住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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幅広く仏教について考える

備後國分寺だより 第68号(令和6年8月1日発行)

2024年07月22日 06時58分04秒 | 備後國分寺だより
備後國分寺だより 第68号(令和6年8月1日発行)





三十年ぶりのご開帳の一日

三月三十一日、一日曇り空の天気予報でしたが、雲の切れ間から青空がのぞき明るい陽のさす朝を迎えました。

五時の鐘を撞き、日課である本堂の仏飯茶湯をお供え後、客殿の雨戸をあけ、寺院方の金襴のスリッパを並べました。客殿前の門を開き、赤いカーペットを敷いて寺院方の雪駄を置いてもらうための靴入れを用意しました。寺方駐車場に寺院専用駐車場と書いた立看板を出し、本堂東スロープに参詣者用の緑のカーペットを並べ、本堂正面の入り口に寺方の入堂用の赤いカーペットを敷きました。

午前八時前には、総代世話方が集結し、一日の行程を確認。配布物の最終チェックを行いました。寺方集会(しゅえ)時間前には一人二人とお寺様方が客殿にお越しになる中、前日から来福の中央大学教授保坂俊司先生もお越しになり、控えの間にご案内しました。

神辺結衆ご寺院はじめお寺様方全員お集まりになり、挨拶の後、特別にご出仕願った岡山倉敷の宝嶋寺様、総社西明寺様をご紹介。涅槃会のために職衆(しきしゅう)みな色衣紋白(しきえもんじろ)帽子を着しました。

この日午前九時から午後五時まで予定していた本尊御開帳の開扉は、本堂に九時から予定の涅槃会(ねはんえ)に入堂後、職衆が薬師真言を唱える中、住職が本尊前に進み須弥壇(しゅみだん)に上がって開扉を行い、そのあと大壇前の礼盤(らいはん)に進み、涅槃会勧請(かんじょう)の頭(とう)を発音(ほっとん)。総礼(そうらい)の頭を唱えた後、座坪に戻ると、舎利講式を唱える式師が登壇。その後、奠供(てんぐ)、祭文(さいもん)などが順に唱えられ、略しながらではありますが、全ての次第を唱え終わり、一時間少々で涅槃会舎利講を終え退堂しました。

この頃には俄かに参詣者が増え、涅槃会が終わると、待ちきれなかったかのように多くの人が本尊厨子の前に進み、行列をなしていました。着替えをして本堂に様子を見に行くと、かつて単身赴任で福山で仕事をされていた頃坐禅会に参加され、その後大阪にお帰りになった方がこの日のために参詣に来られていてお会いしたり、先代の親族にあたる方がお見えになっていたり。檀信徒はもとより、遠方からお越しの方も多かったように見受けられました。

このあと、稚児行列のため、衲衣袍(のうえほう)服(ぶく)に着替え、檜扇(ひせん)、装束念珠(しょうぞくねんじゅ)を手に参道に出ました。心配されていた空には青空がのぞき、多くのカメラを持った人が参道沿いに陣取る中、参道中ほどに進むと、すでに稚児たちがご家族とともに整列し、御詠歌衆も準備していました。車でお越しの徳島文理大学教授の濱田宣先生も丁度参道を入ってこられました。金棒(かなぼう)持ち、傘持ちの方も控えていて、歩き方の指導を受け、準備調い進行開始。法螺(ほら)の音に続き銅鑼が鳴り、鉢がつかれ、御詠歌衆が唱える修行和讃を聞きつつ、顔見知りと挨拶をかわし乍ら歩みを進めました。

本堂に稚児は東スロープから入り稚児加持を受け、その間寺方は正面の赤いカーペットを進列して入堂し内陣に座し、住職三礼して登壇着座して、塗香護身法、洒水(しゃすい)。前讃(ぜんさん)発音して、前讃のあと、慶讃文を奉読。

慶讃文終わり、後讃、般若心経が唱えられる中、稚児は本尊前に進み蓮華をお供えし退座、外に出て記念写真撮影にむかいました。寺方は心経の後、薬師真言、光明真言、大師宝号、廻向文を唱え退堂。記念写真には、お稚児さん、寺方諸大徳、当山役員、御詠歌衆とこの日ご参詣の先生方にも入っていただき、稚児さんの視線を集めるためにアンパンマンのぬいぐるみも登場して撮影を終えました。

それから、國分寺会館にて、檀信徒と先生方も来賓として同席してもらい、ささやかながら祝賀会を催しました。この間寺方は、集会所である上段の間で軽食を摂られ、しばし休息。土砂加持法会のため、職衆は色衣紋白、導師を勤める住職は衲衣袍服(のうえほうぶく)に着替え、午後一時に入堂。

職衆が土砂加持法則(ほっそく)にしたがい声明(しょうみょう)を唱えられる中、御開帳された本尊様を拝しつつ光明真言法(こうみょうしんごんぼう)を修法しました。光明真言法において勧請(かんじょう)する本尊は法界定印を結ぶ大日如来であり、そのお姿を観想しつつ、その後ろに本尊薬師如来様を重ね見ていると次第に本尊様が厳しいまなざしから微笑まれているように感じられ誠に有り難たい法悦にひたり修法を終えました。

土砂加持法会後は、この日ご参詣いただいた二人の先生から記念講話が予定されていました。はじめに、徳島文理大学文学部文化財学科教授で学部長も兼務されている濱田宣先生から、御開帳の仏様方の解説がありました。先生は令和三年十月十一月と、福山市文化振興課の皆様とともに國分寺の仏像の実態調査にお越し下さり、ご指導いただきました。そして、遠路東京方面からお越しの中央大学国際情報学部教授保坂俊司先生からは國分寺創建時の話も交え、日本文化と仏教とのかかわりについてご講話がありました。本堂ばかりか外にも立って聞いてくださっている方々が大勢居られ、大盛況となりました。(四頁から一九頁参照)

最後に、「この本堂を再建された水野勝種侯はとても領民思いのよいお殿様であったと語り継がれており、この國分寺も一人一人の領民がよりよくあるように幸せであるようにと願い再建して下さったのではないかと思われます。ご自分が再建したお堂に、今日こうしてたくさんの皆様がお参りされたことを、勝種侯が逝きし世からご覧になられ、たいそう喜んでおられることと思います。今後とも國分寺にご参詣下さいますよう、皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします」と申し上げ、参詣の皆様への御礼の挨拶とさせていただきました。そして、先生方へ再度拍手をお願いし、三時十五分頃散会となりました。

お寺様方はこの講話の間にお帰りになられ、先生方には控えの間でお茶を差し上げ御礼申し上げお見送りいたしました。境内に戻ると呉からお越しの知人に会え、ご縁に感謝し、またの再会を約しました。その後五時まで御開帳のため、その間に総代世話方慰労会をさせて頂き、まだ片づけは残るもののとても盛会であり成功裏に終わった一日を語りつつ祝杯をあげました。

午後五時丁度再度参詣下さった圓照寺ご住職様とともに真言を唱え、本尊厨子を閉扉し、御開帳を終えました。

遠方からも大勢の皆様がご参詣くださいましたこと感謝申し上げます。今年一月から一日一日この日のために様々準備を重ね思案しつつ来たことがやっと無事に終わり安堵しております。

最後とはなりましたが、土砂加持法会後に参詣の皆様には申し上げましたが、この日ご開帳があることをお知りになられ沢山の方々が参詣くだされるためにご尽力くださったメディア関係の方々、特に福山コンベンションセンター、中国新聞、読売新聞、エフエム福山、プレスシードの皆様、また当日取材して下さった井原放送の皆様などたくさんのメディア関係各位に御礼申し上げます。       (全)



三月三十一日
※当日の内容を一部再構成・修正
御開帳記念講話
 徳島文理大学文化財学科教授 濱田 宣 (はまだあきら)先生 

『御開帳の仏像を観察する』


ただ今ご紹介いただきました濱田です。私事で恐縮ですが、私は今日を以て、めでたくと申しますか、徳島文理大学を退職いたしました。退職日が近づくと、退職後のことをよく聞かれます。私は広島県内の市町の文化財保護審議会(委員会)委員をしていまして、この福山市もそうなんですが、仏像を中心とした仏教美術の調査研究を行うため、各寺院が所蔵する仏像の悉皆(しっかい)調査を約二十年前から行っており、退職後はその仕事に専念しようと考えています。因みに、令和三年度にこちらの國分寺の仏像すべてを調査させてもらいました。

そこで皆さんにお伺いしますが、このお寺に仏像が何体おられると思われますか。実は八十体以上おられるんです。現在、福山市内の寺院が所蔵する仏像の悉皆調査を福山市文化財振興課と共に進めており、十七か寺を済ませ、今後も続けていきます(福山市内には約二〇〇か寺所在)。仏像に関する記録を残していくことの意義は何かと申しますと、今現在の重要な歴史記録を残すということで。そのことは今すぐに評価されるようなものではなくて、私がいなくなって二百年後三百年後に歴史的に役に立つものと確信をもってやっています。

仏像の観方

前置きはそのくらいにして本題に入ります。

今日こちらで御開帳されている薬師如来像をはじめとして、須弥壇に安置されている仏像を、皆さんご覧になられています。今日は何も資料を用意しておりませんので、皆さんとやりとりをしながら、仏像の観方を学んで頂きたいと思います。学ぶというのは、私の考えですが、楽しみながら学ばないと身に付かないし、興味も湧いてこないんではないかなと思っています。

私は、仏像の話を方々でやっていまして、仏像に関する話は約三十五年くらい続けていて、合計五百回くらいになるかと思います。福山では、NHK福山文化センターにおいて十年間で百二十回、引き続き福山リビングカルチャーで二年で二十四回、仏像の観方について講義しており、まだ百回くらい続けないと私が学んできた仏像の話は終わらないんですね。それくらいの分量のことを本日は三十分でお話しいたします(笑)。

仏像の何を見ればどんなことが解るのか。仏像の姿や形、持ち物などから、それらが何を意味するのか、そこから何が言えるのか、ということなのですが、私もまだ解らないことだらけです。解らないことに出会って、それが解るとうれしいですね。そういう感覚が私に長く仏像の研究を続けさせてくれているのではないかと思っています。

例えば、わたしがこういう風に立っています。これはどんな格好をしているのかということを皆さんに読み取ってもらいたいのです。例えば、両手でマイクを持っています。めがねを掛けています。頭、かなり刈り込んでいます。そういった情報をひとつ一つ集めていくと、仏像の成り立ちが徐々に解っていくんですね。人間同士がはじめて接触して、挨拶したり、話をすると、まず相手の名前を知りたいですよね。あなたの名前はなんといわれますか、どこの出身ですか、誕生日はいつですか。そういうようなことをどんどん深めていくことによって、相手を知ることが出来るわけです。

如来と菩薩

さて、この御本尊、名前はもうご存知ですね、秘仏の薬師如来が御開帳になっているわけですから、いまお目にかかれているのが薬師如来、何で薬師如来といわれるのでしょうか。また、如来ということですが、如来とは何でしょうか。如来と名前の付く仏像はそんなに多くありません。釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、これが代表格です。他にも阿閦如来とか、大日如来。ただし大日如来は如来と言っても本来の如来の姿をしていません。大日如来は密教の最高最尊の仏なので、特別な姿をしています。

如来はというと、仏像のなかで一番粗末な格好をしています。観音菩薩、十一面観音菩薩、千手観音菩薩などの菩薩の像はゴージャスな格好をしているのに、なぜ如来は粗末な格好なのか。ゴージャスというのは、装飾品を身に着けているということです。私も手首に石(ブレスレット)を巻いていますが、こういう飾りを菩薩の像は身に着けています。そのほか冠を被っていたり、胸飾りを身に着けていたりします。冠を被っていると言ったら、われわれ人間の世界では、王様ですよね。

では、なぜそんな装飾品を身に着けているのでしょうか。仏像の姿というのは、モデルは釈迦なんです。釈迦如来の姿というのは、如来の姿ですが、菩薩も釈迦の姿を根本としています。釈迦が二九歳の時に出家して六年間苦行をして、三五歳の時に悟りを開くわけですね。これが如来の姿です。それから仏教を興こして、インド国中に布教して回って、四十五年経った、八〇歳の時、今日午前中涅槃会をされましたが、入滅した、つまり涅槃されたということになっています。菩薩の姿は釈迦が二九歳以前の出家する前の姿をモチーフとしています。釈迦はシャカ族の王子として産まれ、宮廷で生活する貴族であるということから、装飾品を身に着けたゴージャスな姿になっているというわけです。

観察するということ

ところで、薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三体がまとめて本尊になっているお寺があるんです。普通は、薬師か釈迦か阿弥陀は別々に各寺院の本尊となります。しかし、その寺ではこの三つの像が一つのお堂の中に同等に安置されてほぼ本尊になっています。何というお寺かご存じでしょうか。それは奈良の法隆寺金堂です。ところが、法隆寺金堂を拝観された方に聞いてみると、真ん中にある釈迦三尊しか、皆さんの記憶には残っていないことが多いのです。記憶をたどると十体前後は何かいたな、とはなりますが…………。ほぼ同じような大きさの仏像として、釈迦三尊の向かって右に薬師如来、左に阿弥陀如来がおられます。

我々が仏像を見ると言っても、漠然とみているだけで、何を持っているのか、どんな格好をしているのか、ほとんど意識せずに、ただ漠然と眺めているだけなんです。つまり、これは「見る」ということですが、「観る」つまり観察するというのが、何かを意識して「観る」ということになります。研究者は様々なことを意識して観ないと研究にならない。それが先ほど「どのような格好をしていますか」という問いかけに相当します。

薬壺のこと

そこで、薬師如来というのは、薬を入れた壺を持っています。薬というのは何を意味するのでしょうか。病気を治す、苦しみを解く、しかも薬というのは即効性のある、例の先生の「今でしょ」と、今の私たちをすぐに救ってくれる仏ですね。釈迦というのは、今から約二千五百年前に、仏教を興して亡くなっているので、過去の人、ですから、先祖菩提とかが中心になるんですね。阿弥陀はというと、阿弥陀の極楽浄土と言われるように、いわゆる未来。つまり薬師は現代、釈迦は過去、阿弥陀は未来を担当するわけです。これを三つの世と書いて三世(さんぜ)と言いますけれども、現在過去未来。私と同じ年代、誰かがうたった歌にありますよね。「現在過去未来」という言葉がサビに使われた歌がありましたよね。そういう意味合いがあるんです。

薬師は左手に薬壺を持っているのですが、でも調査の時に、現状ではその薬壺が失われていることもあります。両手の格好はこうです。右手を胸の高さに挙げて前に向けて開き、左手は膝上に置いて仰いでいます。そうするとこの格好というのは、釈迦如来の格好なんです。釈迦如来の格好で左手に薬の壺を持っていると薬師如来に名前が変わってしまいます。だからこの手の格好をしていたら、釈迦如来と名前を付けたくなるのですが、掌を見ないと解らない、そこに接着のあと、薬壺を差し込んだあとがあったりということがよくあります。

ところが、難しいのは奈良時代以前においては、薬壺を持っていない薬師如来が存在しています。一番著名なものが、奈良の薬師寺金堂の薬師如来です。あれは薬壺がなくなっているのではなくて、持たないタイプの薬師如来です。従って、両手の格好からだけでもって仏像の名前を決めつけてはならないということです。研究は慎重でなくてはなりません。

藥師如来の印相

このように、この薬師如来と釈迦如来の手の格好は同じです。右手がこのように前に向けているのは、何を意味しているかというと、これは「施無畏印」と言うんです。せは施す、むは無い、いは畏れ。畏れないでいいよ、大丈夫だよと、と言うことを示しているのです。では左手は膝の上に置いて掌を仰いで前方に差し出している、これは何でしょうか。「与願印」と言い、願いを与えてくれることを意味しています。

私は子供たち向けにも仏像教室をしているのですが、「みんな仏像の格好してごらん」というと、かなり多くの子がですね、親指と人差し指をつけて丸くして右手を上にして、左手は下にして掌を開くんです。こうするのは、実はよく見ている仏像が阿弥陀如来ということだと思います。阿弥陀如来は左手も親指と人差し指をつけますが、掌を開くのは、奈良の大仏のイメージがあるのだと思います。

そこで、子供たちに「施無畏・与願印」の話をした後、「君たち、さきほどの右手と左手はどういう意味なの」と聞くと、「先生わかるよ、お金頂戴でしょ」と、名答だと思いました。これもちゃんと意味を表していますよね。こういったところで子供たちに興味を持ってもらい話をしています。

仏教伝来時の仏像について

実は、先ほど話した法隆寺金堂にある三つの如来像のうち、阿弥陀如来は鎌倉時代に造り替えられているので、後世の格好になりますが、真ん中の釈迦如来と右の藥師如来は、同じ格好をしているんです。右手はこうして前に向けているんですが、左手は親指・人差し指・中指を伸ばし、残りの指は握っているという特殊な格好なんです。これは、飛鳥時代に中国や朝鮮半島から日本に伝わってきて、最初に日本人がでくわした仏像が、実はその格好をしていたんです。

法隆寺金堂の釈迦如来は、六二三年に造られたもので、わが国最古級のものです。現存する古いものでは六世紀の終わり頃の仏像が確認されています。仏像が日本に来たのはいつかというと、記録では日本書紀や元興寺縁起によれば、五三八年とか、五五二年と歴史の授業で学んだ記憶があると思います。五〇〇年代の半ばには日本人は仏像と出遭っていることになります。わが国最古級の仏像、如来の像は、当時は釈迦如来も阿弥陀如来も薬師如来も如来はすべてその格好であったことがわかっています。

因みに、法隆寺金堂内の釈迦如来像と同じような手の格好をしている仏像を、たぶん皆さんはふくやま美術館において、この秋に観られることになると思うんですが、鞆の安国寺にある阿弥陀三尊のうちの阿弥陀如来像が同じ手の格好をしています。よくご存知の方は、あれは鎌倉時代の仏像なのにと思われるかもしれませんね。(種明かしは別の機会に……。)

阿弥陀如来の話

皆さんが普段よく見ている阿弥陀如来像は、両手共に親指と人差し指の先を丸めてつけており、右手は胸の高さに挙げ、左手は下ろしています。たまにお腹の前に合わせたりしていますが、一番多いのは、右手を上にして左手を下にしている姿です。こういった両手の位置や合わせる指の違いは、極楽浄土には九つの段階があることを示しています。そこで一番上位の極楽浄土に往きたい方は、両手の親指と人差し指を合わせて、お腹の辺りに構えている阿弥陀如来を選んでください。これが「上の上」の極楽浄土です。先に申し上げた右手を胸の高さに挙げ、左手を下ろしているものは「上の下」、つまり三番目の極楽浄土になり、皆さんがよく見かける阿弥陀如来のタイプです。

なぜ、一番目の極楽浄土ではなく、三番目を求めるのか、何と日本人の謙虚なことか。一番一番と言っていたら欲が出る、三番目で良いと。ですが、そういった意味ではないのかなと、私は最近考えるようになりました。両手を上下に構える格好の阿弥陀如来は来迎像といって、極楽浄土に居る阿弥陀如来が亡くなった人の所へ自ら迎えに来てくれて、極楽浄土へ連れて帰ってくれるんです。自分で一生懸命浄土に上がっていかなくてもよく、阿弥陀如来のお迎えを待っていればいい。だから日本人は謙虚なんじゃなくて、実は横着なんですね。(笑)

本尊藥師如来について

さて、ここの厨子の中の真ん中に薬師如来がおられ、その左右に現状向かい合わせに立っているのが日光菩薩・月光菩薩です。日光は日(太陽)の光、月光は月の光のことです。向かって右側の日光菩薩は、円輪の中に赤く太陽を表すものを手に持ち、左側の月光菩薩は、円輪の中に白い月を表すものを手に持っています。これは何を意味しているかというと、薬師如来は現世(今)の衆生を救ってくれるわけですが、日光月光菩薩、つまりお日様とお月様がいるということは、二十四時間営業ということです。四六時中助けてくれるということを表しています。

さらにそれらの左右には六体ずつ、十二神将という仏様方が居られます。十二という数字は、いろいろなことに繋がりますよね。一年が二ヶ月、十二の時、東西南北などの方角、干支である十二支など。時とか方角とか全部を含めて、周りの十二神将がサポートしている。すべて薬師如来が一番活躍できるように、三六五日、一年中サポートしています。

薬師如来は日光・月光菩薩と合わせて三尊一具、先ほどの阿弥陀如来は観音菩薩と勢至菩薩がいて三尊一具となります。釈迦如来も文殊菩薩と普賢菩薩がいて三尊一具、というように、どれも真ん中に如来、両脇が菩薩というサポート役がつきます。

この組み合わせって、天下の副将軍水戸光圀が介さん角さんを従えているのと同じですね。これはたぶん仏像の三尊一具からきているんだと思います。三尊一具で大きな力を発揮します。さすがに黄門さんだけでは頼りないですから、締めの所は周りのサポートで大きな力を発揮するということになります。

十二神将のこと

それでは最後に、仏像を「よく観る(観察する)」ということで私の話を締めくくりたいと思います。先ほど、十二神将は十二支と関わりがあると申しました。この十二神将像の頭上には干支が表してありますのでご覧ください。子丑寅卯……その象徴するものが頭上にのっています。今まで私が観てきた十二神将像としては一例しか知らないくらい大変珍しいことなのですが、こちらの十二神将は干支の全身を表しています。通常は干支の頭部だけしか表さないのです。是非、後ほどよくご覧になってみてください。

このように細かい所までしっかりと仏像を観ていくと、少しずつ楽しくなるかなと思います。かわいいなとか格好いいなとか、すごく穏やかで救われる気持ちになるとか……。それでも良いのですが、そこから一歩掘り下げて、どうしてそうなるのかを追究していくと観方が変わってきます。そういうことがあるので私も仏像の話を何度やっても、百四十回やっても終わりません。毎月第四月曜日、福山リビングカルチャークラブにおいて仏像講座を行っていますが、まだ百回分くらい話す内容がありますので、興味がある方はお越しください。退職後もこの取り組みも一つの生きがいとして、諸寺院が所蔵する仏像の悉皆調査研究とあわせて頑張ってまいりたいと考えているところです。
それでは私の話は以上となります。ご静聴ありがとうございました。



三月三十一日
※当日の内容を修正・一部加筆
御開帳記念講話
 中央大学国際情報学部教授  保坂俊司(ほさかしゅんじ)先生 

『「國分寺建立の詔(みことのり)」から仏教と日本文化を考える』
    
  
ご紹介いただきました保坂です。今日は、備後國分寺でのお話ですので、國分寺に関係の深い、そして日本仏教の発展に聖徳太子同様に尽くされた聖武天皇についてまずはお話します。こちらには聖武天皇のお位牌が安置されているそうですが、奈良時代に國分寺建立を発願された大檀那である聖武天皇とはどんなお方だったのかということについてです。

また、國分寺とはどういう意義を持つお寺なのかという話を基本として、仏教と日本文化を引き継ぐ意義についてもお話したいと思います。つまり、日本人にとって、あるいは日本文化にとって、仏教とはどんな宗教なんだろう、私たちにとって仏教はどういう存在なんだろうということについて考えてみたいと思います。

仏教という言葉

ところで、皆さん仏教という言葉はよく聞かれると思いますが、仏教という言葉は、実は古い言葉ではありません。明治二十年代頃、仏教をキリスト教、イスラム教など色々な宗教と並べて、はじめて仏教という言葉が現代のように使われるようになりました。当たり前の事ですが、これがなかなか理解するのが難しいのです。細かいことは、省きますが、仏教という漢字熟語は、仏と教に分解できます。そして仏は、お釈迦様ですね。さらに、教はその教えということですから「仏の教え」を仏教と表現するのは、当たり前のように理解出来ます。

ですが、これはキリスト教をモデルにして、教え、教祖、儀礼、教団を合わせて宗教と呼び、仏教もこの様な考えで捉えるようになりました。しかし、明治以前に日本の文化、特に今の仏教を語るときには、仏の法(ミノリ)や仏道(ブツドウ)と言われたのであり、仏法(教えを中心に)、仏道(各種の実践を含む)というのが主流でした。

というのも、仏教と言ってしまうと、その時点で、キリスト教をモデルとした宗教体系になってしまいます。そもそも仏教の教えとは、キリスト教におけるキリストのように、唯一の絶対の神の言葉(契約とも云える)を伝えるものではなく、どうすれば悟れるか、救われるかの体験記なのです。

ですから、仏の教えとは、釈尊をはじめ仏(現在のように、死者の隠語ではありません。理想を完成させた人のことです)になった人々の教え、つまり悟りへの体験記というわけです。ですから、実際に体験記通りに自らも行動を起こさないと仏道にはならないのです。しかし、キリスト教的な宗教を把握する意味としての仏教という言葉ですと、教えを信じるという点に重点が置かれてしまいます。

そのため、近代以降の仏教は、明治以前に仏法や仏道として捉えられていた感覚とづれてしまうのです。いずれにしても、仏法は仏の法、つまりその教えを仏道として実践することを教えるものです。そして仏道ですから、仏の教を実践するということが基本となります。特に、在家の人々は教えを生活の中で実践することこそが、仏教の基本であるということです。つまり、仏教の教えが社会に生かされていた世界への理解が、仏教と表現すると行の部分が抜けてしまうので不十分になります。

今普通に使われているその他の言葉でも、近代明治以降になって作ったものとか、意味を改めて使われるようになったものがたくさんあります。これを一般に翻訳語といいますが、言葉を換えると、内容の理解が変わってしまうのです。私たちの仏教に対する理解、意味するものは、ですから、その以前とは違ってしまっています。その典型が神と仏の関係です。

神と仏は一体

ところで、明治初年から十年くらいにかけて激しい廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という野蛮行為が行われました。実は、その後も仏教への一種の攻撃は続き、その結果廃仏から嫌仏(けんぶつ)という伝統が形成され、現代に至ると私は考えております。これは私見ですが。

いずれにしても、明治初頭に、神道国教化政策の一環として神仏分離令が発令されまして、仏教などというよそ者の宗教と、古来の神道と分けなさいとされたのです。そして、暴徒化した民衆がお寺を壊し仏像や経巻を焼き払いました。その結果、日本中で神仏分離が行われ、結果的に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れました。こちらの隣にも八幡神社がありますが、もともと一つだったものが、明治以降お寺と神社とは別々のものとされてしまったのです。

このお寺と神社が一揃いで存在するという形式は、奈良の東大寺に原型があります。少なくともそのモデルです。東大寺に行かれて、南大門を入り右に折れて進んでいくと手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)があります。そもそも八幡さんと東大寺は一セットだったのです。この形式が明治までの東大寺で、かつ日本の寺院と神社の標準的な関係でした。

何故、そうなったかというとそれは東大寺の大仏建立と深い関係があります。聖武天皇は、東大寺は國分寺の総本山であり、日本国の総国分寺、総鎮守東大寺に、大きな仏像を作りたかったのです。ですが、なかなか思うように進展しませんでした。鋳造金銅仏ですから高度の技術知識も必要です。当時の日本には、その技術がまだ無かった。

でも聖武天皇はどうしても作りたい。しかし技術的に行き詰まってしまった。そこに九州にある宇佐八幡の託宣を携えて巫女さんが、わざわざ輿に乗り奈良の東大寺にやってこられた。(*これが全国の神輿行列の先例といわれています。因みにインドでも古くから同じような祭りがあります)そして、全面協力を申し出てくださった。当時の宇佐は、大陸と交流があり、恐らく高度な鋳造技術を持った集団が一緒に来たのではないか、と推測されます。

いずれにしても、八幡神の協力があり、東大寺の大仏は完成します。以来、仏と神と一体となって、日本国を支えてくださることになります。この東大寺の造営形式が基準となり、全国の國分寺も、またその後他の寺院にも、神と仏が一緒になって、それぞれの地域を守るという、そういう伝統が形成されます。

「國分寺建立の詔」の精神とは

聖武天皇が発せられた「國分寺建立の詔」は、天皇という現人神(アキツカミ)が国を守るためにどうしても仏の力を借りたい、その事情、理由を述べたものです。読んでもらうとわかりますが、天皇は仏の教えに深く帰依されています。当時の考えは、現在主流の近代西洋的な支配者像と違い、天皇陛下は、この世は天皇のものであり、天皇=この世ともいえるものでした。

その様な世界観の中で、聖武天皇が即位すると、運悪く天変地異が襲います。日本の国土の地殻変動期ですね。現在もこの地殻変動期に入ったと言われてます。つまり、阪神大震災から東日本、熊本、今年は能登半島と、十年二十年のスパンで考えると離れているように感じられますが、千年二千年という歴史的な時間から考えると、最近の日本には一瞬にいくつも続けて大地震が起こっています。それだけでなく、その間に疫病も流行し、国民は非常な困難に直面しました。聖武天皇の御代もこの様な混乱期だったのです。

この時、聖武天皇は、大災害が頻発し、国民の苦しみを我が事とお感じになって大変苦しまれたのです。これが、日本の天皇の世界観であり、政治思想です。ですから、私のものというのは所有物ということではなくて、私の体と一体だということです。古い文献には、国家という文字は「みかど」と、国家=天皇陛下を表わすように仮名が振ってあります。

今、国家=天皇というと、ヨーロッパの偉い王様や独裁的な君主のように、国をわたくし視しているように思うかもしれませんが、そうではありません。天皇は、日本という国、あるいはこの天下(アマツシタ)を、自分の身体と一緒、あるいはその一部のように捉えられていたのです。ですから国が乱れ、民が苦しめば自らのからだが病んでいるように感じたわけです。そして、それは自分の行いが悪いからそうなったとお考えになられたのです。

私たちも、病気になれば心を病みます。何でこんな病気になってしまったのか、何が悪いのか、原因を考え反省します。それと同じように、何でこんなに疫病がはやるのか、なぜこんなに地震があるのだろう、何で私が天皇を継いでから民衆を安らかにしてあげられないのだろうと、聖武天皇はものすごく苦しまれたのです。その時、仏の力を借りて自分が強くなれば、元気になれば、国も元気になるとお考えになります。

そこで、仏の力で日本を護ってもらおうと、各国に東大寺のミニ版とも言える國分寺をおつくりになられたのです。そして、その総仕上げとも云うべき総國分寺として、国家鎮護の寺として、東大寺に巨大な毘盧遮那仏の建立が計画されました。

特に、國分寺の総仕上げであり、国家の守り神的存在として、大仏をお造りし、皆が一丸となりこの大きな大仏さんに帰依したならば、日本が一緒に救われるのではないかと、そう聖武天皇はお考えになられて大仏造立は発願されたのだと思います。このように申し上げると、迷信だと感じるかもしれませんが、コロナ禍の最中に、医療だけでは救われなかった私たちの心の安心、社会の安全を神仏に祈る形で維持できたことは、我々も体験済みですね。人間は千年二千年前も今もそんなに変わらないのです。その様な安心、安全をそれぞれの國分寺は、歴史的に託されてきたわけです。

形は心を映す

この国家鎮護という考え、つまり仏の力で国を護るという教えは、『金光(こんこう)明最勝王経(みょうさいしょうおうきょう)』という護国経典にあります。國分寺には、そのお経を祀る塔が造られました。國分寺の塔は七層、七重塔です。普通は五重塔ですね。三重塔もありますが、東大寺の七重の塔は創建当時、高さが六十八メートルあったそうです。鎌倉時代には九十七メートルの再建された塔があったとか?何れも落雷や戦禍で消失しましたが。(最近の研究は、『日経新聞』令和六年四月二十六日に詳しく紹介されてます)

今の人は、それは形にすぎないとか、それで心が救われるわけではないなどと批判するのですが、そうではなく、形は心を映す、というより心を具現化したものです。つまり現存する形(仏像などは)は、心の有り様を造形として表現したものです。ですから形としてあるものには、きちんとした意味があります。

そして、それを維持していくことが伝統となるのです。放置して、廃らせては、意味がないわけです。作ったら、みんなでそれを支えていく、護っていこうとする、これは一種の仏道の実践です。そうすると、そこに一つの共同体ができて、お互いの理解ができていきます。そして共通観念が生まれ、安心感が生まれ、相互に守られているという意識になります。そうして、お寺を中心とした一つの安定した社会ができることになります。

恐らくそういうことを聖武天皇はお考えになられたのだと思います。いずれにしても、徐々に全国各地域に六十八の國分寺がつくられていきます。

この國分寺の立地に関しては、余り町に近いと喧騒がありますから正しい信仰にならない。また、山の中にあると、人々が何かあった時に、お願いしたり、お詣りできないので、町に遠からず近からず、程よい地域で、なおかつ豊かで、環境の良いところが適しているとされました。

何度かこちらに寄せてもらっていますが、すごく良いところですね。こういうところに國分寺を建てて、封戸という五十戸の家の収穫が徴税としてお寺の維持費のために充てられました。そうして、このお寺をずっと守っていけば、この地域の人々は、豊かで幸福に暮らせるはずであると願われたのです。聖武天皇は自分のために、利己的に、東大寺や國分寺を作ったわけではないということです。

個と全体は一体である

明治以降の仏教研究者の多くが、國分寺などは国家仏教だと、支配者のための宗教だと言うのですが、それは近代ヨーロッパ的な、つまり近代キリスト教文明の考え方です。そうではなくて、仏教では、全ての存在が相互に結びついていると考えます。

ですから、仏教思想を基本とした聖武天皇は、民衆一人一人を救うために、天皇が身を粉にして懸命に働きました(事実、聖武天皇は大仏建立時に手ずから土を運んだとされます。これは象徴的な表現ですが、その精神は明確です)。そして民衆もそれに応じて相互に助けあい、社会や国を作り支え合うという相互連関の社会の実現を目指されたのです。

つまりすべての人間が、それぞれの役割を得て全体を支えるという考えです。勿論、それは個々人を顧みないということではありません。なぜなら全体も部分があってこその全体ですし、部分も全体の一部として生かされるわけです。どちらか一方ではない、ということです。

これは、お釈迦様以来の仏教の根本の教えです。お釈迦様も最初は自分のための修行を行ったのですが、悟りと言われる境地を得た後は、その様な独善的な考えを捨てます。勿論、一人一人の幸福を考えることは大事なのですが、それだけでは真の幸福は得られません。というのも個人は全体と連なって個人であり、決して個々別々にあるのではないからです。そこで、他者の存在も自分と同じように考えよと教えます。これが仏教の基本となる考え方で、いわば悟りの根本といえます。一見簡単に聞こえますが、これが実践となると難しいのです。

為政者とは全体に奉仕する存在である

この教えを、とかく独善的となり、人の命を何とも思わないような専制君主、暴君になりがちな支配者の多い中で、自ら実践されたのがアショーカ王です。インドで紀元前三世紀、紀元前二百七十年頃から二百三十年頃活躍された王様ですが、このアショーカ王が聖武天皇のモデルだったのではないかと思います。

アショーカ王は、仏教の非殺生の教えにより軍隊を廃止して、失業した兵士たちに、道を作らせています。東海道五十三次のように、四キロを一里として、街道にマンゴーの木を植えて、マンゴーが実るとそれを売って、街道の維持のために使わせたのです。武器などはそれを鍬にして、農民のために使わせています。また病院を作ったりもしました。この様に民を富ませ、安楽にして、最後に自分が喜ぶという政策をとられたのです。

彼は大きな宮殿でふんぞり返っていたわけではなく、今のインド、パキスタン、バングラディシュにわたる、広大なインド亜大陸をほぼ統一し、各地を視察し、また役人を派遣して仏教的な統治、つまり平和の実現を通じて民衆の幸福を実現するという理想的政治の実践に努めました。その理想で、広大なインドを一つにし、争いのない国作りを実現しました。

この偉業は、それから千八百年後に、イスラム教のムガール帝国が成し遂げるまで、誰も成し遂げることの出来なかったことです。ただしムガール王朝は武力による征服と統治でした。ともあれ、アショーカ王という王様は、インドという国を最初に統一した大王ですが、武力に頼らず、大王でありながら最後に喜ぶというような政策を実行した王です。その証しともいえますが、彼は帝王とか皇帝という称号は用いず、「民衆に奉仕するもの」・「慈愛溢れるもの」という称号を用いました。

これがどれほど凄いことかということは、ほぼ同じ時代に、中国の秦の始皇帝と比較するとわかります。始皇帝は、自分の権勢のために墓作りに四百五十万人もの自国の民衆を殺害したり、宮殿を建てるために三十万人の人を動員使役しています。工事の人員が足りないと、厳しいルールを作り違反させて、その罰として宮殿作りに徴用する。そこに誰が住むのかというと始皇帝と愛妾三千人と言われています。インドと中国は同じ大国ですが、正反対なのです。

仏教による国造り

聖武天皇の前に聖徳太子があり、仏教に深く帰依されています。ところが、聖徳太子は、今の教科書に書かれなくなってしまいました。日本史の関係者は不思議なことをされます。とにかく聖徳太子にあたる人が仏教による国造りをしていかれたのです。中国では、仏教が伝来された時にすでに、儒教による文明がありました。そのため、あまり影響を受けていません。ですが、日本はそんなに高い文明はなかったので、仏教が伝えられた時、日本独自の文化、さらには文明を作るために仏教を採用したわけです。仏教は、やはり当時の日本人に合った教えだったのでしょう。

というのも、日本は古来中国の影響をすごく受けましたが、日本の天皇で秦の始皇帝のような専制的な暴君はおられません。あえて言えば申し上げ難いですが後醍醐天皇があげられます。後醍醐天皇は自分のために日本があるというような天皇でした。後醍醐天皇は一応仏教徒と言われていますが、発想は中国的、特に朱子学でした。

朱子学では、分かりやすくいうと、国とは為政者の所有物のようなもので、民は為政者に一方的に服従し、奉仕する存在にすぎません。つまり、道具なわけです。そこには権力の中心に向かう下からのべクトル、支配と服従という方向しかありません。ですから権力者は、自分の欲望のためにその道具を存分に利用できると考えるのです。しかもどんなに苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)(税金その他を厳しく取り立てること)しても余り痛痒を感じない。仏教的な政治論に従う聖武天皇のように、民を自分の体の一部と考えないからです。勿論、道具としては大切にすることはありますが。

いずれにしても、後醍醐天皇には、聖武天皇のように、平和志向、民衆へ回帰、つまり慈悲心というベクトルは余り感じません。両天皇は、同じように、日本は私のものだと考えても、後醍醐天皇は、民の傷み苦しみも私のものだという考えは余りなかった様です。

聖武天皇は、仏教への帰依と実践、つまり仏道を政治の世界で実践されたわけです。この伝統が、日本の天皇の伝統として主流でした。勿論、朱子学でも、素晴らしい為政者として立派な統治者は居りましたが、やはり民衆の痛みを我が事として感じ、それを政治の基本、特に平和主義に徹した方はまれでしょう。

いずれにしても、日本の天皇で自分の欲のために国を動かして、自分のものにするという方は、ほとんどいません。民の苦しみを自分の苦しみとする、という考えが徹底してきたからです。これは縁起の思想とも言えますが、みんなつながっているという考え方です。

民の苦しみは私の苦しみであり、天皇が病むと民も苦しんで、国土が苦しむとでも言うのでしょうか、天変地異になったりしたら、みんなが苦しむ。そして、みんなでこれを乗り越えようということになって、その時に、その先頭になるのが聖武天皇その人でした。その遺志を東大寺はじめ全国の國分寺は継いでいるわけです。残念ながら、現存する國分寺は少数ですが、その中でこの備後國分寺は、聖武天皇以来の伝統を継いで来られたという意味で大変貴いお寺です。

聖武天皇の心を繋ぐ國分寺
それを守る意義

既に検討したように、聖武天皇は、民の苦しみは私の苦しみであり、私の不徳により民が苦しんでいるとお考えのうえに、國分寺を建立されました。つまり日本の安定には、そして民の幸福を作り出すためには、私がしっかりしなくてはいけない、それには仏の力が必要であり、そこでお寺を作ろうということになります。迷惑だという人もあるかもしれませんが、そうしてみんなが集い、心を一つにする場があり、それを中心に毎日、毎月、毎年続けていると安心できる社会が出来てまいります。

例えば、今日稚児行列もありました。今回は参加が半分と聞きましたが、それでも小さなお子さんが、きれいな格好をして、今は何をしているかわからないかもしれませんが、十年後二十年後に、私が稚児行列をしたお寺だから、自分の子供も参加させようということになります。それこそ文化の継承といえます。そして、そこに國分寺があるというのは、この地域の人にとって非常にすばらしい伝統といえます。

つまり、「國分寺建立の詔」があった七四一年を創建とすれば、今年で千二百八十三年となります。この間いろいろなことがあって、國分寺も盛衰があり、消滅の危機もあったわけです。ですが、この地域の人たちが、支えたのです。お殿様がお堂は造ってくれたかもしれませんが、日常の草むしりとか、建物が壊れたから直そうとまではしてくれません。皆さんのご先祖が、お寺を護ってこられたのです。

それらの行為は、表面的には、お寺のためにすることですが、それはお寺だけのためではなく自分たちのためです。さらには日本国全体のためであり、そういう仏教的な縁起の世界観の中での奉仕であり、仏法の実践といえます。つまり、このお寺を先祖が守ってきたように自分たちも守る。そして、自分も先祖と同じように、子孫に伝えてゆくという魂のリレーです。実はこれが仏道の実践、つまり修行にあたるのです。そういう伝統が、今日まで千二百八十三年続いたということは、すごいことです。

今國分寺として残っているのは四十ヶ寺ほどと聞いています。國分寺跡として遺跡だけになっているところが沢山あります。行ってもなにもありません。礎石が痕跡としてあるだけです。私の故郷にも國分寺があったんですが、今は、碑が立っているだけです。ですから、伝統を守りたくても、受け継ぎたくてもその中心がないわけです。

そうした中、こちらはこうして、立派なお堂があって、仏像が安置されていて、しかも皆さんがこのように参集されて、協力されている。お稚児さんもそうですし、まさに世代を超えて、そんな格好いいものではないよと言うかもしれないですが、こういうことが延々と運営されている。これは貴い文化の力です。

古き伝統の意味を自覚する

こうしたことをもっともっと今の日本がやるようにすれば、今日の日本の衰退といいますか、「失われた三十年」と言われるような事態はなかったのではないでしょうか。千二百八十余年の歴史は、失われた三十年どころではありません。その間にいろいろなことがあったはずです。そういうところから私たち日本人は学ぶ必要があります。短いスパンでものごとを考えずに、もっと先祖から自分も含めて子孫のことも考える。

みなさんは、その点で、千二百年以上という長い歴史から今を捉えていくことが具体的に出来る、大変恵まれた環境の下に居られます。その文化的な財産を子孫に継承していくということはとても大切なことです。そして、それは皆さんにとっての仏道修行であり、心に安心の徳を積むということになります。

何れにしても、この國分寺の維持ということをもっと自覚して行うことが大切であろうと思います。皆さんは、これまでやってこられたことの意味に、あまり気がついていないのです。AI時代といわれ新しいものがどんどん取り入れられていますが、日本に足りないものは、古くて、続いていてきたものの価値や意義を自覚することだと思います。新しいことは、直ぐに廃れますから。しかし、千二百年以上もこうやって國分寺というお寺が続いてきている、その伝統を守り継いできたということに、すごく意味あることをしているのだと自覚することが必要です。そこには、ただ奉仕するだけじゃなくて、喜びや楽しみ、やりがいがあります。 

今日のこうした御開帳のための準備やら、時間もお金も気遣いも何も大変だったと思いますが、終わった後の達成感と言いますか、それが次の世代に、受け継がれていきます。こういう行事、これは文化の維持のためにとても大切であり、私たち日本人は営々とこれを繰り返してきたのです。だからこの地域では國分寺が残っています。そういう意味で、このコミュニティを含めて、正にパワースポットであると言えます。

もっと盛大に発信していって欲しいと思います。今日本人に一番足りないのは、発信力ではないでしょうか。今日はいろいろメディアの方が居られるようです。メディアの人たちも、よく勉強されて、どういう風に伝えたらいいか、お考えください。そして、今日は國分寺さんで三十年ぶりの御開帳がありましたではなくて、これはいったいどういう意味なんだ。千二百八十三年続いた意味は何なんだ、そしてこの文化をどう未来につなげていくか。この地域だけのものではなく、これは日本全体の問題です。これは私たちが未来の子供たちのために考えなくてはらない課題とも言えます。

お祭りは面白いだけではなく、時間がかかり大変ですが、そこに喜びがあります。これを守り継いできた先祖と、これから守っていってくれるであろうお子さんやお孫さんと心が繋がるのです。それが何よりの仏道修行です。だから次につながるのです。これからも皆さんで備後國分寺を盛り上げてください。それはこの地域の伝統であり、使命でもありますから、次の世代へのつなぎ役だと思って、続けていって欲しいと思います。そして何よりそれが仏道の修行、仏の悟りへの道に繋がるものであり、幸福の道でもあります。 ですから三十年と言わず、五年とか十年とか、この様な法要をやっていくと地域の活性化にもなります。そのうちそこに、お寺の前にお店ができるかもしれません。是非、この國分寺を次の世代につなげていく、その役割を皆さんが自信をもって今後も担っていただきたいと思います。
ご静聴ありがとうございました。



【國分寺通信】 暑中お見舞い申し上げます

〇五月七・八日、高野山と京都三か寺の参拝旅行に神辺霊場会七カ寺の檀信徒の皆様とともにお参りしました。まずは高野山に向かい、奥の院参拝と納骨塔の納骨供養会を行いました。そして、すぐに下山して、その日は大阪の心斎橋のホテルに宿泊。翌八日は、四天王寺に参詣してから一路京都大覚寺へ。到着してすぐに寺方は鞆・地蔵院住職から門跡となられた山川龍舟門跡猊下に宮御殿までご挨拶に参上し、その後、檀信徒とともに心経前殿にて写経奉納式に臨みました。それから自由参拝し、大覚寺を後にして、昼食を済ませ東寺に参詣。五重塔の特別内拝期間にあたり、はじめて第一層に祀られている五智如来を参拝させていただきました。高野山に京都のお参りも堪能し、皆さん大満足で家路につきました。

〇五月十四日は結衆御寺院様方を國分寺に迎え、今年の涅槃会当番の寺院として、仏生会(ぶっしょうえ)を午後三時から厳修しました。仏生会は、お釈迦様のご誕生を祝う法会で、須弥壇上に特設した花御堂(はなみどう)に祀る誕生仏に甘茶をかけて祝う行事です。

〇同様に六月十二日、弘法大師誕生会を厳修。やはり花御堂に稚児大師像を祀り、甘茶をかけお祝いしました。

〇今年涅槃会にて、御詠歌衆の皆様が人数少ないながらも修行和讃を唱え、懸命に稚児行列を先導して下さいました。近年特に御詠歌に参加される方が減少しています。六年先にはすぐに涅槃会が回ってきます。御詠歌にご参加いただける方を募集いたしております。大きな声を出し、鈴鉦(れいしょう)を打ち鳴らし手指も使うので健康にもよく元気になります。皆さんお忙しいとは存じますが、是非ご参加ください。

  ◎ 薬師護摩供   毎月二十一日午前八時~九時
  ◎ 坐禅会    毎月第一土曜日午後三時~五時
  ◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時(8月はお休み)
  ◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時~四時(8月はお休み)
  ◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時(8月はお休み)

●毎月二十一日は作務の日です。(午前中のお越しになれる時間自主的に境内などの清掃作業をしています。)

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

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備後國分寺だより 第67号(令和6年3月31日発行)

2024年07月18日 07時07分34秒 | 備後國分寺だより
備後國分寺だより 第67号(令和6年3月31日発行



 祝・本尊御開帳

平成六年、本堂再建三百年祭を先代和尚が挙行され、その際に本尊御開帳してからはや三十年が過ぎました。

いつの頃からか、前回の法縁に見えることの出来なかった方々から、次の御開帳はいつですかと幾度となく問われてまいりました。
そこで、令和六年のお涅槃が前回御開帳から三十年の節目となることから、昨年の総代会にて協議の上、御開帳することと致しました。

平成六年四月三日、先代和尚は、御詠歌衆と稚児に先導されて本堂に入られ、神辺結衆御寺院様方と土砂加持法会を営まれた際に、『本堂再建三百年記念光明真言加持土砂噠嚫(たっしん)文』として、以下のように述べられています。

「・・・伏(ふし)て惟(おもん)みるに当山は天平の昔、聖武天皇の勅願に依って建立され、備後一円の平和と発展を祈願す。下りて天文年間の戦火、延宝元年の水害と二度に亘る災害に遭い堂宇荒廃すと雖(いえど)も、其(そ)の都度(つど)領主、諸人の発願に依って再建せらる。

今の本堂は元禄七年快範上人の発願に依り領主水野勝種公の援助と備後一円の善男善女の寄進に依り再建され今日に至る。其の間幕末、明治維新及び太平洋戦争敗戦という大変動に遇うも法灯絶やす事無く人々の信仰を集め来(きた)る。

今日三百年を迎え檀信徒各位の協力により、位牌堂を建て替え、本堂内の仏具の修理、畳替えを終え堂内の荘厳倍増せり。

茲(ここ)に有縁の聖衆を屈摂(くつしよう)じて加持土砂の法筵(ほうえん)を開き、歴代尊霊並びに檀信徒各家先祖各霊の追福菩提を祈る。本尊藥師如来、三世の諸仏諸菩薩、大慈を垂れ亡者を摂受(しょうじゅ)して安楽浄土に引摂(いんじよう)し玉わんことを。・・・」

このように先代和尚がお読みになられたように、前回は本堂再建三百年祭ということもあり、堂内中央の大壇の漆の塗り替え、仏具、霊具膳など様々なものが修繕ないし新調され、真新しい設えのもと法会が執り行われました。お陰様で三十年経ちましても十分きれいなものばかりではありますが、この度は客殿の畳、仏像が置かれた壇の水引、本堂前の鰐口の紐などのみ新調いたしました。

皆様ご存知の通り、六年前の平成三十年のお涅槃では、上田修三仏師のもと仁王像の文化財保存修理が行われたわけですが、その頃より文化財としての國分寺の堂宇尊像に関心が向けられてまいりました。

そうした中、御開帳に併せるかのように、はからずも、令和三年、福山市文化観光振興部文化振興課(榊拓敏次長)の皆様による美術工芸品実態調査として十月二十九日、十一月二十二日の二日に亘り、本堂客殿大師堂の、主に仏像の調査が行われました。

日本美術史の立場から調査指導のためお越しになられた徳島文理大学濱田(はまだ)宣(あきら)教授の御指導の下、本堂内に仮設のスタジオが設けられ、全ての仏像が撮影されました。

いくつもの角度から撮影されたことから当初一日の予定でしたが二日に亘ることとなり、日本文化史の分野からの調査指導として福山大学柳川真由美准教授、また福山城博物館の皿海弘樹学芸員、文化振興課職員の皆様、七、八名の方々により、ひとつ一つの仏像を下におろし、丁寧にホコリを拭い、縦横像高を計り写真に撮っていかれました。

勿論この調査は市内に所在する全ての寺院神社が対象であり、令和三年から六年間を目途に実施されるものではあるのですが、現國分寺の文化財としての価値来歴をあきらかにする意味で誠に有り難いことでありました。

この度調査撮影された仏像の中からそのごく一部ではありますが、主な仏像を抽出し、特別に濱田教授が仏像それぞれに解説を附して下さり、『備後國分寺仏像図鑑』として、お涅槃の記念品として編集いたしましたのでご覧頂きたいと思います。

なお、今回のお涅槃における本尊御開帳法会での『慶讃文(けいさんもん)』は以下の通りです。

「謹み敬って真言教主大日如来両部界会諸尊聖衆。殊には、本尊藥師如来、日光月光、十二神将。総じては仏眼所照一切三宝の境界に申して言さく。

夫れ、藥師如来と者(いつぱ)、東方浄瑠璃世界に住して、いかなる有情(うじょう)にも一経其耳(いっきょうごに)の少縁、衆病悉除(しゅびょうしつじょ)の功(こう)ありと説き給えり。されど遡(さかのぼ)るに医王善逝(いおうぜんぜい)と別称せられ、良医に喩えられし釈尊と同体にして、迷悟の因果を明らかにして有情の悩苦を化益(けやく)する大悲心を薬師如来と言えり。

延宝元年、水害により廃滅したる堂宇を、中興一世快範上人晋山して、福山城主水野勝種侯大檀那となりて復興なし給えり。ここに開帳せし如来は、再建せられたる本堂の本尊として、日光月光十二神将と共に、元禄五年京仏師林右近(はやしうこん)氏により彫成されたる尊像なり。

先代和尚、平成六年本堂再建三百年祭を挙行して御開帳以来、三十年の年月、瞬刻に過ぎ、本日吉辰(きっしん)を卜(ぼく)し、神辺結衆諸大徳並びに有縁の名刹諸大徳に光臨賜り、稚児の先導を受け、当山檀信徒の総意を以て、本尊御開帳の法筵(ほうえん)を布(し)き奉(たてまつ)る。

本尊薬師如来、実に三百三十年の長きに亘り信徒の安寧と仏行の成満のために数多の参詣人を守護し来たる。当山檀信徒並びに今日参詣善男善女人、その恩恵に報いて厚く信仰の誠をここに捧げん。

仰ぎ願わくは、本尊薬師如来、法会所設の六種の妙供を哀愍納受(あいみんのうじゅ)して威光倍増し、広大慈悲の願望(がんもう)改むることなく、檀信徒各各の惑悩を平癒し、永く快楽(けらく)を与え給え。加えて、天童子(てんどうじ)に擬したる稚児らの健やかな成長と無病息災を祈るものなり。

重ねて乞う、
備之後州 國分精舎 伽藍安穏 
護持檀信 万邦協和 利益衆生 
今日参詣 随喜諸人 家門繁栄 
子孫長久 除災招福 如意円満
乃至法界 平等利益
干時令和六年三月三一日
 唐尾山國分寺中興十四世全雄敬白」

この度は三十年ぶりの御開帳ということもあり、平成十四年の現住晋山式にお招きした倉敷宝嶋寺(ほうとうじ)の釈子哲定僧正、総社西明寺(さいみょうじ)大畑哲俊僧正、東京西早稲田放生寺(ほうしょうじ)五島隆章僧正にも遠路遙々ご来駕(らいが)賜り、神辺結衆の御寺院様方とともに親しく法会にご参加いただきました。厚く御礼申し上げます。

お涅槃にあたり、この度も檀家各家には出費ご多端の折にもかかわらず涅槃会寄付を賜り、お陰様で本堂東側に昇降スロープ建設、大師堂再建、さらにはこうして本尊御開帳しての大法会を挙行することができました。ここに心よりお慶びと御礼を申し上げます。ありがとうございました。合掌       住持全雄
 

六大新報令和五年一月二十五日号掲載
薬師真言小呪の解釈について 


これは長年の難問でありました。薬師如来の真言(小呪)は意味不明であり、なぜ仏様の前でこの真言を唱え拝むのか、理解できなかったからです。お薬師様の真言とされるこの「オン・コロコロ・センダリマトウギ・ソワカ」は、いろいろな訳し方をされます。「仏様よ、早く人々の願いを成就したまえ」「帰依し奉る、病魔を除きたまえ払いたまえ、センダリやマトーギの福の神を動かしたまえ、薬師仏よ」「速疾に速疾に暴悪の相を有せるものよ、降伏の相に住せる象王よ、わが心病を除きたまえ、成就あらしめよ」などさまざまです。

御存じの通り、薬師真言として、以下の三種があります。
 小呪「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」
 中呪「オン バイセイゼイ バイセイゼイ バイセイジャ サンボリギャテイ ソワカ」
 大呪「ノウボウ バギャバテイ バイセイジャ クロバイチョリヤ ハラバアランジャヤ タタ ギャタヤ アラカテイ サンミャク          サンボダヤ タニャタ オンバイセイゼイバイセイゼイ バイセイジャ サンボリギャテイ ソワカ」

早速これら真言の意味について、手元の『真言事典』(八田幸雄著・平河出版刊)を参考に紐解いてみますと。小呪については、訳として「帰命、普き諸仏に。オーム、フルフル(欣快なるかな)、チャンダリ・マータンギ鬼女よ、スヴァーハー」とあり、これは解説に、不空訳『仏頂尊勝陀羅尼念誦儀軌(ぎき)法』の無能勝(むのうしよう)真言では、nama samanta-buddhānāmuを冠す、とあることから、冒頭に「帰命普き諸仏に」と挿入されています。

では、チャンダリとは何かといえば、candāliは『梵和大辞典(山喜房仏書林)』に、旃陀羅(せんだら)家女とあり、candālaは、社会の最下層の人(シュードラの男とブラフマナの女との間に生まれた混血種姓にして一般に蔑視し嫌悪せられる)とあります。漢訳では、屠種(としゆ)、下賤種、執暴悪人など。また、現代ヒンディー語でチャンダーラと言えば、不可触の一種姓を意味します。

また、マータンギは、mātangaを『梵和大辞典』で引けば、象、または象たる主な最上の者とはありますが、最下級の種姓の人[candāla]ともあり、漢訳ではやはり下賤種、旃陀羅摩登伽種となります。いずれにせよ、チャンダリとマータンギは、インド社会の中で最も虐げられた下層の人々を指すと考えられます。

なお、スヴァーハーは、svāhāを『梵和大辞典』で引けば、「幸あれ、祝福あれ」とあり、現代ヒンディー語では、供儀の際に発する言葉として「(神に)捧げ奉る」と訳すようです。

また、中呪は大呪をつづめたものに他ならないので、大呪の意味を確認してみますと、『真言事典』の大呪の訳には、「帰命し奉る、世尊薬師瑠璃光如来、阿羅漢、等正覚に。オーム、医薬尊よ、医薬尊よ、医薬来生尊よ。スヴァーハー」とあります。

もとより調べをしてみればこのような意味合いとなることを存じておりましたので、冒頭にあげた小呪の訳し方を、どのように受け入れたらよいか解らなかったのでした。

しかし二年前のことにはなりますが、本尊薬師如来の供養法を修法していて、入我我入観から正念誦にうつる時、お薬師様の願いはと心を向けた瞬間に、これまでの疑念が一瞬にして溶解しました。

その時、頭にひらめいたのは、これは薬師如来の心の底から起こってくる願い、誓願であって、社会の最下層の人々、虐げられて痛ましいチャンダリマータンギの人々こそ救われて欲しい、その人たちが救われるならば、すべての者たちもより良くあるはずである、そしてすべてのものたちの悩み苦しみがなくなり、生きとし生けるものたちが幸せであって欲しいというお薬師様の願いを最も短い言葉で表現したものに違いないと思えたのです。

その後、そのようなことをある方と話しておりましたら、「いやいやセンダリマトウギは、そういう意味ではあるけれども、転じて仏教を外護する役割をもつようになったんだよ」とご指導いただきました。勿論、だからこそ冒頭にも述べたこの真言の訳し方の事例にあるように「センダリやマトウギの福の神」にもなるし、「降伏の相に住せる象王」という表現にもなるのでしょう。がしかし、はたしてそのような解釈でよいのであろうかということなのです。

そこで、さらに調べを進めておりましたところ、『梵字悉曇(ぼんじしつたん)(田久保周誉著・平河出版社)』三・梵字真言集二一五頁に、薬師如来真言を「唵 喜ばしきことよ。旃蛇利・摩登祗女神は(守護したまえり)」と訳された上で、?マークが付加されていました。解説には、「この真言は『薬師如来観行儀軌法』等に見える薬師如来の小呪である。呼鑪呼鑪(ころころ)は歓喜の間投詞である。戦駄利(旃蛇梨正しくはcandali)は古代インド社会階級のうち、最下層に属する卑族旃陀羅の女性名詞、摩蹬祗(まとうぎ)はその別名であり、悪徳者と見做されていたが、仏の教化によって衆生の守護者に転じたと伝えられる女神である。・・・この真言に薬師如来の尊名がなく、鬼女神の名のみを挙げてあるのは、薬師如来の生死の煩悩を除く本願力を、鬼女神擁護の伝説に喩説したものであろう」とあります。

このように、仏の教化によってチャンダリ・マータンギ鬼女が衆生の守護者に転じたとあるのですが、ですが、だからといって、なぜ教化せしめた側がその者の名前をわざわざ真言の中に、それも、その者の名前だけを入れ込まねばならないのかが問われねばならないでしょう。

この真言(小呪)の出典とある『薬師如来観行儀軌法(かんぎょうぎきほう)』は八世紀初めに金剛智により漢訳されています。密教的要素が多分に含まれるとされる『薬師如来本願功徳経』など薬師経は、五世紀頃中国で漢訳されていますが、薬師経には大呪は説かれますが、小呪は説かれていません。それよりも一世紀ほど早い三世紀末成立とされる雑密経典に『摩登伽経』があり、これが『梵字悉曇』に説かれている卑族旃陀羅教化の出典であろうと思われます。

『大正新修大蔵経』からの引用と思われる『佛弟子傳(山邊修学著・無我山房刊)』五一二頁よりその和訳された内容を要約してみますと。

「お釈迦様の侍者であったアーナンダが旃陀羅種のマータンギの娘から水を飲ませてもらったことに起因して、その娘がアーナンダに恋慕の情を募らせます。そこで、その呪師である母親は、娘の願いをかなえるために、牛糞を塗って壇を築き護摩を焚いて呪を唱えながら蓮華を百八枚投じる呪術をおこなうと、アーナンダはこころ迷乱してその家に誘導されて行きます。天眼をもってそのことを知ったお釈迦様は「戒の池、清らにして衆生の煩悩を洗ふ。智者この池に入らば無明(むみょう)の闇消えむ。まこと此の流れに入りし我ならば禍を弟子は逃れむ」と偈文を唱えてアーナンダを救います。

しかしその後も、娘のアーナンダに対する恋慕は止むことなく、町に出たアーナンダの歩く後ろに付き従い祇園精舎にまで足を踏み入れてしまいます。それを知ったアーナンダはその恥ずかしさ浅ましさから、そのことをお釈迦様に申し上げます。すると、お釈迦様は娘を呼び、アーナンダの妻になるには出家せねばならぬと語り、父母に了解をとらせてから髪を剃り出家せしめます。そして、「娘よ、色欲は火のように自分を焼き、人を焼く。愚痴の凡夫は、灯に寄る蛾のように炎の中に身を投げんとする。智者はこれと違い色欲を遠ざけて静かな楽しみを味わう。・・・」などと様々に教化されました。すると、白衣が色に染まるように娘の心の垢が去って清涼の池に蘇り、遂に悟りを開いて比丘尼となったということです。」

こうした話が仏典にあり、またこれより後には、呪術をつかさどる力あるものとして伝承されたためか、ヒンドゥー教ではいつの時代からかチャンダリマータンギは女神としての尊格を与えられてまいります。そして、最下層の人々が礼拝していたとされるマータンギー女神となり、穢れを嫌わぬ禁忌のない音楽芸術をつかさどる神としてダス・マハーヴィディヤー(十人の偉大な知識の女神)の一尊としても尊崇されているようです。

しかしだからといって、薬師如来の真言に、その女神の名が用いられたとするのはいかがなものであろうかと思うのです。ましてや、その神としての力を念じて、その力によって人々の病魔を除き給え、心病を除き給えと念じるというのは、仏教徒として肯定し得ない解釈とは言えないでしょうか。教化した仏が教え諭した者の名前を唱えて、そのヒンドゥーの女神の呪力によって人々の願いを叶えるなどという解釈はあり得ないことであろうと思います。

私がこのように解するのは薬師如来はお釈迦様と本来同体と考えるからです。『密教辞典(佐和隆研編・法蔵館)』六八〇頁[薬師如来]の項に、「医王善逝などの名は本来は釈迦牟尼の別称で、世間の良医に喩えて釈迦が迷悟の因果を明確にして有情の悩苦を化益する意であるが、釈迦の救済活動面を具体的に表現した如来である。世間・出世間に通じる妙薬を与える。」とあります。また、「釈迦如来と同体説:薬師の真言が無能勝明王の真言に同じである。同明王は釈迦の化身であ」る、などと記されています。

そこで、小呪が薬師の真言とされるのはずっと後のこととはいえ、薬師如来というよりも医王、釈迦仏一尊から諸仏が発生する原初の仏として、お薬師様を捉えて考えてみてはいかがであろうかと思うのです。

そこで、この「オン・コロコロ・センダリマトウギ・ソワカ」をあらためていかに解すべきかと考えるならば、「オーン、フルフルと速疾に、社会の中で最下層のセンダリ・マトウギたちに、幸あらんことを、(そしてすべての生き物たちが苦悩なく幸福であらんことを)」との意味から、お薬師様の誓願として、次のように意訳してみたいと思います。「すみやかに最下層にある者たちが救われ、すべての生きとし生けるものたちがもろともに痛みなく、悩みなく、苦しみなく、しあわせであらんことを」と。

お釈迦様は、何の躊躇もなく、まさに世間では卑しいとされ蔑まれていた旃陀羅種のマータンギの娘を教化されました。その教化せんとされた思いは、四姓の別なくすべてのものたちがよくあってほしい、救われてほしいと願われる慈悲の心から生じたものでありましょう。心身の病による苦は癒やされ、安楽なることを願う、一切の衆生に利益を与えんとされる医王であるお釈迦様の心、それこそがお薬師様であります。その心に随喜してともに念じさせていただくのだと思って、この真言をお唱えしたいと思うのです。

もちろんこれが正解というようなものではございません。このような解釈のもとに唱えることが私にとり一番素直な気持ちでお唱えできるというに過ぎません。皆様からの忌憚のないご教示を賜りたいと存じます。

(尚本稿は本誌令和二年四月号に掲載した「藥師如来の真言はなぜオンコロコロなのか」を修正補足したものです)


十善会蔵版 明治二十八年四月十五日
雲照和上の御講演(東京三浦家にて) 現代語訳横山全雄

 『十善の法話』 上

 
さて、十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)とは、人の人たる道であり、一切万善の根本道徳の標準であります。仮にも人の道徳の標準であるならば、世界のどこにあっても修めなくてはならないものです。富める人はますます修すべきであり、貧しい人もますます行わなければならない生き方であります。ですが、この十善は自然に表れる徳であり、この世の真理が顕われるものであるので、ことさら仏教の十善ということではありません。仮にも人として生まれ人としてあるからには、この十善に依らねばならないのです。

君主に仕えて忠誠を尽そうとする者、父母に仕えて孝をなそうとする者、官僚となりて人々を指導する者、教師となって生徒を教育する者、上は天皇陛下をはじめ、下は一般市民に至るまで、等しく行わねばならないものはただこの十善のみなのです。ですからこの十善を他にして忠も孝も願っても決して得られるものではないのです。

私が以前京都から東京に来るときに、船中で津田何某という人があり、私に、自分は幼少の頃西洋に行き数年過ごしたことがあり、外国の言葉などに不自由はないが、自分の国のことを知らないのです。あちらにある時友人が私に、日本の宗教の教えはどのようなものかと問われましたが、答えられず赤面したようなことなのです。今仏教を学ぼうとするなら何宗によるなら仏教の大意を知ることができるでしょうかと。

私は答えるに、いま諸宗の中の何宗を学んでも仏教の大意、そのおおよそのことを知ることはできないでしょう。どうしてかと言えば、例えばここに樹木あって、東にある枝は枝葉が東を向いて西には向かわず、西にある枝は枝葉がみな西に向かって東には向いていません。南北の枝葉もまた皆同様です。もしも人がその枝葉に、その樹木の方向を問うならば、東の枝はこの木は東の方向に向かっていて西には向かわないと言うでしょう。西の枝はこの木は西の方向に向かっていて東には向かわないと言うでしょう。南北の枝もまた同じように言うことでしょう。

一日中このことを尋ねていても結局樹木の方向を知ることはできません。ですが、もしもその枝葉を捨てて、その根幹について見てみるならば木の中心は上に立ち上がり空に向かっている様が見えてきます。すると東に出る枝もあり、西に向いている枝もあることがわかります。あるいは、南北に出ている枝もあります。しかも東西南北の各々向かう方向は異なりますが、その幹は一つであって、背いて離れることもないことが知られるのです。もしもその根本を捨てて、むだに枝葉について見るならば東西南北それぞれ誤り、ついにその樹木の全体を知ることはできないでしょう。

このことと同様に、もしも仏教の根本を知らないのに、たとえ八宗九宗を研究しても、ついに仏教のおおよそのことを知ることはできません。どうしてかと言えば、甲という宗派は念仏によらなければ成仏することはできないとして、題目など唱えてはいけない、唱えれば妨げとなる行となって往生できなくなると。乙なる宗派はいや題目でなければ成仏しない、念仏すれば題目を唱える功徳が消えてしまうと。

丙なる宗派は念仏を唱えたり題目を唱えたりというのはこれはみな顕教の説くところであって、今生で成仏する教えではないのです。ひたすら真言を唱えなさいと。あるいは、念仏も題目も真言もみなだめであると、本当の自分の、心の中の仏心を見つめそれになりきることこそ、この道の真実であるといい、ただ黙して坐りなさいと。つまり甲のよしとすることは乙が否定し、乙の正しいとすることを丙は正しくないとする。一日中八宗を探し九宗の門を叩くとも、ついに仏教の何たるかを知ることができないばかりか、疑念を抱いて、かえって学ばない方がよかったということになるでしょう。

では、いかにしたらよいのでしょうか。それは、ただその根本を求めればよいのであります。もしもその根本のところがわかるならば、枝葉はおのずから明らかになり、天台を学ぶもよし、そうすれば天台の教えから仏教の本来のあり方がわかることでしょう。あるいは禅や浄土の教えを学ぶのもよいでしょう。禅浄土の教えから仏教の本来がわかるというものです。さらに、甲の言うことも乙の言うことも、それぞれの主旨がわかり互いに妨げるものでもなく、甲をまっとうすることも仏教、乙をまっとうすることも仏教であるとわかります。あたかも東の枝もあって、西の枝もあることで同じ一樹木であるようなものです。つまりそれは他でもなく、仏教の根本のおおよそを了解することです。

その根本とは何かといえば、十善十悪因果応報の真理のことであります。お釈迦様が三大阿僧祇(あそうぎ)と言われる果てしない時間の間修行してこられたのもこの真理を研究し体得するためだったのです。五十年余りの説法である八万四千の法門もこの真理をおし広げて説明し、展開したものであって、この天地世界に起こる様々な出来事、苦も楽も、窮することも達成されることも、各々その違いが起こる所以(ゆえん)、広く十方世界にわたり様々に異なる理由を探求するとき、この真理に依らなければ到底知りえないのであります。

まさにこの原因結果という言葉は今日世間において、いたるところで語られないことはないでしょう。ですが、世の人々が言うところはただ目の前の原因結果だけを言うのであって、過去や未来に及ぶものではなく、ただ自分一人に現れ見る、この一生のことに過ぎません。ですが、この目の前の一生のことですら、原因と結果と符合しないこともあります。言い換えると、豆の実を蒔いて麦を収穫したり、麦の種を蒔いて米を収穫するというような不思議なことです。

どのようなことかといえば現実に、生涯務めて汗を流し困苦しても、十分に飲み食いもできず着るものも満足でない者があります。また日夜学業に励み人の倍もの努力をしてもその結果は平均程度にしかならない者があります。あるいは、怠慢であるにもかかわらず博識の者があり、遊び惚けているのに生涯余りある衣食にあずかり困る事のない者があります。

こうした事柄は世の中には現実に少ないことではありません。これすなわち、原因と結果と相反するものがあるということです。もし世間で実に勉強する者がことごとく学者となり、仕事もせずにブラブラしているものがみな困窮するのであれば、すなわち世の中の人が言うような一生の間に眼に見ることのできる程度の原因結果で事足りることでしょう。ですが、この世の中のことは決してそのようにはならないことはみな人の知るところです。

またたとえ勉強して博学者となったとしても、その勉強して博学となることの原因は何から来たのかと問うならば人は答えることができないでしょう。どうしてかといえば、もしも父母が元手を出し身体も健康で、またもとから利発であり、精神的にもしっかりして勉強することができるとしても、その精神や幸福がどういう原因から来たのかと、そのよってきたるところを尋ねる時は、必ず何の原因をもってこの精神を受けることができたのかと問わねばならず、ついに五里霧中に茫然とならざるを得ないでしょう。これは人が浅き知恵でもって目に見ているこの一生のことの他に過去も未来もあることを知らないが故の狭い考えから出た根拠のない思い込みであって、人は死後我は断絶して無に帰するとする断見(だんけん)、あるいは、世界は永遠で自我も死後まで不滅であると執着する常見(じようけん)に惑わされているからであります。

ですから、ここに仏世尊があり、この迷える者を憐れみ大覚の悟りを開いて、私たちのために迷い転じて開悟して妙なる教えを説きあらわされたのです。この生死の冥暗の中において燎然たる火を観るがごとくあるものは、ただこの三世因果善悪応報の真理のみなのです。もし今この三世因果の真理によって世間を照見するならば、その勉強してもそれでも貧困をもたらすかのように見える者は、これは勉強が原因で貧困の結果をもたらしたのではなく、過去世における人を困らせ苦しめた原因が今日に結果を顕して貧困を受けているのです。いわゆる貧困の原因とは財を貪り、施さず、かえって他人の財をかすめ取り他を苦しめる所業(しよぎよう)が今日に結果して自分の困苦となっているのです。

またこれに反して、生まれながら聡明で利発で活発な人は前世において学を修め知恵を磨き徳を積んで慈善に努めた結果が今日に現れ、慈悲深い父母に愛され教育を受けて生来の智力をもってますます増進発達する結果となるのです。こうして見てみると、たとえ勉強して今世についにその好結果が顕われなくとも、その勉強の功徳は無駄になることはなく、現世にその結果を得られなくても未来において必ずその結果を得ることができるのです。

またこれに反して、仕事もせずブラブラしている者が生涯困苦を感じることなく生きられるというのも、遊び惚けていることが原因で安楽を得ているのではなく、その安楽を得ている原因は過去世において他人に慈善を施し人に安楽を与えた原因が今日に結果して困苦を感じない一生を過ごせているにすぎないのです。ですが、いま遊び惚けていて善行に励むことがなければ必ず未来に困苦することは疑うべくもない真理の当然の結果であります。今仕事も満足にせず遊び惚(ほう)けて困苦を感じないからと自ら奢り努力しない時は未来に必ず激しい苦しみを感じ安楽な日がなくなることでしょう。

このように広く三世にわたる原因結果を見ていくと一事一物として疑うべき事柄もなくなり善因善果悪因悪報の法則明らかとなり判断に苦しむようなこともないのです。これすなわち大聖世尊が三大阿僧祇劫(あそうぎこう)の修行によって、あらゆる現象が具えている真実不変の本性である深い真理をご覧になり、その至らぬところがなき智慧によって達観なされたものであるが故なのであります。

ですから、心から道徳というものを志そうとする者は深くこの意をくんで、篤く因果を信じて勉めて十善を行じ、また人にも善悪因果の真理を信じて十善を行うように勧めるべきなのです。もしこのようになる時は、天下に正しく道徳がゆきわたり行われないところがなくなるでしょう。これは真に正しき道徳であり、人の人たる道というべきものです。もしもこれに反する人は、果てしないこの世とはいえ身を置く場を失うことでしょう。だから疾く勉めるべきなのです。

私はかつて新潟県に行ったとき、壁に大きな字で書かれた書軸が掛けられていたことがあります。これは五歳の子供が書いたもので、その運筆が見事で筆勢は力があり、実に大人の書家にも及ばないほどで驚いたことがあります。五歳といっても満三年の子供で、その運筆を習うと言ってもまだ一年足らずとのことでした。しかしその書は大人の書家の数年もの刻苦も及ばないほどで、私の見るところ、世の人のいわゆる原因結果をもって論じるならば、この訳が判ろうはずもないのです。

ですが、今私の因果応報の真理をもって見るならば、決して怪しむべきことではなく、その生まれながらに書をよくする人は、いわゆる前生において、かつて書芸に勉めた原因が報いて今日の身に顕れたということでしょう。この理によってこれを見るに、今わが国の四千万の人々が、その苦を味わえるものと楽を味わえるもの、困窮せるものと栄達せるもの、賢こきものとそうでないもの、才能あるものとなきものと、各々四千万種に分かれる様相は、その原因にそれぞれ違いがあるからなのであります。

一切のこの世のことは、一事一物として同じものがないのは、この原因がみな様々だからなのです。だからその結果であるものごとはみなそれぞれに異なるのです。ですから、かの他宗教が一切の万物をもって一神の所造とするようなことは大いにこの真理に反するものであって、奇観を呈するものといえましょう。

今喩えをもってこれを示してみると、ここに金平糖を製造する器械があるとして、一つの銅の鍋の中に一度につくるとその数は百千万粒とはいえ、みな同質同形でその甘味もまた同じになります。決して大小長短はありません。このように百千万粒がこのように皆同じようになるのは他でもなく、その原因である製造する人も、器械も砂糖などの材料もみな同一のものをもってつくるからです。この百千万粒の原因がみな同じだからその結果においてもまた同質同形同一となり大小長短がないのです。もとより原因結果の天則であり、疑うべきことではありません。

ですから、かの天主は何をもって同一の神が同一の人種同一の天地空気世界をもって製造しながら、同一の人間をつくることができず、千万無量に差別されるのでしょうか。今一歩譲って、同一の日本人にあっては、同一の人種であるのでまさかその身の丈一丈六尺などということなく、ただ五六尺と大差なくよしとするとしても、そのこころ性質はみな少しも似通っているということはありません。その心のはなはだ甘いものがあれば辛いものもあり、はなはだにがいものも、渋いものも固いものもあります。薬となるものがあり、毒を含むものもあり、はなはだしいものは日本人にして日本人ではないようなものもあります。

どうしてこのような違いが生じるのでしょうか。一つの器械の中で一度につくる金平糖が辛かったり、苦かったり、あるいは毒気を含むものがあればそれはまた奇妙なものといえましょう。物理に適さないこととはこうしたことでしょう。ですから、いまこの因果応報の真理、原因結果の天則をもってこれらを見ていくならば晴天に太陽を望むがごとく、まことに明瞭なことなのです。

このように深く因果応報の真理をあきらかなものと認識したならば、たとえ人が十善は行わないと言っても行わざるを得ず、十悪をなそうと努力したとしてもできないものなのです。ですからつまり善なることにはたとえ少しでも喜び励んで務め、悪いことにはわずかなことでも恐れて避けるべきなのです。このように了解したならば、この応報の真理ほど愉快に喜ばしいものはないのです。さすればこのことを父母親族はもちろんのこと、一郡一国に及ぼして、この世のすべての人たちにこの真理に安住してもらうように勉めるべきであり、それは教主釈尊の説かれた自利利他の善行による最も大事な因縁の教えなのであります。つづく



団体参拝の皆様に
「仏さまの声なき説法を聞く」


ようこそお参り下さいました。はじめに、國分寺の本尊様は秘仏となっておりまして、常に扉が閉まっております。多くのお寺でこのように扉を閉めたままの秘仏というところがあるわけですが、なぜ秘仏にしているのでしょうか。

一つには神秘性の強調といわれます。また、秘仏ですと御開帳したとき、仏様が目の前に姿を表す疑似体験ができるからとする人もあります。また、保存のためだと言われますが、河内長野の観心寺の国宝如意輪観音様も、美しい原色の仏さまですが、国宝に指定されてからやはり毎年のご開帳で傷んできたと言われています。

それで、私の考えはというと、仏様は形ではないよということではないかと思っています。どうしても私たちは形にこだわってしまう。形からはいると鑑賞してしまうんですね。

東京の国立博物館で、国内のものとしては最高の入館者があったと言われます、あの阿修羅像にしてもそうです。はたして八十万人のうち合掌して礼拝して、ご覧になった方が何人おられたでしょうか。

姿形から何かを得ることもあるかもしれませんが、その仏様が自分にとってどれだけ意味のあるものか、価値のあるものかという観点から接していないのです。

ところで、「山川草木悉有仏性(さんせんそうぼくしつうぶっしょう)」という言葉があります。やまかわくさきで、さんせんそうぼく。しつうは、ことごとくある。ぶっしょうは、ほとけのせいしつと書きます。山も川も草木もみんな仏様なんだという意味です。「山川草木悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」とも、また「草木成仏」とも言うようですが。

環境問題の会合でも、時折この言葉が使われ、みんな仏様なんだから大切にしなくてはいけない、仏教はいいことを言うなぁと、まあそんな言い方もされているようです。

ですが、山も川も仏様というのは本当でしょうか。私はどうもへそ曲がりでして、本当かなと。で、どうして山も川も仏様なのか、この言葉の意味するところが私は分かりませんで、長年分からなかったのです。ですが、ある時、閃きまして、そうかと。

それは、仏様というのは何かと言えば、法を説く者、真理を説く人のことです。そして、山や川や草木はというと、それらをよくよく観察してみると、みんな自然の中でそのまま森羅万象の摂理、この世の真理を私たちに表現して説法してくれていると見ていくことが出来ます。だから仏様なのだと。そう思えたのです。いかがでしょうか、山も川も常に移り変わり、草木も一つとして同じものがない、周りの影響を受け常に変化している、無常や無我という真理をそのまま示してくれています。

そう捉えると山も川も草木もちゃんと仏様なんだということになります。ただ受け取る側がきちんとその説法を聞く受け取る努力をしなくてはいけないということになります。

そこで、そのように自然を見るのと同じように、仏像を前にしたときも、姿形を見るだけではなくて、その仏様がお説きになっている教え、その説法の声なき声、メッセージを聞く味わうという努力を私たちはしなくてはいけないのではないかと思うのです。

それで、これからそのように、この本堂の仏様がたの説法、メッセージとはどのようなものかという観点からいくつか見ていこうと思います。

まず、本尊様お薬師様は、薬の師、薬の先生と書きますように、私たちの体や心の病を癒してくださる仏様です。が、本堂の入り口の外の扁額に「醫王閣」と書いてありまして、別名を医王、医者の王様な訳です。ですが、その昔インドで医王と言うとお釈迦様ご本人を指していました。

お釈迦様のところに行くと誰でも癒されてしまう。その説法も当時の医者の診断処方の仕方にそうようなものだったと言われています。とても科学的論理的なお話をなさった。だから医王と言われたわけです。

それでどんなことをお話しになったかというと、生きるとは総じて苦である、ではなぜ苦しむのか、本来目指すべき幸せとは何か、そこに至るためにいかに生きるべきかということを諄々とお話しになったのです。

これを四つの聖なる真理と言いますが、短くお薬師様のと言いますか、このお釈迦様のメッセージを申し上げますと、「悩み苦しみ多い人生ですが、自分、自分というとらわれを捨てて、きれいさっぱりした安らいだ心で、苦しんでいる人たち、生きとし生けるものたちにも同じように安らぎが訪れ幸せでありますようにと願い行動しよう」ということになろうかと思います。

そして、お薬師様の脇侍として日光月光両菩薩が厨子の中に一緒に祀られています。それから、インドの古い神である十二神将が厨子の両脇に祀られ、そして右奥には真言宗祖弘法大師空海上人、そして地蔵菩薩が祀られています。

お地蔵様のメッセージというと皆さんお分かりでしょうか。涎掛け(よだれかけ)をつけていたりしますから、早くに亡くなったお子さんの霊を救ってくださると言われます。が、それもあるのですが、本来は、六道(ろくどう)に輪廻(りんね)する衆生の信心に応えてお救い下さる仏様です。ですから、六地蔵として祀られていますね。そのメッセージというのはいかがなものでしょうか。
「私たちは、みんな死んで終わりではなく、生まれ変わり生きていかねばなりません。地獄餓鬼畜生などに転生しないように、善きことに励みしっかり生きよ。でも万が一苦界に行ったときに困らぬよう信心ごころだけは忘れずに」と、それがお地蔵様のメッセージであろうかと思います。

そして、胎蔵界、金剛界の曼荼羅があり、左奥には奈良時代の高僧・行基(ぎょうき)菩薩、観音菩薩が祀られています。

観音様をご信仰なされている人はありますか。慈みの心をもって苦しんでいる人困っている人と同じ立場お姿になってお救い下さるという観音様ですが。ただ合掌してお救い下さい、助けて下さいというのではやはりいけないわけで、「皆さんも一緒に観音となって周りの人たちを助けてあげよう。共に寄り添うという思いをもって、誰彼となく差別したり分け隔てをしないように」というのが観音様のメッセージではないかと思います。

それから左奥には、隣の八幡神社のご神体であった本地仏(ほんじぶつ)を明治以降お預かりしてお祀りしています。

ところで、沢山の仏様がこのようにそれぞれのメッセージを表現されておられるわけですが、この本堂の中心はどこだと、思われますか。本尊様でしょうか。

実はこの大壇(だいだん)と言っておりますが、この正方形の壇こそが本堂の中心なのです。真言宗寺院の他にない特徴と言えます。拝む仏様にこちらにお越し願ってこの塔の中の小さな仏様の御像にお招きします。この前にある礼盤(らいはん)に座った導師がその仏様と一体になって供養をして、正にここに仏様が顕現しているとして、様々な御祈願を致します。ですから、まあ、一番ありがたい場所ということになるのです。

いろいろと器がありますが、香を焚く火舎(かしゃ)、それに六器(ろっき)、飯器(ぼんき)、華甁(けびょう)などがあり、それらに盛られた御供えをお招きした仏様に供養するという設(しつら)えになっています。

以上、お祀りしている主な仏様がたのそれぞれの声なき説法と言いますか、発しておられるだろうメッセージを聞くという観点から少しお話しをさせていただきました。

いかがでしたでしょうか。仏様がたの願いは、「私たちを慈悲深く見守ってくださっているというよりも、やはり、しっかりと仏様のメッセージを体して信仰の生活に励んで下さい」というエールを私たちに送って下さっているのではないかと思います。

皆様も団体参拝の旅の後は、是非いろいろと疑問を持って仏教を探求し、仏様方の声なき声に耳を澄ませていただけたらと思います。
本日はご参詣いただき誠に有り難う御座いました。



【國分寺通信】
◯この度は、備後國分寺の涅槃会(ねはんえ)並びに稚児行列、御開帳法会、そして土砂加持法会にご参詣いただき、誠に有り難うございました。土砂加持法会は毎年四月の第一日曜日に執り行いますが、六年に一度、こうして朝からお釈迦様の御入滅を追慕して涅槃会を修し、天童子に擬した稚児の行列に先導してもらって、法会を営む大行事を行っております。今年は三十年ぶりの本尊御開帳も併せ行いました。また三十年後にも御開帳が出来ますかどうか。次の住職にご期待いただきたいと思います。

◯涅槃会は、常楽会ともいい、本来お釈迦様の亡くなられた二月十五日に行われます。鎌倉時代の高僧明惠(みょうえ)上人作の四座講式(しざこうしき)が唱えあげられる法会で、(涅槃講(ねはんこう))御入滅の功徳を讃えて供養を捧げ、(羅漢講(らかんこう))十六羅漢ら弟子たちの法灯護持の徳を称え、(遺跡講(ゆいせっこう))各地にあるお釈迦様の遺跡について功徳を嘆じ、(舎利講(しゃりこう))ご遺骨である舎利の功徳を讃嘆する、つごう四座を十四日の夜から翌十五日午前中まで一晩かけてお勤めされるものです。神辺の真言宗寺院では、それらを毎年一座ずつお唱えする涅槃会を、三月末頃に執行しています。来年は平野の法楽寺様にて行われる予定です。

◯左記の毎月行っている月例行事には、どうぞお気軽にご参加下さい。坐禅会は、歩行禅の後、三十分の坐禅を二回いたします。仏教懇話会では、五月ころから今回の御開帳にあわせ発行した記念誌を読みながらお話する予定です。


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菩薩の十善について

2024年07月14日 20時00分27秒 | 仏教に関する様々なお話
菩薩の十善について  昨日の法話に加筆して


今日は、〇年前にお亡くなりになられたお母さんのために、こうして遠方からもお集まりになられご苦労様です。〇年の間にご家族も増えそれぞれに年齢を重ねました。故人もそうした年数を経てなお思い出して法要を営んでくれたことに感謝されていることと思います。

今長い長いお経を聞いて下さり、また一緒に勤行次第をお唱えしました。はじめに礼拝があり三宝に帰依されたわけですが、礼拝する仏さまは最高の悟りを得られて、人として最高の人格を得られた方であり、その方を礼拝する帰依するというのは、あまり意識されていないとは思いますが、仏さまを自分の理想として人生の目標として生きるということです。そういう意味において法事を営むというのは皆様一人一人にとり誠に意味深いものだということをまずは申し上げておきたいと思います。

ところで、今年六月天皇皇后両陛下はイギリス皇室の招待でイギリスを訪問され、歓迎祝賀、晩餐会など大歓迎を受けられました。特に、共に留学されたオックスフォード大学時代を懐かしがられたとか。そんなこともあってか、留学時代の映像が何度も報道されていました。陛下にとってのイギリス留学の二年間はご自身の宝物とさえ言われて著作も残されています。

陛下は昭和三十五年二月二十三日のお生まれです。実は私も同年の三月初めに生まれており、十日ほどの違いに過ぎません。私にとっても、高野山での一年、インドでの三年ほどの期間は宝物に思えますが、陛下は留学時代は何でも自分の考えですることが出来たのがとてもうれしく思えたと心情を吐露されています。つまりはそれ以外の時間はすべて思い通りにならないことばかりとも言えるわけで、皇室の生活とはさぞ窮屈なことなのであろうと想像されるのです。

それでも私は毎日五時に鐘を撞き御供えをしてお勤めして、境内の草を取ってと毎日同じ事の繰り返しの生活をしていて、やはり陛下のお姿をテレビなどで拝見するとこの違いは何なのだろうなどと馬鹿なことを考える訳です。

明治の傑僧と言われ、伊藤博文、大隈重信、山県有朋など明治の元勲の師とも称され、東京目白に僧園を造り、そこに皇室や政界官界軍人など名士が大勢足を運ばれ、教えを乞われた釋雲照律師という、まさに生き仏のようだったと言われるほどの名僧がおられました。この方の著作の中に、天子となられるお方は、前世で菩薩の十善を完璧に行じられて、一切の悪をなさず、一切の善行を行い、慈悲に基づく一切の利他を行じ、すべての衆生をわが子のようにご覧になり、慈悲をもって憐れんだ功徳により、この世にお生まれになるときにそれに相応しきお方のお腹に入られるのだとあります。だからこそ陛下に相応しきお方となられるのであり、だからこそ天皇という位のお勤めをなされることが出来るのだというわけです。

アショーカ王という、二千三百年ほど前のインドで初めて統一するマウリア王朝の大王ですが、この方は前世で貧しかったのですが、道ばたのゴミのような物でもきれいに洗いそれを神様に御供えをした、その功徳によって大王になられたとインドでは言われています。

話変わりますが、私は神辺に来て二十五年になります。生まれた家には仏壇もなく、お寺との縁も何もありませんでした。ですが、訳あって仏教を学び、高野山の学院を終えてから十年ほど、インドや四国を歩いて、そのお蔭で、やっとのこと四十になって國分寺に入寺しました。

神辺や福山の他のお寺さん方は生まれたときから、それに相応しい徳を持って生まれ、立派な御父様から仕込まれて、みな真面目で筋の良い方ばかりです。皆さん相応しい前世を過ごされて功徳を積まれてお生まれになったということだと思います。私には前世でゴミを洗い仏さまに御供えする功徳が少しでもあったのかどうか。

前世があって今生があり、今があります。インドでは輪廻するんだと、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天に生まれ変わるんだと信じられていますが、とにかく前世で培った業がよかったので私たちは人間界に生まれることができました。ですが、人間界も様々ですから、前世までの業によって生まれるべきところに生まれ、いま縁あって存在しているところにあるべくしてあるということにもなります。

ですからどこでもない今いるところで生きていく、インドの仏教徒は来世はもう少し経済的にも恵まれたところに生まれるようにたくさん功徳を積むのだと言います。私たちも同様に何度も生まれ変わりながら少しずつでも心を清らかにするように仏様のところに近づいていく生き方をしなくてはいけないのです。では、どうすべきか。天皇陛下が前世でなされたといわれるように、菩薩の十善に精進することが最善のことだとは思えるのですが、勤行次第にある十善戒は、止善についての内容です。悪いことをしないという善行です。その上に行善という、善いことを行う善行があるのだといいます。

不殺生の行善は、生き物を殺さないというだけに終わらずに、生き物を育て放つことです。不偸盗は、与えられていないものを盗らなければよいというのでなしに、自分のもてる物を必要とする者たちに与えることです。不邪淫は、相手を敬い清潔な関係を保つことです。

不妄語は、誠実な心を保ち、常に真実を語ること。不悪口は、常に心穏やかに相手に寄り添い、誰に対してもきれいな言葉で語ること。不綺語は、自分が良くありたい良く思われたいという気持ちをなくし賢者聖人の言葉について語ることです。不両舌とは、他者との関係において仲良く和合すること。

不慳貪とは、小欲知足を保ち、他者に施したり施す人の行為に賛同し随喜することです。不瞋恚とは、相手を敬い慈しみの心を保つこと。 不邪見とは、この世の因果道理をもってものごとを考え、心安らかに落ち着いた心を養うことです。

このように行善を止善とともに行じて功徳を養い、菩薩の十善を完成させて、私たちもより善い所に来世生まれ変われるようにしたいものです。



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雲照律師ゆかりの島根の寺院参拝の記

2024年07月05日 17時26分42秒 | 仏教に関する様々なお話
雲照律師ゆかりの島根の寺院参拝の記

七月二日三日と、雲照律師ゆかりの寺院を参拝した。その日は大雨の予報があり、決行が危ぶまれたが、一時間毎の天気予報では二日午後からは島根県は小降りになるとのことだったので、強く雨の降る中、神辺町御領から車で出雲方面に向かう。尾道自動車道から松江道に入る頃にはまだ強く雨が降っていたが、島根県に入る頃から雨脚が弱まり、出雲自動車道に入り出雲インターで下道に下りる。

まず向かったのは、律師が出家得度に臨んだお寺といわれ、師の慈雲上人がその頃住職されていた多聞院に向かった。出雲市知井宮町の細い路地をいくつも曲がり開けた所に出たと思ったら、前方に茅葺き屋根が突き出た建物の前に出た。山門の前は入口にお地蔵さんが両脇に立つ二十メートルほどの参道があり両脇はまだ田植えのされていない田圃が広がっていた。山門には「養龍山多聞院」と書かれた細長い板が右の柱に掛けられている。中に入ると綺麗に整備され草一本ない境内で、正面に茅葺の本堂、茅葺屋根が高勾配でせり上がり突端は銅板が覆っておりその下には板で覆いがある。草繋全冝師の『雲照大和上伝』には、本尊が胎蔵界大日如来、脇仏に千手観音とある。右手に客殿庫裏、手前左側には大きな仏像が納められたお堂がある。



山門左側に掲示されている案内板によれば、多聞院は、もとは南隣に鎮座していた智伊神社の神宮寺で、何度か天火のためというから雷のことであろうか、そのため焼失を繰り返し、現在の本堂は、宝暦二年(一七五二)再建という。 庫裏は弘化年間(一八四四~四八)改築とあるので、律師生存中の出来事である。享保九年智伊神社が移転したため多聞院と改められた。大阿弥陀堂は貞享二年に郡代官鵜飼七右衛門によって再建されたとある。左側の小さな御堂に御堂一杯の大きな仏さまは阿弥陀如来であった。

ひっそりとして誰も居られない様子であったが、玄関口で御挨拶すると奥様がお出でになり、雲照律師の得度のお寺と知られていると教えて下さった。建物の中は大きな幅広の梁の立派な建物であることが解る。その再建の際には律師もお越しになっていたとも伺った。お昼時のお忙しい時間帯でもあり、早々にお暇した。

それから、東園町に向かった。律師の生家のあった場所である。曹洞宗にはなっているが高野寺という名のお寺が東園町にあってお訪ねした。こちらは広い車道に面して立派な鐘楼が山門横にあって塀も新しい。本堂前に進むと、奥様が落ち葉を掃いておられたので、律師をご存知が尋ねてみたが一向にご存じない。宗派も違い、二百年も前にこの地に生まれた一人の真言僧についてご存知がなくても当然であろう。お参りを済ませ早々に失礼した。駐車場から見る出雲大社方面の緑鮮やかな山並みは、昔のままだろう。車道もなく大きな建物もなかった当時は、水路が張り巡らされた田圃が広がるだけで山並みもさぞ大きく見えていたに違いない。

それから、律師自ら長く住職なされた、雲南市大東町須賀の普賢院に向かった。宍道湖沿いの道に出て水波を見ながら車を走らせた。国道五十四号線を右に曲がり山に入る。須我神社の標識に沿って左に道をとり、神社手前の広場に駐車場があった。須我神社は県社で立派な風格ある神社である。鳥居に太い注連縄が目に入る。

神社の左側に高い階段があり手前に「高野山真言宗鏡智山普賢院」と彫られた石碑が建っている。階段を上がり山門をくぐると、平らな整備された境内がひらけ、正面の建物が本堂と庫裏であろうか、左に玄関、中程にガラス戸の中に障子が開けられ正面に本尊大日如来が祀られている様だ。ガラス戸の中から廊下手前に書額が見える。「大覚寺管長 大僧正密雄書」とあり、「八正道・・十悪人不行」とある。ひっそりと誰もいない様子だったので、隣の須我神社に伺う。



授与所に居られた方から、しばらく無住になっていることと直に後住さんが来られる予定らしいと伺った。もう一度普賢院境内に戻り、境内の石仏を参る。一番建物寄りのところに、大きな縦長の石に、梵字で五点阿字の下に「雲照大和上位」と彫られていた。後ろに回ると、「東京目白僧園開基 明治四十二年四月十三日示寂 現住北脇智寬代」とあった。右側に板に書かれた案内板があり、「雲照和上墓碑 雲照和上は弘化四年(一八四七年)から二十四年間、、当山住職としても務められ、江戸幕末明治維新の動乱時には政府へ、仏教革新の意見を上申し、八十歳の時には国内はもとより朝鮮満州にまで供養行脚なされるなど、更には皇族の方々からの帰依信望も得られ、八十三歳の生涯を通して戒律主義堅持に盡せられた、島根が生んだ名僧である。鏡智山普賢院」と書かれていた。



翌三日は、松江市内のゆかりの寺院を訪ねた。まず向かった先は松江市米子町の自性院。ここは律師が講伝のため何度か訪ねているお寺である。本堂はじめ諸堂をお詣りする。周りに墓地が間近に造られた町中の菩提寺という装いであったがとてもきれいに整備されている。本尊不動明王に手を合わせ、玄関に住職様をお訪ねする。講伝は今ではもう行われていないとのことであったが、雲照和上と書いた袈裟が一領あるとのことだった。探して下さったが見当たらず、また出てきた際に写真を送って下さるようお願いをし失礼する。



次に伺ったのは、律師が四度加行を行った尊照山千手院という松江藩の祈願寺である。松江市石橋町にあり、自性院からは車なら七分ほどの距離である。松江市街が展望できるお寺としても有名で、さすがに高台にあるため、駐車場からしばし坂道を上る。山側には地蔵や不動の石像が迎えてくれている。大きな枝垂れ桜が葉桜になった枝をのばし、それをくぐるように境内に出た。この桜は、樹齢二百五十年といわれ松江市の天然記念物に指定されている。



手前に納経所があり、その右隣に本堂があって、本尊千手観音像を祀る。その右隣に県内最大の平安仏・不動明王を祀る不動堂がある。玄関にお訪ねすると、名誉住職様がお出ましくださり、応接に通されお話を伺う。かつてはその不動堂の後ろに三人が加行できる加行道場があり、本堂と不動堂の間の廊下から後ろに回って道場に行けるようになっていて、本尊と供物壇のみの簡単な設えであったという。不動堂の右側に小倉寺という松江市西持田町小倉にあったお寺が廃寺となりこちらに建物が移築されていた。その前に「雲照大和上」と彫られた大きな石碑が祀られていたことについてお尋ねすると、以前は市内が見渡せる展望の良いところに置かれていたが崖崩れの後こちらに移設されたと教えてくださった。律師が逝去された後まもなくに祀られたということだった。また昭和天皇御幼少の頃川村伯爵邸にて律師が間近に息災のご祈祷をなされておられたとも伺った。立派なお寺のたたずまいはさすがに松江城築城にあたり、その鬼門に造られたお寺としての風格があった。お忙しい中律師の生涯についてご教示下さいました名誉住職様に感謝申し上げます。



そのあと自性院住職様にご紹介いただいた西浜佐陀町の満願寺に向かう。こちらは宍道湖を足下に見下ろす風光明媚なお寺で、椿の鉢植えが所狭しと置かれていて、誠に綺麗に寺内整備が行き届いている。住職様のご案内で、ロウケツ染めによりお寺の縁起を描いた見事な襖絵や本堂の向拝の椿の花を木彫りにした格天井、また本堂では、不動の頭も彫られた両頭愛染明王など珍しいものを沢山拝見させてくださった。境内の四国霊場のお砂踏み道場も参考になった。お忙しい中熱心に解説くださった住職様に御礼申し上げます。

そして、そのあと律師の袈裟が見つかったとご連絡をいただいたので、再度松江城下の自性院に伺う。住職様が応接間に通してくださり袈裟の写真を撮らせてくださった。袈裟を拝見すると、「雲照大和上 発願袈裟千衣之内」とあり、この一条隣に「裁縫人 横浦田鶴子 八百五十八号」とも記されていた。この袈裟は、『大和上伝』に千枚袈裟の発願という章に書かれているものであろう。



律師は明治二十八年九月に千枚袈裟の供養を発願されている。この袈裟はその一領に違いない。一枚の袈裟は、生地を供養する人、袈裟を縫って供養する人、袈裟を着て供養する人の三人の尊い仏縁が結ばれ、これが種子になり後世に芽が出て仏法の興隆になると、律師はお考えになられた。律師生前には六百枚ほどが成就したという。その後遺弟たちが継続して律師の志を完成したとあり、この袈裟は律師入滅後も継続されていた証として、とても貴重な袈裟であると言えよう。お忙しい合間に快く撮影を許可して下さった住職様に御礼申し上げます。

このほか律師ゆかりの寺としては、十八歳で住職された安木市大塚村下吉田の観音寺があり、また実兄宣明師の住職した寺で、何度も求聞持法を修法された仁多郡奥出雲町中村の岩屋寺もあるが、すでに廃寺となってかなりの年月が経っているためお訪ねしなかった。なお、岩屋寺については、登山アウトドア向け Web サービス・スマートフォンアプリを手がける会社の「YAMAP」というサイトに詳しく現在の様子を伝えてくれている。

https://yamap.com/activities/10612793/article

帰りは出雲道から松江道に入り、そのまま尾道道を通って世羅で下道におり、御調、府中、神辺へと無事帰還した。この度は、突然に押しかけたにもかかわらず、いろいろと便宜をはかってくださいましたお寺様方に改めて感謝申し上げます。また千手院様にはトラブルを迅速に解決下さいましたこと深く感謝し御礼申し上げます。合掌


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雲照律師再考 『釈雲照と戒律の近代』(法蔵館)を読む

2024年07月01日 20時38分06秒 | 仏教に関する様々なお話
 六大新報令和六年一月一日 新春増大号掲載
 雲照律師再考 『釈雲照と戒律の近代』(法蔵館)を読む




『釈雲照と戒律の近代』という本が法蔵館・日本仏教史研究叢書の一冊として刊行されている。二〇二二年八月二十五日初版で、恐らくその頃私は購入し書棚に置いたままになっていた。

だが、この度改めて取り出して精読することになったのは、昨年十月十日に九段のインド大使館で行われた中村元東方研究所の東方学術賞の授賞式に出席したことにある。

長年著書を拝読してきた中央大学国際情報学部保坂俊司教授が東方学術賞を受賞されるとのことで参上したのであったが、若手研究者を対象にした学術奨励賞にこの本の著者が選考されていたのである。

公益財団法人・中村元東方研究所は御存じの通り創始者中村元博士が原始仏教の研究で名高いこともあり、インド学や原始仏教に関する研究者が多く在籍されている研究所である。授賞式では、奨励賞受賞の審査報告が選考委員長からなされた。著作の意義が述べられ、内容について細かく紹介された。

つまりそれは真言宗の僧であった雲照律師(以下律師と表記)の活動と思想にかなり踏み込んで触れるものであって、この著作の価値もさることながら、それ以上に現代が律師を改めて必要とする時代であると再認識させられたのであった。

この本の著者亀山光明(みつひろ)氏は、実は真宗寺院の寺族である。大阪大学在学中に、東北大学准教授で日本宗教史、特に近代仏教を専門とするオリオン・クラウタウ博士から近代仏教に関する概説的テーマの講義を受け、当時抱えていた出自に関する煩悶から救われたという。

そして、クラウタウ氏より近代仏教の魅力と戒律研究の可能性を教えられ、真宗の寺族が近代真言僧の戒律を研究する矛盾を感じつつも、自己を捉え直す契機へつながるものとして研究を続けてきたと「あとがき」にある。

御存じの通り、近代仏教史をめぐる研究は「真宗中心史観」ともいわれるように、これまで時代の変化に率先して対応した真宗関係者中心の近代仏教史像がまかり通ってきた。

しかしその描き直しを提言する研究者も現れ始めており、著者もその一人として律師の特に戒律主義に関する再評価により、その時代の偏った研究の空白を埋めることで近代仏教の再編成を模索しているという。

二〇一八年より『近代仏教』『文芸研究』誌などに本書のもとになる論文を発表してこられた。なお現在は米国プリンストン大学宗教学部博士課程に在籍して研究を続けている。


それでは本書の内容を紹介しながら、律師の業績を再考したい。

まず序において、一八五〇年代からというので明治に時代が変わる十年ほどの間に、外国との交渉の必要に迫られ、「レリジョン」の対訳として様々な言葉が考案されたという。現在は「宗教」という言葉が普通に用いられるが、それに準じてそれまで仏道、仏法とされていた仏の教えも「仏教」と明治期以降集約されていく。

その過程で、本来儀礼的実践などの非言語的慣習行為である〈プラクティス〉に重点が置かれていたものが、教義などの言語化した信念体系〈ビリーフ〉中心へと展開していくのだという。

そうした時代背景の中にあって、律師は、プラクティス的な行為である戒律の実践を重視しつつ、独自の語りの戦略をもって時代に対処していかれたという。

その生活姿勢から滲み出る気迫、崇高なるその人格は既に当時各界から評価され、明治三十二年(一八九九)『太陽・別冊増刊』(博文館)に「明治十二傑」として、伊藤博文、渋沢栄一、福沢諭吉らとともに、宗教家としては唯一選出されるなどその名声は頂点に達する。

しかし、その一方で、下流を見捨て権門に取り入る仏教者であり、加持祈祷は迷信の詐術。戒律復興は社会の進歩から取り残された禁欲主義であり旧仏教の象徴と目された。さらには世間知らずの頑固で滑稽な人物と批判されることもあった。

さらには、戦後の仏教史学においては、皇室と仏教の連携を重視した律師の皇国仏教観は天皇制国家への従属的態度であり、戦争協力に繋がるものであったとして非難されたと記している。

第一章「戒律主義と国民道徳論」では、明治初期の肉食妻帯令など一連の僧侶身分解体期の護法活動について述べる。

当初律師は、建白書を政府に提出して僧尼令や官符の復活を画策するが果たせず、その後宗門内での僧風刷新へ邁進する。
後七日御修法再興を上奏した明治十五年に著述した『大日本国教論』において排耶論を説き、歴代皇室が長く崇信してこられた仏教を国民道徳の根拠として国教化すべきであると論じている。

排耶論では、「外教の宗は曰く天地万物は皆天主の所造に係り人智の能く知るべき所に非ずとし只管天主に一任して黙従する」と述べて、仏教こそ文明の宗教であり、因果論を説く仏教はその原因を論じないキリスト教に優るとしている。

第二章「戒律の近代」では、律師の初期の十善戒論について考察する。

江戸後期の慈雲尊者が「人となる道」として宣揚した十善について、律師は当初あまり言及することなく明治十年代に国粋主義的仏教者たちが十善に注目した頃から、十善を前面に出して論じるようになったとある。

『大日本国教論』の巻末に、「十善は一切衆生本性自然の戒修身治国の要」と述べて、明治十六年に「十善会」を発足。同年刊『密宗安心義章』において、仏教は心の本源を探る営みと解した上で、十善を自己の存在の根源と位置づけて、仏教の枠にとどまらない普遍性あるものであると強調したと書いている。

第三章「在家と十善戒」では、明治中期における律師の十善戒思想について考察している。

宗門の改革に見切りをつけ、律師は明治十九年東京に活動の場を移し、翌年戒律学校(後の目白僧園)を開設する一方、明治二十二年には在家者に向けて『十善戒法易行辨』を書き、道徳的生活の基礎とすべく十善戒を在家の勤行の中に定着させようとされた。

そして、品行を重んじる文明社会においては十悪を制する十善戒こそが、易行とされる念仏にも優る易行であるとせられ、また百歩歩く短時間の持戒の功徳を説くなど戒律実践論を展開したと述べている。

第四章「善悪を超えて」では、明治後期に展開された、近代を代表する知識人加藤弘之氏と仏教者との「仏教因果説」論争に触れる。

『哲学雑誌』第百号(明治二十八年)に、加藤氏が科学的世界観から「仏教にいわゆる善悪の因果応報は真理にあらず」と述べたことについて、他の仏教者たちは善悪因果は宗教の次元による真理であるなどと反応した。

しかし律師は、明治二十九年六月の『哲学雑誌』第百十二号に掲載された「仏教因果説」において、「世間学は未だ推理の源を尽さず、仏教の因果説は三世三際に亘りて能く推理の本末を説き尽せる」などと回答されたという。が、残念ながら加藤氏を十全に承服させるには至らなかったと著者は分析している。

第五章「正法と末法」では、正法という概念から律師の戒律論を展開している。

すでに末法の世にあり末法無戒といわれる中で、律師は正法興隆のための基点として戒律学校を設立。また甥興然師をスリランカに留学させ、後に他国の仏教徒たちとともにブッダガヤの聖地買収を計画した。

そうして、同じ末法の時を共有していながら正法を守る南方上座部の仏教国と交流する中で、南方仏教者の姿を理想と捉えていく。

そして、明治三十年刊の『末法開蒙記』にて、末世を生きる僧であっても、正法渇仰の心を生じ深く懴悔し上品の戒体を発得するとき、正法は時空を超えて姿を現すとせられたという。

しかし関連して、その前年に刊行された『軍事に関する観念』では、理想の正法王とは正法を護るためには戦争による流血も厭わない存在であると書き、日清戦争期において律師は他の仏教者同様に戦争肯定の立場であったとも指摘している。

第六章「旧仏教の逆襲」では、明治後期における新仏教徒を名乗る、主に真宗出身の青年仏教徒たちとの論争を取り上げる。

戒律復興に生涯をかける律師の運動は迷信の害毒を社会に流し、思想進歩の障害であるとして「旧仏教」とレッテルを貼られ、新仏教徒たちから排撃される。

それに対し律師は、明治三十五年『十善寶窟』「世の仏教曲解者に諭す」において、「時代の精神に合わせ道徳や教義を改めることは天魔破旬の行為であり、仏教の教体は時流の推移においても不変である」と述べた。そして、仏教の精髄である三毒の払除と三学双修の復活を仏教復興の要であると反論されたなどとその顛末を解説している。

第七章「越境する持戒僧たち」では、そうした国内での論争を経て、日露戦争後日本の保護下に置かれた韓国に、明治三十九年に巡錫する晩年の律師について考察する。

『六大新報』第百六十号「朝鮮に於ける雲照律師」にあるように、釜山近郊の通度寺での朝鮮僧たちとの交流により、朝鮮僧の中には持戒道心堅固な僧も存在すると認識を新たにする。

しかし、『韓国皇帝陛下に奉りし書』では、韓国仏教は大戒二百五十戒や受戒の法規、七衆別戒などを弁えておらず、これを「大乗の弊風」として日本仏教と共通する問題と捉え、国家による僧分の統制と国民信教が国家利益になるとして仏教国教化を上申したという。

第八章「近代日本における戒律と国民教育」では、最晩年における律師の「国民教育論」について述べている。

明治中期以降宗教の上位概念とされた皇道という言葉が教育勅語や学校教育に用いられていた。明治三十二年に「宗教教育禁止令」が出されると、律師は仏教を皇道の中に再配置することを構想して、神儒仏三道の道徳的倫理は本質的に同一であるとせられた。

そして、「中でもとりわけ十善は人々本具の真性であり皇道の心肝である」などと主張したという。国民教育論を展開した晩年の主著『国民教育之方針』(明治三十三年刊)は天覧に供され、貴衆両院全議員に配布された。

終章では、近代仏教研究における戒律復興の意義を振り返る。

真宗知識人たちによる新仏教運動などにおいても、近代に乗り遅れた仏教者という律師批判が行われた。悪行をなしても念仏によって往生間違いなしとする中世の迷信勢力が、善悪因果ひいては戒律実践という仏教の根本原理を破壊しているとする律師を、彼らが目の敵としたのは至極当然ともいえる。

しかし、英国に留学してマックス・ミューラーに学んだ南条文雄師は阿弥陀如来や浄土教が釈迦直説か否かを巡る難問を突き付けられ、「精神主義」を唱えた清沢満之(まんし)師の弟子暁烏敏(あけがらすはや)師も大正期に南アジアを訪れて現地の仏教に触れると自宗の伝統との関係に再考を迫られたと指摘している。

そうした中にあって、律師は本然の仏教である戒定慧の三学に則った僧侶の修学実践の場として目白僧園、那須僧園(那須野雲照寺)、連島(つらじま)僧園(倉敷寶島寺)を開設。在家者には「十善会」を再興し、「夫人正法会」を発足して、機関紙『十善寳窟(A5版約50頁月二回)』『法の母(月一回)』を発行して、十善を柱とする国民教化により社会秩序をもたらすことを念願した。

それは皇道と名を換えつつも戒律主義の精神が活かされる方策まで考慮が重ねられたものでもあった。戒律復興という旗を最後まで下ろさず、多年にわたり驚くほどの精力を傾け常に真剣に取り組まれた。

その目指すところは、あくまでも釈迦の正法の時代への原点回帰であり、それは理論を超えた経験的な新しい仏教の潮流を体現するものであった。

その意味において、律師の運動は近代において挫折したとみる向きもあるが、その試みは一つの日本仏教の近代を見事にあらわしており、無自覚に受け入れてきた仏教や宗教をめぐる理解の再考を迫るものといえると結んでいる。

