礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

松岡は拒絶、廣田は固辞(特使派遣)

2016-09-22 03:42:17 | コラムと名言

◎松岡は拒絶、廣田は固辞(特使派遣)

「時事叢書」の第九冊、大屋久寿雄著『終戦の前夜――秘められたる和平工作の諸段階』(時事通信社、一九四五年一二月)を紹介している。
 本日は、「松岡・廣田は起たず」の節の前半を紹介する(一五~一六ページ)。

 松岡・廣田は起たず
 五月十一、十二、十三の三日に亘る最高戦争指導会議は、上述のごとくその対ソ政策三案を決定したが、そのうちいづれを第一に、またいづれを主目的として、爾後の対ソ折衝を続けて行くかについては、この会議では何らの決定をも見てゐない。そしてただ漠然と、何者か総理級の大物をソ連に派して、右三案のうちいづれが最も実現の可能性を持つかについて、ソ連側の意嚮〈イコウ〉打診を行はしむることに決したのであつた。
 前にも書いたやうに、この種の考へ方が今日の国際社会ではもはや完全に通用しない旧式手段であるといふことはここでもまた忘れられてゐるのである。何ら訪問の意図をも明かにすることなく、ただ漠然たる大物派遣などといふ時代錯誤の提案を素直に歓迎する国は今日の世界には一国だつてありはしない。殊にソ連において然りである。出発点において対手国〈アイテコク〉を知らざることかくのごとし、もつて鈴木内閣の対ソ工作の前途は大体予想されるところであつた。
 しかし、流石に〈サスガニ〉東郷外相はこの種の特派派遣は内心不同意であつた模様である。またモスクワの佐藤尚武大使からは相当強硬な反対意見が申送られて来た。とはいへ、これが会議の支配的意見であつてみれば、東郷外相としては不本意ながら実行の衝に当らざるを得なかつた、といふのが真相である。
 東郷外相は元駐支大使川越茂氏に旨〈ムネ〉を含めて、特派使節候補者として選ばれた元外相松岡洋右、元首相廣田弘毅の両氏にその蹶起方〈ケッキカタ〉勧説を委嘱〈イショク〉したのであつた。
 松岡洋右氏は三年余に亘る肺患いまだ癒えず、ひたすら世を避けて療養生活に専念してゐたが、川越氏の来訪をうけて、その身の病気はともかくとして、かかる対ソ交渉は日本が直面してゐる現下の客観情勢から見て、所詮成功の見込みは全然ないとの見解を披瀝してきつぱりとこれを拒絶したのであつた。一方廣田弘毅氏は松岡氏とはやや見解を異にした。彼は話の持ち込み方如何によつては必ずしも成功の可能性なしとせずとの意見であつた。しかし、氏自ら特使たることはこれを固辞してうけず、その代りに今後とも別様の手段でならば随分ともに援助・協力を惜しまない旨を約したのである。
 かくて、結局、特使派遣の計画はこれで三度流産となつたわけである。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2016・9・22(6位にきわめて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする