礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

小磯国昭首相、和平打診を計画する

2016-09-14 04:02:57 | コラムと名言

◎小磯国昭首相、和平打診を計画する

「時事叢書」の一冊、大屋久寿雄著『終戦の前夜――秘められたる和平工作の諸段階』(時事通信社、一九四五年一二月)を紹介している。
 本日は、「小磯内閣の対ソ工作」の節の後半、ただしその一部を紹介したい。

 一方、緒方国務相を中心とする対重慶工作は、いはゆる繆斌〈ミョウヒン〉工作となつて進展しつつあつた。支那事変の当初北支新民会運動の理論的指導者として活躍し、その後南京・上海地区にあつた繆斌氏は曽て〈カツテ〉緒方氏とも面識の間柄であつたが、彼は重慶側に対日和平の意志ありと称して自ら「穏密なる重慶代表」との触れ込みで東京に至り、緒方氏をはじめ政府要路〈ヨウロ〉とも会見して種々画策奔走するところがあつた。またこの間退役陸軍大将宇垣一成〈ウガキ・カズシゲ〉氏も勧むる人あつて重慶工作に一肌ぬがんものと自ら渡支したりしたが、これは直接には政府との間に何の関係もない動きであつた。
 しかしこれらの対重慶工作は、いづれも重光外相を初め駐華大使谷正之氏等の強硬な反対に会つたほか、繆斌氏自身の提案内容にも些か〈イササカ〉瞹昧の点があつたりした結果、結局何らの具体的結実を見ることなしに潰え〈ツイエ〉去つたのであつた。
 ここにおいて小磯首相は自ら第三の策を立てた。それは久原房之助〈クハラ・フサノスケ〉氏をソヴェトに、近衛文麿公をスイスに派遣せんとする案であつた。久原氏はかねて政界のダーク・ホースといはれ、二・二六事件以来一切表面だった動きからは身を引いてゐたが、依然として政界の一部には隠然たる勢力を残してをり、加ふるに事業関係を通じてソ連との間に多少の因緣を持つてゐた。小磯首相はこれをモスクワに派して日・ソ友好関係の確立に当らせようとする一方、かねて親米・英派と目されてゐた近衛公をスイスに派して対米・英和平打診を行はしめんとする計画を立てたのであつた。
 しかし、この小磯案はこれまた重光外相の反対するところとなつて何ら具体化することなく、そのまま立消えとなつた。
 そして、二十年二月には硫黄島〈イオウトウ〉が、三月には沖縄が相次で敵手に略り、加ふるにわが本土に対する敵の空襲は日毎に〈ヒゴトニ〉その強度を増し、太平洋戦局の山はいまや全く見えたといつてもよいところまで来てしまつたのである。かくて四月早々小磯内閣は挂冠し〔辞職し〕、後継内閣首班には、全く世人の意表を衝いて、鈴木貫太郎海軍大将が就任した。【以下、次回】

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