以上、律師の八十三年の生涯の後半生について、著作の他に雑誌や評論、関係者の資料まで丁寧に調べ上げて律師の思想を体系的に分析した亀山氏の論考を紹介した。

律師が真摯に時代の変化に向き合い様々な相手と真剣に討論を繰り返す中で、苦心惨憺して論を練り上げていく姿を彷彿とさせる内容であった。いかに時代が変わっても本然のあるべき仏教をその時代に実現せんとなされた軌跡を丹念に記録した労作といえよう。

真宗の寺族である著者がここまで律師の思索を追跡して顕彰して下さったことに感謝もうし上げる。皆様も是非ご一読願いたい。律師の労苦の程が知られよう。

著者は最後に「戒律復興に身を捧げた令名高い近代の律僧は、自分を認めてくれないのではないかという不安の念はどうしても拭いきれない」と述懐している。

しかし、今となっては誰もがそうした思いの中にあるのではないか。それでも律師のような誤魔化しの一切ない正真の求道僧が近代という、つい百年ほど前にこの日本に存在したことに救われる思いがする。

国家社会に貢献せんと、世の中が西洋化して欲望が肯定されていく時代に、それでも仏教がいかに世間に不可欠なものかを論じ、仏教の社会的な地位、威厳のために長年にわたり精魂を傾けられた。

それは偏に自誓された生活姿勢を頑なに護り実践する営みにおいて得られた確信があり、それが律師の一生を支えるものとして不動の確固たるものであったということであろう。

律師遷化後、律師ほどに社会に無視できない存在感を示し得た僧があろうか。私どもも、本当はそうした頑固に脇目も振らずに主張できるだけの確信を得られる仏との対面を果たさねばならない。

ところで、ヴィパッサナーという初期仏教の瞑想法を心理療法や精神医学に利用せんとして、米国のマサチューセッツ大学メディカルセンターでは一九八〇年代から研究がなされてきた。近年やっと日本にもマインドフルネスという名でそれらが逆輸入された。

律師が甥興然師を留学させたスリランカから長老比丘が来日して、四十年ほど前から上座部の仏教を日本語で布教している。今日では日本テーラワーダ仏教協会として全国に布教所が開設され、法話会、瞑想会が定期的に開かれている。

二十年ほど前からはミャンマーやタイで比丘となり瞑想修行を積んだ日本人僧たちが帰国して法話し瞑想指導にあたっている。初期仏教に関する著作が書店で平積みされ、その多くが売れ筋ランキング上位に位置する。

当然のことながら、それらの仏教は律師が唱えた三学に基づく実践的体系を重んじている。それを多くの人々が理解し実践しようとしている。時代が律師を再評価し始めていると言えようか。



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明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約④

2024年06月09日 12時51分30秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約④





第四章 証果
 求めるべき真理を明らかにし、そのために発心して戒定慧の修行により、ついに煩悩を断じて菩提を証得し涅槃に到る、これを証果という。三学に小乗大乗があるように、証果にも小乗の証果、大乗の証果の別がある。

 第一節 小乗の証果
 小乗の証果に、声聞と縁覚と仏果との別がある。

第一、声聞の果位 四向四果の別があり、この八位とは、預流向、預流果、一来向、一来果、不還向、不還果、阿羅漢向、阿羅漢果であり、初めの二位は見惑(我見をもととする身見、辺見、見取見、戒禁取見、邪見)を断ずる十六心のうち十五心までを断ずるのが預流向で、預流果は第十六心を断じ、見惑を断じ尽くし四諦の真理を証得して得られる。のちの六位は思惑を断じて得られる。
 欲界の思惑に九品があり、その六品までを断じて一来向があり、六品を既に断じたる位を一来果という。さらに欲界の九品までを断じて不還向があり、九品を断じて欲界に生ずべき因尽きた位を不還果という。色界の四禅定と無色界の四空定の八地にある微細の煩悩を断じつつ阿羅漢向があり、断じ尽して阿羅漢果となる。阿羅漢とは無生との意味であり、三界の生死輪廻を解脱して寿命を終えた後には再生することはない。阿羅漢となりてまだ寿命ある間はこれを有餘依涅槃といい、身あることによる苦果を受けるものとみる。一期の寿命尽きると無餘依涅槃といい、生死を絶して一切の苦楽から離れ煩悩により苦悩することがない。

 阿羅漢果を得たのちは、苦楽から離れ煩悩に纏われることがないがために自由自在となり五神通を発得するという。
五神通とは、一に天眼通は、自他一切の衆生の生死輪廻の様子を見るほか、世の中の明暗遠近を問わずすべてのものを見る能力。
二に天耳通は、一切六道世界の音、声を明瞭に覚知する能力。
三に他心通は、心寂静にして他者の思念するところを、姿を見る如くに知る能力。
四に宿命通は、自他の百千万回もの再生を繰り返す、それらの生存について知る能力。
五に身如意通は、心身自在に、遠近過去未来の欲するところに行く能力。
 以上四向四果を経て、有餘無餘の二涅槃を証することを声聞の極果という。

第二、縁覚果 声聞の果と大同小異であり、縁覚は、必ず宿命明(通)、天眼明(通)、漏尽明(通)の三明を具え、再び三界の煩悩を起こすことなく、勝れてこれらを悟ることを縁覚果とする。

第三、仏果 声聞縁覚にいう有餘無餘の二涅槃を証して寿命きたりて最極究竟とすることは同じではあるけれども、釈迦菩薩は、三祇百劫という果てしない修行を繰り返し、最後の生を得て悉く煩悩を断じ、一切衆生の性根に応じて説法済度し、八相成道したので大覚世尊という。

 第二節 大乗の証果

 第一、二転妙果 菩提の妙果と涅槃の妙果がある。菩提の妙果については既に述べた一切智、道種智、一切種智のことをいう。涅槃の妙果は、四種あり、一に自性清浄涅槃とは、本来具わる仏性のことで、一切の生きとし生けるもの、またこの世に存在するものすべてに有するもので、不増不減なるものなので自性清浄涅槃という。二に有餘依涅槃、三に無餘依涅槃であり、既に述べた。四に無住処涅槃とは、悟りの大いなる智慧あるので世間の煩悩にまみれず、大いなる慈悲の心から涅槃せず、一切衆生を利益救済するために衆生世界に縁に随い応じて現れて未来際を尽くして仏教の妙理を説くことをいう。

 第二、三徳 大いなる涅槃の証果の徳を述べるに三つあり、法身、般若、解脱の三つである。これら三徳をもって、生死に流転する衆生を見て、厭うことなく、同体との大悲心から種々の方便をもって世間に出でて教化救済する。

 第三、三身 涅槃の証果を仏身について言うに、法身仏、報身仏、応身仏の三身如来の妙果とする。我らが目にするのは応身仏の釈迦牟尼仏ではあるが、これら三身はもともと一体のものであり、本来色も像もない無辺無際の法界身であって、無明煩悩に隠されて知ることが出来ないでいる。それを解脱すれば、本来具わっている仏性が厳然と現れて、仏性即法身となり、法身を顕現すれば報身応身の二身が現れ、無碍自在にして一切衆生を救済するに到るとする。

 第四、四徳涅槃 三徳三身の各々に常・楽・我・浄の四徳が具わるとする。常とは、もともと具わる三身は端然常住なるもので三世を経て変わらないものという。楽とは、生死の苦を離れて涅槃寂滅の楽を証することをいう。我とは、仏は無自性の真理に達して応用自在なことを真我の徳という。浄とは、諸々の煩悩穢れを離れて端然清浄なること一辺の塵も無い鏡の如く浄らかなことをいう。

結言

数千巻の経律論に記す膨大なる仏教をここに数章の小冊子にまとめ、その大綱要領を示した。今般行われている諸宗の法門に小異があることと思われるが、本書に述べたことは仏教の大同であり、読者に仏教の大本の教えを知らしめんがためのものである。



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明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約③

2024年06月06日 20時18分09秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約③





第三、正定

一世間禅、世間禅とは、四禅定、四空定などをいう。

十善戒を護り、坐して気息調和し、身心端静にして定に入りても、人の身心の相を見るので欲界定といい、そこからさらに進み、身の感覚を超えて虚空の如く安穏になるのを初禅の未至定という。

そして、欲界など下の境界を厭い、未だ寂静に到らぬので「麁」であり、精妙に苦悩を脱していないので「苦」であり、障礙を出離していないので「障」であると観じて、先に進み、上の境界を得ると、麁動なく寂静にあるので「静」であり、苦縛を脱して静妙なるが故に「妙」であり、迷いの世界に留まろうとする障りを離れ出ているので「離」であると観ずるのを六行観という。

これにより、欲界定から初禅に、さらに二禅、三禅、四禅へと到る。さらに四空定も六行観によって成就する。

二出世間禅、初めに四念処、次に三十七道品とする。出世間禅とは、三法印にある苦不浄、無常、無我の真理を観じて我見我愛などの煩悩を断ずることをいう。そのために四念処観を修す。念とは、観慧であり、処とは観察する所のことをいう。

一、身念処とは、身体について観察することであり、身体は種々の不浄より組成されたるものであり、その不浄を観念して自他の身体が美しく清らかな者であるという顛倒を破すること。

二、受念処とは、我が身が外界との接触により感受するものについて観察することであり、それらは純粋に楽といえるものはなく、一つとして苦でないものはないと観念し、迷いのこの世が楽との顛倒を破すること。

三、心念処とは、心について観察することであり、その働きが常に生滅を繰り返して常住でないことを観念して、同様に常との顛倒を破すること。

四、法念処とは、一切の法について観察することで、それらのものが因縁によって生じ滅するものであり、そこにそのものだけの存在を特定する自性はないと観念して、永遠不滅の我が存在するという顛倒を破すること。

小乗の機根の人は、四念処により四顛倒を観破するはよいとして、その四者に執着し実有との誤った見解をもつ。大乗機根の人は、不浄、苦、無我、無常を観じた上で、この四観に執着して実有なりとする顛倒も破して、八顛倒を破すのである。

三、三十七道品 今述べたる四念処の他に、四精勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道の七科の道品、総じて三十七あり。これらは戒、定、慧のそれぞれに属するものがあるが、みな定心に相応するものなので定聖行に入れ、大略を述べる。

一、四念処、既に述べた。

二、四精勤、一に既になした悪行を断じ、二に既になした善行を増進し、三に未だなしていない悪行をせず、四に未だなしていない善行をなすために、精勤する。

三、四如意足、意の如く目的を成就させる徳のこと。一に欲如意足とは、四念処などの法を修することを欲して善い果を望むこと、二に心如意足とは、修する対象に集中し、一心に正しく行ずること、三に進如意足とは、勤勉に精進修行すること、四に思惟如意足とは、修する対象についてよく思惟して心して試行すること。

四、五根、諸々の道品を行じる際に善根を生じるための力となるもの。一に信根とは、教えを信じ疑わないこと、二に進根とは、励み精進すること、三に念根とは、放逸せず妄想しないこと、四に定根とは、心落ち着き散乱せぬこと、五に慧根とは、観察し明らかに照見すること。

五、五力は五根に同じ。

六、七覚支、一に念、二に擇法、三に精進、四に善(喜の誤りか)、五に軽安、六に定、七に捨とする。修禅の際に精神沈昏するときは、念(心そこに留める)をもって、擇法(法を選択する)と精進(励み精進する)と喜(喜び満足して)の三つの覚支により観起し、心もし浮動するならば、軽安(心身の軽快なるを感じる)と定(心禅定に入り散乱させず)と捨(心かたよらず平静である)の三つの覚支を用いて静定ならしめる。

七、八正道

一に正見とは、苦・空、無常、無我などの十六行(次節に述べる)を修して四諦の真理を認識すること、
二に正思惟とは、四諦の真理を観じて煩悩のない心により思考が静まること、
三に正語とは、煩悩のない智慧により邪な言葉を既に離れ、言葉を発することからも離れていること、
四に正業とは、煩悩のない智慧により邪な行いを遠ざけ、何かしたいという衝動から離れていること、
五に正命とは、煩悩のない智慧により邪な生活を退けて、清浄なる行を継続すること、
六に正精進とは、煩悩のない智慧により精進して涅槃に向かうこと。
七に正念とは、煩悩のない智慧により如実に現象を観察すること。
八に正定とは、煩悩のない智慧により正しい心の統一を得ること。
  
以上三十七道品は、仏教修行の要道であり、安心立命の地を得んがためにはこれらの道品を修めなければならない。この他出世間禅に属するものとして、他に小乗、大乗、また密教にも種々あり、各自実地に研磨されることを願望する。

 第三節 慧聖行
 煩悩が残る不完全な智慧を有漏の慧といい、煩悩を断じて真実の真理を発見する智慧を無漏の慧という。

第一、有漏智 世間の有漏智に七段階あり、初めの三つは三賢位といい、後の四つを四善根位といい、総じて七賢位という。

初めに、三賢位について述べる。

一に五停心とは、数息、不浄、慈悲、因縁、念仏の五観を修し貪・瞋・痴・我見・散乱心を抑えて相応の慧を発する位をいう。

二に別相念処とは、四念処を修して、身は不浄なり、受は苦なり、心は無常なり、法は無我なりと四境を別々に観じて修得する智慧をいう。

三に総相念処とは、四念処において、身は不浄なりと観じたならば、受と心と法もまた不浄なりと観ずるように、四念処の全体が、ただちに不浄、苦、無常、無我であるとの共相を観ずることによって得られる観達自在の智慧を得たる位をいう。

次に、四善根とは、無漏の智慧が生じて四諦の真理を明瞭に見る段階である見道の直前の位であり、四諦において十六行相を観ずる。

苦諦について観想し、三界の苦は、苦悩なり、空なり、無常なり、無我なりと観念する。
集諦について観想し、苦果を招集する原因は、集なり、因なり、生なり、縁なりと観念する。
滅諦について観想し、滅は真に、寂滅なり、浄なり、妙なり、離なりと観念する。
道諦について観想し、三界出離の道は、真の道なり、如なり、行なり、出なりと観念する。

これを十六行相といい、これに麁細勝劣の差があり、煖位・頂位・忍位・世第一位の四位がある。

第二、無漏智 出世間の無漏の智にも、種々の階級があり、声聞と縁覚とに違いあり、同じ声聞乗の中にも種々の差異がある。我ありとの誤った見解による種々の見惑(無漏智を生じて四諦を明瞭に見ることで滅せられる煩悩のこと)を断じて四諦の真理を悟り、煩悩のない智慧を獲得する声聞の智に十六心の別がある。

四諦を四つそれぞれを観ずる智に忍と智がある。見惑を断じる智を忍、真理を証した智を単に智という。例えば苦諦を観じて楽との顛倒を破するのは苦法智忍といい、苦諦を観じて無漏の真理を証するのを苦法智という。集、滅、道もこれに準じて各々忍と智があり、欲界の四諦を観ずる智に八種あり、また色界無色界の四諦を観ずる智に同様に八種あり、併せて十六心となる。

初めの十五心を初果向(預流向)とし、第十六心を初果(預流果)とし、さらに第二向より第四果に到るまで、三界の微細なる煩悩を断じるために四諦の真理を重々思慮思惟して明瞭な智を得つつ進む。第四果にて三界最頂の煩悩を断じ尽くしたので尽智といい、阿羅漢は再び煩悩を生ずること無いので、その極智を無生智ともいう。

次に縁覚は、飛花落葉を見て悟る者なので、機根勝れその智は鋭利なので、教わることなく十二因縁を悟り、三界の煩悩を断じ尽くす。次章にて述べる聖者の四向四果という段階も分けることなく、一向一果を経て涅槃に到る。

小乗の菩薩は、声聞縁覚同様に三法印によって修行する者ではあるが、利他のために一切衆生を利益して声聞縁覚菩薩の弟子らを教化して悟らしめる化他の智慧広大無辺である。

大乗の菩薩は、四弘誓願を起こし四諦十二因縁の法門を修学し、衆生に結縁するために布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜を修して一切衆生を済度するが、その獲得する智慧に一切智、道種智、一切種智の三智がある。

一切智とは、声聞縁覚の二乗が断ずる煩悩を断尽して空諦を証する智慧。
道種智とは、一切衆生の煩悩の心病を知り、それを救う法薬を施し菩提に到らせる仮諦を証する智慧。
一切種智とは、生死と涅槃との二辺に迷う無明の微細な煩悩を断じて、生死即涅槃、煩悩即菩提、生仏不二の中道実相の真理を証する智慧にして、普く十界の一切の凡夫も聖者をも教化する。

定と慧は、もとより相離れざるものであり、慧を得ようとすれば定が必ずあらねばならず、定がなされれば自ずから慧が発せられる。戒定慧の三学は、本来不二にして、一心の三徳なるものである。

仏教の真理に随おうとする者は、必ず三学を修めねばならず、三学を明らかにするものは三蔵であり、経は定に該当し、仏陀が定に入り定の中に現れた法を説くものであり、律は戒に該当し、仏弟子らの非行を戒められ制定されたものであり、論は慧に該当し、仏弟子らが法門の深い教義を論じたるものである。これら戒定慧の三学は相互に関連し離れないものであり、経律論の三蔵も分離すべきものではない。



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明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約②

2024年06月02日 20時17分00秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約②





第三章 修行
発心にとどまって修行することがなければ菩提を得られず、衆生を教化することもできない。我が仏教において、修行とは、戒定慧の三行であり、戒とは身口意の悪行を制止し善行を行ずることであり、定とは内心を寂静にして煩悩を制止することであり、慧とは顚倒せる邪見を捨て正見正智を得ることである。

  第一節 戒聖行 
我が仏教において戒を論ずるに種々の門があるが、それら一切の戒は皆十善をもって根本とする。身業を戒めるものに、不殺生、不偸盗、不邪淫。口業を戒めるものに、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌。意業を戒めるものに、不慳貪、不瞋恚、不邪見がある。されど、これら十業はその源は一心にゆきつくものであり、ただその業の顕れるところについて十善戒の名目が設けられているに過ぎない。一心が真理に順ずるものを善といい、背くことを悪という。また、十善戒に止善と行善とがあり、この二種の戒をまっとうするをもって十善戒を持する者という。

一、慈悲不殺生戒 不殺生とは、一切の生類を殺さないことを言う。殺意を生じて未だ殺生していない者も一分の不殺生戒を犯したことになり、逆に心に殺意無く誤り生類を害したる場合は不殺生戒を犯したことにはならない。が、後に生類を害した過去を顧みて懺悔の心がない場合は幾分かの不殺生戒を犯した者という。不殺生戒における止善は殺生しないことであるが、慈悲の心により生類の危難を救うなど放生を実践することを行善とする。

二、高行不偸盗戒 不偸盗とは、自己が所有するものでない一切の物を取らないことを言う。親子の物でも恣に用いるのは不偸盗戒を犯すことになる。富貴なる者が公益のために金品を施与するなど布施を施すことを行善とする。

三、浄潔不邪淫戒 不邪淫とは、心に邪淫の念をもってなされる一切の道ならぬ淫をいう。夫婦の間とはいえ、非時、非処、非道、非理、非量に淫するは邪淫とされる。邪淫は心を縛り、人を害すること甚だしく、これを恐れて戒めるべきである。夫婦貞潔に時に八斎戒を護り、梵行清潔に随順するなど清浄なる行いに勤めることを行善とする。

四、正直不妄語戒 不妄語とは、見聞覚知したことに違うことを言うことである。また荒唐無稽のことを言うことも含む。行善は誠実な心をもって、正直に真実語を話すことで、これにより他者を教え導き、尊信されることになる。

