 2016・5・17(8・9・10位に珍しいものが入っています)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 中立とは現状を与件として受... | トップ | 戦時下の国民学校に寺子屋式... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事