礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ソ連参戦前に戦争終結を策すべきである(瀬島龍三)

2020-04-24 02:39:13 | コラムと名言

◎ソ連参戦前に戦争終結を策すべきである(瀬島龍三)

 瀬島龍三の『瀬島龍三回想録 幾山河』(産経新聞ニュースサービス、一九九五)を紹介している。本日は、その三回目。
 本日、紹介するのは、第二章「大本営時代【昭和十五年~二十年】」の第四節「戦争終結へ」中の「昭和十九年秋より二十年初夏」の項(一六一~一六九ページ)の末尾にあたるところである。

 〔昭和二〇年=一九四五〕一月末、私は連合艦隊司令部に着任し、豊田副武〈ソエム〉長官、草鹿龍之介〈クサカ・リュウノスケ〉参謀長、高田利種〈トシタネ〉参謀副長らに申告した。当時、連合艦隊司令部は海上でなく陸上の日吉(慶応幼稚舎)にあった。開戦以来、〔陸海〕両軍の協同作戦業務に携わってきた私とは旧知の人たちが多く、特に神重徳〈カミ・シゲノリ〉先任参謀、三上作夫〈ミカミ・サクオ〉作戦甲参謀、千早正隆〈チハヤ・マサタカ〉作戦乙参謀らとは忌憚なく討議できる間柄であった。
【中略】
 沖縄作戦の間、東京では四月七日、小磯〔国昭〕内閣に代わり、鈴木〔貫太郎〕内閣が成立した。
また、四月五日、ソ連は日ソ中立条約の不延長を通告してきた。四月三十日、ドイツのヒトラー総統は自殺し、ベルリンは陥落、五月八日、ドイツは降伏した。欧情勢は急転した。
この間、陸軍は沖縄作戦と並行し、来るべき本土決戦の準備に邁進していた。南九州にも続々と陸軍兵力が展開されつつあった。
【一行アキ】
 四月半ば、私は作戦業務連絡のため鹿屋〈カノヤ〉基地から上京した。久しぶりに迫水久常〈サコミズ・ヒサツネ〉書記官長に電話した。迫水さんは「ぜひ会いたい」と言い、私は翌日夜十二時ごろ、書記官長官舎を訪ねた。迫水氏は防空幕を下ろした官舎の応接間で国民服を着て待っていた。緊張・苦悩のためか、大きい目がさらに大きく見えた。まず、沖縄作戦について聞かれ、状況を説明した。
迫水さんは「龍三さん、内外の我局は我が国にとって極めて悪い。鈴木内閣としては、まさに正念場だ」と前置きし、「陸海軍は本土決戦を強く主張しているが、本土決戦で本当に勝ち目はあるのだろうか」と聞いた。
 瞬間、私は困った。私は大本営陸軍参謀であり、連合艦隊参謀でもある。返答に窮した。しかし、国家、民族にとって重大事であると思い、「現在の私の立場を離れて個人としての本心を申し上げる」と切り出し、次のように話した。
「今、考えなければならないことは二つある。一つは『ソ連の対日参戦』、もう一つは『本土決戦』の問題である。私の判断するところ、特に伝書使旅行のときのソ連軍の東送状況、ソ連の中立条約不延長通告などよりして、必ずや北満が厳冬期を迎える前の九月以前に対日参戦するであろうと考えられる。これは我が国の戦争遂行に決定的な影響を与えると思う。また、本土決戦については、従来の太平洋における離島作戦と異なり、陸軍の大兵力をある程度集中使用し得るので、その点は有利であるが、その成否の見通しは四分六分と言わざるを得ない。それは陸海軍の航空戦力がほとんど無力に近いからである。ことに本土決戦の場合は婦女子を巻き込み、全国土は完全に焦土と化し、その結果は戦後日本の復興も国体の護持もともに不可能となるであろう。要はソ連参戦前に戦争終結を策すべきである」
 私は、伝書使旅行、沖縄作戦の間、絶えず考え悩んでいたことを率直に披瀝した。いつもは会話の途中で何かと発言する迫水さんであるが、このときは 天井の一画を見つめながら黙々と聞いていた。そして、こう言った。
「龍三さん、ありがとう。本当のところがよくわかったような気がする。鈴木総理にもこのことを報告し、一身を顧みず戦争終結に全力を尽くしたいと思う。いつ会えるかもしれないが、お互いに国のために頑張ろう」
 私は、迫水さんから冷えたお茶を一杯いただき、別れた。
〈私はその三カ月後、関東軍に赴任し、終戦後、シベリアに抑留された。迫水さんと再会したのはこのときから十一年後、シベリア抑留から祖国に帰った昭和三十一年〔一九五六〕八月、品川駅のホームであった〉
【一行アキ】
《迫水氏は参議院議員時代の昭和五十一年〔一九七六〕八月の同台経済懇話会での講演「言い残しておきたいこと」で、このことに触れ、次のように述べている。
「昭和二十年四月中ごろ、すなわち鈴木貫太郎内閣が成立して間もなく、深夜おそらく午前一時を過ぎていたと思いますが、私は、内閣書記官長官舎に私服の瀬島さんの訪問を受けました、
……(中略)……話は当然、戦局の推移の問題になり、私が鈴木総理の真意は、できるだけ早く戦争を終結に導くことにある旨を打ち明けたと思います。これに対し、瀬島さんは『私が参謀本部において、いろいろ計算してみましたが、どう計算しても今後戦局を好転せしめ得る見込みは残念ながらありません。内閣の方針は極めて妥当であると思います』という、 まことに率直な話であったのであります。
……(中略)……私はこの要旨を鈴木首相に伝えました。私としては陸軍の建前と本音を知ったような気がしました。この私の報告で鈴木首相の終戦の決意を一層固くするのに大きな効果のあったことはいうまでもないと思います。私は瀬島龍三さんも終戦について一つの大きな役割を果たした人だと思います」》

 文中、「伝書使旅行」とあるのは、一九四四年(昭和一九)一二月から翌年二月にかけて、「瀬越良三」という変名を用いた瀬島が、外交伝書使として、モスクワを訪れた旅行を指す。
 また、「同台経済懇話会」とは、陸軍士官学校、陸軍経理学校、陸軍幼年学校、防衛大学校出身の経済人で構成されるクラブである。一九七五年(昭和五〇)創立、初代の代表幹事は、瀬島龍三。
 なお、迫水久常と瀬島龍三は、親戚の関係にある。迫水久常は、岡田啓介の長女・万亀と結婚しており、瀬島龍三は、松尾傳蔵の長女・清子と結婚している。そして、松尾傳蔵は、岡田啓介の妹・稔穂(としお)と結婚しているからである。さらに、岡田啓介と鈴木貫太郎も、親戚の関係にある。鈴木貫太郎の甥・鈴木英(すぐる)が、岡田啓介の次女・喜美子と結婚しているからである。ということで、岡田啓介、鈴木貫太郎、迫水久常、瀬島龍三らは、すべて親戚の関係になる。

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