礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

英語塾頭の斎藤謙三氏を取調べた

2023-12-22 03:42:02 | コラムと名言

◎英語塾頭の斎藤謙三氏を取調べた

 上原文雄『ある憲兵の一生』(三崎書房、1972)の第三章「戦渦」から、「浜松地区初空襲」の節を紹介している。本日は、その二回目。
 
 二月になると敵B二九の来襲はいよいよはげしくなって、十六日の帝都大空襲は多大の被害をうけたことを伝えた。
 前年〔1944〕の秋頃から、内地防衛部隊が配置され、浜松地区には鈴木〔貞次〕中将を師団長とする護古師団が伊佐見小学校に司令部を構え、沿岸各地に連隊本部をはじめ各部隊を配備して、陣地構築にとりかかり、いたるところに防空壕を掘っていた。
 世間ではこの防衛部隊を、『竹やり、横穴部隊』と称していたのである。
 これと前後して、浜名湖では秘密演習実験部隊として、帝大と技研が共同して、秘密兵器の実験が行なわれていた。
 秘密兵器といっても、熱線を利用して、熱源に向って誘導弾を投下するというものであったらしい。
 憲兵はこれが防諜のため、新に志内大尉以下二十名余りを、浜名湖周辺に配置して、警戒にあたった。これ等の防諜憲兵は別部隊として、名古屋憲兵隊長の直轄下にあって、張込み、内偵、通信検閲まで行なっていた。
 護古師団には、郷里飯田市から前沢英文弁護士が法務少尉として応召配厲になって来ていた。
 従兄にあたる日紡〔ママ〕鷲津工場所長の矢高氏と、二人であいさつに来られ、その後も度々往来があったが、前沢少尉が赤痢に罹って、看護に奥さんを呼ぶやら、チリ紙、木炭の買出しを頼まれたこともあった。
(矢高氏は富士工場に転任したが戦後間もなく自殺され、前沢弁護士は飯田市で開業していて、戦後も親交があったが先年病死された)
 四月にはついに沖縄が陥落し、米軍が全島を占領した。
 国内では、治安強化と国民防衛隊が編成され、浜松には、在郷軍人の神田少佐を隊長とする国民軍司令部が設置され、中野学校出身の見習士官一名が配属になった。
 その頃に至って、居住外諜容疑者を監視せよということになり、かねて外国人宣教師と親交のあった英語塾頭の斎藤謙三氏を、分隊に招致して取調べることになった。
 特高係の西村軍曹を、二俣の疎開先へ派遣すると、
「妻と最後の別れをして行くから待ってくれ」と、奥様と離別のあいさつを交してから、同行して来たという。
 私が直接会って取調べたところ、松城教会のアメリカ人牧師等とは親交もあり、塾生からは胯田〔ママ〕など共産党員も出しているが、よく話すうちに、亡父〔斎藤信勤〕は水戸藩士であって明治維新によって、牧の原に移住した人で、勤王心の厚い人であったこと、米国政府が対日戦争を起すに至った指導方針に反感を抱いており、日本人として国を売るような諜報容疑は持てぬ人物であるとの確信を得たので、次のような独断処置をとることにしたのである。
 普通なら外諜容疑者として、警察が保護留置という形式で拘束するのであるが、そんなことは避けて、
「先生を取調べたことは御承知のとおり、外諜容疑を取締るためでありますが、お話しを承って、そのような心配は毛頭もないと存じますので、もしもこれから外を出歩いて、他の機関からとやかく疑われると御迷惑と存じますから、先生はこれから憲兵分隊の通訳となって、できる限り毎日通助して下さい。通勤費や手当のことは後で考えます」
 と伝えると、
「私は、今朝憲兵が来たので、もうこれきり家に帰えれぬと覚悟して参りました。失礼乍ら、米軍に対する敵慨心〔ママ〕は貴官に劣らぬと確信しています。私は貴官と一緒に戦死します」
 と涙を流されての返答であった。
 そこで、日本楽器の川上〔嘉一〕社長に電話して、
「社長も御存じの斎藤謙三先生を、今日から憲兵分隊の通訳にお願しようと思うのですが、憲兵分隊には金がありませんので、日本楽器と兼務の通訳として嘱託にしたいのですが、給料をなんとかなりませんか?」
 と依頼すると川上社長は、
「それは大変よい処置です。手当の方に会社で何んとか考えます」
 と心よく承知してくれた。
 さらに遠州鉄道本社の西川〔熊三郎〕社長に電話して、通勤パス一枚を無償発行してもらったのである。
 先生は毎日憲兵分隊に出勤して来て、読書などしていたが、配給品の砂糖や菓子を珍らしがって持ち帰っていた。【以下、次回】

「護古師団」は、原文では「護固師団」とあったが、引用者の責任で校訂した。「護古師団」は通称で、正式名は、第143師団。1945年2月28日編成、師団長は、鈴木貞次(さだじ)中将。
「日紡鷲津工場」とあるのは、原文のまま。「富士紡鷲津工場」の誤記か。
 斎藤謙三(1890~1984)は、在野の教育者で、浜松市内に、「斎藤塾」(斎藤英学塾)と呼ばれる塾を開いていた。
「日本楽器の川上社長」は、原文では「日本楽器の河上社長」とあったが、引用者の責任で校訂した。実業家・政治家として知られる川上嘉一(かわかみ・かいち、1885~1964)を指す。

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