礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「カミ」の語源に関する石川三四郎説

2013-04-13 05:59:56 | 日記

◎「カミ」の語源に関する石川三四郎説

 何回か、石川三四郎の『増補 古事記神話の新研究』(ジープ社、一九五〇)を紹介してきたが、一応、本日でひと区切りとする。
 本日は、同書の最終章である第二一章「『天』及び『神』」から、二「『神』の文字」を紹介する。

二 『神』の文字
『神』〈カミ〉の語は、如何なる意義を以て最初の語源をなせしか、学者は種々なる説明を施して居るやうではあるが、どうも纏まり〈マトマリ〉がつかぬ。或は神は上〈カミ〉といふ意味から転化したものであると言ふ説があつて、先づ危険少き解釈とせらるゝやうではあるが、果して如何。ブラーマにては神をカアマと称し、パレスチンのモアブ民族では神をカモスと称するが、それが我が日本民族のカミとどれ程の交渉があるか、亦是等の称呼は如何なる沿革由来を存するか、是が更に問題である。
 神は或はセミチツク語のハム或はカムから由来したものかも知れない。アブラハムのハム、オルカムのカム等は、カミの語源をなして居るかも知れない。この場合のハム或はカムは人民といふ意味である。古事記神話に八百万神〈ヤオヨロズノカミ〉と書いてある場合の神とは即ち万民といふ意味に解し得るが、さすれば右のハム或はカムと一致することゝなる。前に氐族の研究に際して、ビルマの山中にカミと称する種族あり、そのカミとは人間とか自由人とかを意味し、この異族が自ら誇称する名称である。と述べてあるが、こゝにいふ八百万の神なぞと言ふ場合と合致するであらう。
 パレスチンの北方シリヤの地を、カムと称する。カムは即ちシリヤの別名である。ヘブリュウの創世記にはノアの子にヤペテとセムとカムの三人があつたと記してある。カムがシリヤの別名となつたのも実はこの旧約書かち由来したものに相違ない。それは兎も角も〈トモカクモ〉、我が天孫民族の一部なりと信ずる彼の〈カノ〉ヒツチト〔ヒッタイト〕即ちヘデ民族は旧約創世記の記者によるとカムの子供である。そしてその盛時にはシリヤに大帝国を建設した。『神』といふ名称は或は是より由来して居るかも知れない。即ち『カム』は民族の総称でありて、八百万の神とは総ての『カム』民族といふ意味になりはせぬか。神武天皇は『神〈カム〉ヤマト、伊波礼毘古〈イハレヒコ〉』と称ばれ給ふた〈ヨバレタモウタ〉が、その『神』はカム民族のことにして、ヤマトは山人或は天孫といふことであることは前にも述べた通りである。
 古事記には、『神』は決して宗教的崇拝の対象になつて居ない。古事記に出て来る総ての人格者は悉くこれ『神』である。神は命〈ミコト〉である。そして古事記には神と命とは全然同意味の用語になつて居る。イザナミの命は同時に神とも記されてある。猿田彦神は同時に猿田彦命である。要するに神は固時に命であつて、而して〈ソカシテ〉些か〈イササカ〉も宗教的『神聖』の意味を含んでは居ない。
 神が『上』〈カミ〉の意味を有することは今日に於いては争はれぬことであらう。併しそれは神が上といふ意味から起つたといふ論拠にはならない。寧ろ、上といふ語に崇高の意味を添へるやうになつたのは後のことであつたと思ふ。

 視野が世界に及んでいる。発想がユニークである。にもかかわらず、結論を押しつけず、読者に判断をゆだねている。それでいて、神にはもともとは、「崇高」の意味はなかったという、最重要の点については、しっかりと主張している。
 この石川三四郎という人は、なかなかの学者であり、なかなかの文章家であると思う。もっと関心を持たれてよいし、もっと評価されてよい人物なのではないだろうか。

今日の名言 2013・4・13

◎古事記に出て来る総ての人格者は悉くこれ『神』である

 石川三四郎の言葉。『増補 古事記神話の新研究』(ジープ社、1950)の300ページに出てくる。上記コラム参照。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 石川三四郎『古事記神話の新... | トップ | 隣のジンダは酸いうまい »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事