五、尊尚不綺語戒 綺語とは、軽口、戯言のことで、他の歓笑を取ろうとなされるものではあるが、人の心を迷わす無益無義の言葉である。仏道を修する者は心して悪なることを知り、この戒を護るべきである。言葉厳粛に、喜んで聖者賢人の言葉を談ずることなどが行善となる。

六、柔順不悪口戒 不悪口とは、他を罵倒せず、他者の心を逆なでせず、悪い心を起こさせず、相手に合わせて優しい言葉を用いること。相手の気持ちに添い柔らかい言葉で理に適った真実なる言葉を話すことが行善となる。

七、交友不両舌戒 両舌とは、離間語ともいい、両家両人の親交を破る言葉のことで、悪果をきたすこと疑いなく戒めるべきである。よく他者を和合させるような言葉を話し、両者の親交をはかることが行善となる。

八、知足不慳貪戒 不慳貪とは、少欲知足により贅沢にならず物惜しみもしないこと。貪らず、よく他に施しをして、また他者の施しを見て随喜することなどを行善とする。

九、忍辱不瞋恚戒 不瞋恚とは、怒りの心を起こさず、意に違う場面に遭遇しても自らを損なうものと捉えず、人が自己を誹謗したとしても、それも因縁のなせることと傍観する。もとより自他なきこととわきまえ、冷静であること。瞋恚の心を起こさなければ心常に悦ばしく、慈心あり。慈悲忍辱の行に随い、慈しみの無量なる心に住することを行善とする。

十、正智不邪見戒 不邪見とは、邪見をもたず、因果応報などの正しい道理に随うことをいう。因果応報を信じない者は善悪正邪を顚倒し、無常無我を覚らない者は利己私欲を逞しくする。よって邪見、迷説をもつ人を戒めるのである。因果応報三世十二因縁の道理を信ずるものは、よく諸法の無常無我を覚り、定慧を修して、仏道を成満すべきであり、これを行善とする。

これら十善戒の止善が成就すれば行善自ずから行われ、十悪除けば十善が自ずから行ぜられる。それぞれ十善戒に五思があり、不殺生戒について述べるに、一に離殺思、これは不殺生戒をたもつのに先立ち、殺生から離れることを誓うこと。二に勧導思、自己だけでなく一切衆生を勧導して、殺生から離れさせること。三に讃美思、自他の殺生を離れる善行を讃美すること。四に随喜思、他者の不殺生に随喜すること、五に廻向思、不殺生の功徳により、自他ともに無上の菩提に到らんと廻向すること。

真正の十善戒を持する者とは、必ず止善行善を行い、離殺・勧導・讃美・随喜・廻向の五思を具え、一切諸法無常無我の正しい知見に住し、さらに自他平等の心縁すなわち衆生縁・法縁・無縁の慈悲心をもって社会に利益をもたらし、普く三世に亘り一切衆生を救済する者をいう。

第二節 定聖行
定とは、梵語にて禅那といい、訳して思惟修、静慮という。心を一境に注ぎて、散乱せぬこと。三摩地、三昧ともいう。諸法の真理を発見討究しようとする者は、まず妄想を去り、雑念を止め、喜怒愛憎の情を除き、思念を静かにすることが肝要である。故に禅定が必要となる。

第一、禅定の方法 心と体は密接に関係するものであるので、心を静めるためにまず身体を調える。

一、身を調うる法 平らなところを選び、半跏座ないし結跏趺坐して、手を前に組み、背筋を真っ直ぐにして曲がらず聳えず、頭頸を正しくして伏せず仰がず、口から気を吐き吸い身中快活になれば、口を閉じ舌を上顎に触れさせ、軽く目を閉じ鼻より呼吸し気を和らげ、全身動揺せず静謐せしめる。

二、呼吸を調うる法 呼吸に、風、喘、気、息の四種あり。前の三種は呼吸の不調なるときのもので、呼気吸気出入りに音があるのを風といい、音が無くても出入りに滞りがあるのを喘、音も滞りも無いのに呼吸が細く静かにならないのを気という。呼気吸気が綿々と細く出入りがあるかなきかとなり、心自ずから悦びを感ずるのを息という。心を用いて息を整えようとしても心が定まらない、そういう時にはまず心を静かにし、身体を緩やかにし、全身の毛孔から気が出入りすると観想するとよい。

三、定に入る法 入定に二要あり。まず、坐して頭が垂れ睡魔に襲われ記憶も無い状態にあるときは、少し目を開き、鼻端を見て心集中し出入りの呼吸を一つ二つと数える、吸気がどこに入りどこに留まりどこに去るのかを観察する。出る呼気に分散なく、入る吸気に滞りなく心澄みゆけば心眼開かれ昏沈が去る。また、身心安穏ならず、妄想しきりに往来する時は、心を静め臍の起伏に意識を集中して、外に心が向かない様にして心の乱れを制する。念を強く用い過ぎて錯乱し胸に痛みを感じる様なときは想念をとく。心散漫となり、身体くつろぎ涎がよく出る様なときは、身体に意識を向けてその感覚に心を集中するとよい。心の浮き沈み、緩急に気をつけて適した法により、心安静となり散逸せず、凝り固まらず定に入る。

四、定に住する法 身は背筋真っ直ぐにして安静にし、息は綿々と細くして、息あるが如くなきが如くになし、心は浮き沈みなく適度に意識をたもつならば、この三者適度に調い、平正を得ること度々となる。これを定に住するという。

五、定を出るの法 まず心の念を解き、口を開いて気を放ち、少し肩肘手頭頸を動かし、両足を下ろして、手で身体をさすり両手を擦り、両眼をおおい、それから目を開けて、起立歩行すべし。

第二、助観 身・息・心を調えて定に入るのは方便であり、目的ではない。これから述べる助観、並びに正定があり、助観はまた正定の方便となる。助観とは、五停心のことであり、一に数息観、二に不浄観、三に慈悲観、四に因縁観、五に念仏観である。

一、数息観 心散乱するとき、心を統一せしめるために数息観を修すべし。出息時、または入息時の数を取ってもよいし、出入りの中でもよく、数えやすい所で数を取り、一つ二つ三つと十まで数え、また一つに還り、繰り返す。

二、不浄観 淫欲の心が起こることあれば、不浄観を修すべし。貪欲に大別して、外貪欲、内外貪欲、偏一切処貪欲の三つあり。他の男女の容貌を想像して貪欲止むことがない状態を外貪欲といい、その場合には、人体の不浄を観想するとよい。死後身体が膨張し、膿血流出し、筋肉は腐乱変色し、蛆虫が発生、鳥獣争い肉を食らい、形骸分離して白骨のみとなり、また火に遭い灰になると観想する。また、他の男女もしくは自己の容貌を想像し種々の煩悩を起こすのを内外貪欲といい、この場合は自己の身体の不浄を観想する。自他の容貌に愛著してさらに衣食、家財などにも貪欲を起こすのを偏一切処貪欲といい、この場合には、飲食に屎尿の想をなし、貨財に毒蛇の想をなすなどして世間の物みな不浄にして、貪心を生ずべきものではないと念ずる。

三、慈悲観 瞋恚の念起こるときは、慈悲観を修すべし。瞋恚に、非理の瞋、順理の瞋、諍論の瞋の三種あり。非理の瞋とは、憤る理由なくして怒ることで、これを治すには、衆生縁の慈悲を修すとよく、人と人との繋がり、世間の相助け相頼む関係を思い、愛念を生じて瞋恚を断つ。順理の瞋とは、人の苦悩する境遇に憤り、他の非道なるを見て怒るなど憤怒する理由ある瞋恚のことで、これを治すには、法縁の慈悲を修して、みな一体一味との観をもって衆生個々の姿を見ないことによって瞋恚を断つ。諍論の瞋とは、自己の考えを正しいと思い、相手の考えを間違いだと決めつけて、他者の考えの違いに憤怒することをいうが、これを治すには、無縁の慈悲を修して、自他平等にして差別無しとの観念により、諍いもとよりなしと達観すべし。

四、因縁観 愚痴蒙昧に陥るときは因縁観を修すべし。愚痴に、計断常の愚痴、計有無の愚痴、計世性の愚痴の三種あり。計断常の痴とは、この世と自我は不滅であるとか(常見)、死後断滅するなどの誤った見解(断見)を持つことで、この場合には三世の十二因縁を観念し、因果は相続して不断であり、自性は空であるので不変ではないと観じてこの邪見を断つ。計有無の痴とは、すべての存在が有るとか無いとかと頻繁に思い錯綜することであり、この場合は一期の十二因縁を観念して、有無の誤った見解を離れる。計世性の痴とは、微塵は存在するので実体があるとして四大、衆生世界も実性ありとする誤った見解を持つことで、この時には一念にある十二因縁を観念して、微塵なるものにも因縁による生滅ありと悟りこの邪見を破すべし。

五、念仏観 坐禅するとき種々の障害が起こるときには、念仏観を修するべし。障害に、沈昏暗蔽障、悪念思惟障、境界逼迫障の三種あり。沈昏暗蔽障とは、精神沈昏して判別できない状態をいい、これを治すには、仏の三十二相中、白毫相など一相を取り、深く観ずべし。悪念思惟障とは、十悪や五逆(父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、仏身を害して出血させる、教団の和合を破壊する)の悪念を起こして禅定を妨げることをいい、これを治すのに、仏の一切種智などの功徳を念ずるとよい。境界逼迫障とは、定を修するとき、苦悩逼迫して身体に苦痛を感じ奇怪なる相を見るなどをいう、この場合には、法身仏を観想することで、不生不滅、非有非空の法身なれば、境界なく、逼迫する者もなくなり、この障害が除かれる。

以上、助観にて心の散乱を防ぎ、淫欲を制し、瞋恚を伏し、愚痴を排し、種々の障害が除かれたので、これらに妨げられることなく、真理を観察考究することができよう。助観が修し終えたら、次に正定を修し禅定を完成させるべきである。



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明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約①

2024年05月30日 19時52分10秒 | 仏教に関する様々なお話
『佛教大意』 要約  釋雲照著 明治二十二年九月 哲学書院発行 四六判一五八頁




まずこの著作の動機について記す。各宗の著書は皆専門用語多く判読しがたく、また仏教の一部一班に過ぎない。そこで通俗平易の言句にてその綱領大体を示す。目指すべきは小乗の三法印、大乗で言えば実相印となり、発心修行して、涅槃寂静に到るのを大意とする。そこで、第一真理、第二発心、第三修行、第四証果と章立てして、仏道としての仏教を概説する。

第一章 真理
 第一節 三法印
三法印とは仏教の標示であり、ここでは小乗の人が無上の真理とするものである。三法印とは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つであり、小乗に六宗二十部あれどもいずれも三法印を離れたものはない。

諸行無常について、行とは遷流の意であり、一切の現象が遷流転変して留まらないことを諸行無常という。森羅万象も、我が一念も、生住異滅の四相ありて須臾も留まらず。無常の真理疑うことなく、我が仏教は実にこの真理を認めて悟道の本源とする。

次に諸法無我について、法とは軌持の意であり、原因結果の軌則によって生滅する万物に、常一主宰たる我は存在しないことを諸法無我という。この無我を説かないものは真正の仏教にあらず。人も霊魂なるものあって過去から現在未来に逝くのではなく、過去世の業因と現世の業因により死後未来世を受けるのであって、その一生の心身も生滅を瞬時に相続していくが、それも過去の業と因縁によって生じるのでありそこに我はなく、それを無我の真理という。

大智度論に説く、生死流転する一切の衆生は、ただ因果あるのみであり、三界六道に流転するのも因果なければ存在せず。別に実体があって相続するのではなく、因果の連鎖あるのみであり、業と因縁により五蘊が仮に和合して、みな異なる生を受け迷悟あり、貴賤尊卑あり、好醜男女あり、苦楽あるのである。

最後に涅槃寂静とは、涅槃は梵語で滅度の意であり、三界六道の流転を離れて生死の苦界を離れて寂静安楽になることを意味する。寂静なる涅槃に二種あり、証果を得た後に生存し心身あるが故に過去の業力によって感受する身体を余しているのを有餘依涅槃といい、寿命終えてすべての三界の果報を解脱したので無有餘依涅槃という。これは声聞縁覚菩薩の極果であり、一切凡夫外道の知ることの出来ない境界である。
 
 第二節 実相印 
大乗においては、諸法は実相なりと説くのが究極の玄理である。その大略を第一実相の義理、第二有空平等大小乗不二の理、第三実相の解瑜、をもって述べる。

第一、実相の義理 小乗の真理である三法印は因縁因果の理であり、それはもとより自性なきものなので空とも言い替えることができる。されど、そこには色もなく香もなく生滅去来を離れて一切の作用なきものであるのでこれを但空という。大乗においては、諸法は空と雖も諸法の真相実体を尽くせるものではなく、空も有も二者平等にして二相あらず、これを実相という。

第二、有空平等大小乗不二の理 大乗小乗の不同、三法印実相印の区別は知見の浅深を表すのみであり、大小二乗に二趣あるわけでは無く、小乗に説く但空は諸法の実相を尽くすものではないが、中道絶対の妙体である虚空においては大小一体同一実相と知るべきである。

第三、実相の解瑜 諸法実相の妙理は仏教の至極の説であり、言葉で説き尽くすことはできないが、読者が進んで研究せられることを希望する。宇宙一切の現象は自心の実相であり、諸法の実相は、取著すべきものがないので空といい 縁に応じて顕現するので仮といい、諸法はこの空と仮の二相を具するので中というが、この三諦を示して読者の考察の便とする。

第二章 発心 
第一章にて真理を探究した。この真理を体し、その真理の境界に自ら到ることを欲して、且つ一切衆生にも同様に仏果を得させようとすることを発心という。ないし発菩提心という。菩提とは一実相の真理を悟り得た智慧をいう。

 第一節 世間心 
地獄道の発心から天道の発心九種の発心を説く。これらの発心は我執名利の心を離れておらず、たとえ仏道に入り修行しても、我見すら断ずることができない。されど、全く発心無きことに比すれば勝れたところあると言えようが、仏者はこれらの発心を捨て、真正なる発心を選ぶべきである。

 第二節 出世間心
第一、二乗の発菩提心 二乗とは声聞乗と縁覚乗であり、声聞の発菩提心とは、四諦の真理を観じて発心修行することである。縁覚の発菩提心とは、生滅無常の理、ことに十二因縁を観じて生死の解脱、煩悩の断滅する所以を覚り、発心修行することである。されど、この二乗の人は、三法印を証得せんがために発心する者であり、みだりに生死を厭い、涅槃を悦ぶが為に自らの解脱安楽を求めるのみで一切衆生を利益することなく、究竟無上の発心とは言えない。

第二、菩薩の発菩提心 菩薩に小乗菩薩と大乗菩薩があり、小乗菩薩の発心は、四諦の真理を証して足れりとせずに慈悲憐愍の心から、四諦を縁とする四弘誓願(衆生無辺誓願度・煩悩無辺誓願断・法門無辺誓願学・無上菩提誓願成)を起こし一切衆生に四諦の真理に安住させんとするが自らの涅槃を期として入滅のあとは教化することが無い。これに比して、大乗菩薩の発心は、諸法実相の真理を観じて自心と仏と衆生と三無差別なることを観じ、上に菩提を求め下は衆生を教化せんと、大悲心から未来永劫四弘誓願止むことがない。
  
 第三節 大悲心
大悲心に三種あり、一に衆生縁の慈悲、二に法縁の慈悲、三に無縁の慈悲。

第一、衆生縁の慈悲 我ら人類相助け相支え合う関係にあり広くあらゆる所作が世界に影響する。さらに三世因果にて再生することを信ずれば一切の男女過去世における我が父母なり。この故に深く恩愛の心を起こし慈悲憐愍により四弘誓願を起こすのを衆生縁の慈悲という。

第二、法縁の慈悲 我が身は、地水火風の四大、色受想行識の五蘊、六十有余の元素により組成されたるのであるから、天地万物、、一切衆生と同一体である。このように思惟して同体との観点から大悲心を起こすのを法縁の慈悲という。

第三、無縁の慈悲 心、仏、衆生の体性相用は本来平等無差別であり、自心の外に衆生なく、衆生の外に諸仏なしと自他平等の真理に達したならば、自他の差別が無くなり、大悲の心が自然と起こる。これを無縁の慈悲という。

衆生縁と法縁の慈悲は大小乗に通じて発起するが、無縁の慈悲は真如実相の理を体観する大乗の菩薩のみ発起する。

 第四節 三界皆苦の論
最勝の発心を起こすべきであると述べても、その道理は極めて深妙であるので、さらに三界六道の相はみな苦である所以を示して、真実に起こすべき発心が世間の発心ではなく菩薩の発心であることを明示する。我が仏教において、世界の苦相を大別して、苦と不浄と無常と無我の四相とする。

第一、苦 苦に三苦と八苦とがある。まず三苦とは、苦苦と壊苦と行苦なり。苦苦とは、三界の衆生に皆無常の苦あり、寒暑、飢渇、貧病の苦にして、苦中の苦であるから苦苦という。壊苦とは、快楽が尽きたときに感じる苦悩を壊苦という。行苦とは、この身体も世界のものも常住ではなく、すべて移り変わって安心できる時のない無常により起こる苦のことであり、これを行苦という。

八苦とは、生老病死と愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五盛陰苦の八つなり。生苦とは、母胎に託生してから出生する間の苦。老苦とは、生有るもの必ず老す、心身弱り、耳目昏昧、下肢自在ならず、これらの苦なり。病苦とは、生ある以上かならず多少長短の疾病を逃れざる苦。死苦とは、死とは決して快楽にならず、苦である。愛別離苦とは、親愛なる父兄、妻子、朋友と共に常に住することは叶わず、いずれ離別に到る苦をいう。怨憎会苦とは、好まざる者と事を共にし、怨憎する者と共に住ぜざるを得ない苦をいう。求不得苦とは、求めて得られない苦しみのことで、誰にでもあり、この苦を逃れられる者はいない。五盛陰苦とは、心身に常に纏われる苦痛のことで、身の危険、地位や生活上の不安など常に安心できない苦をいう。人はかくして常に苦痛を知覚しつつある存在であると言えよう。

第二、不浄 不浄に生処、種子、相、性、究竟の五種あり。生処不浄とは、人の出生する母胎産道の不浄のこと。種子不浄とは、結生せる父母の精気のこと。相不浄とは、人の身体に合成する髪爪歯皮膚血内臓など三十六の不浄物のこと。性不浄とは、不浄なるところ、不浄なる種子、不浄の相を具える者にしてもとよりその性不浄なること。究竟不浄とは、現世の業報尽き、死して埋葬されるや皮肉腐乱し、悪臭出て骨朽ちることをいう。以上我が身体は不浄不潔なり。

第三、無常 第四、無我 前章に述べた様に、この世において快楽を求め、利益安楽を求めても、無常無我なるが故に、ついには苦痛を受ける。我が身体は四方に苦痛の逼迫を受けつつある存在にすぎない。故に、三界皆苦なることを悟り、自心に菩提涅槃の常楽を求め、衆生の恩に報いるにその苦を抜くことを誓願して菩提心を起こす、これを上求菩提、下化衆生という。これは大乗菩薩の発菩提心であり、この二利の善行を成満すべきである。



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明治の傑僧・釋雲照律師の『十善戒略解総論』要旨

2024年05月27日 11時34分18秒 | 仏教に関する様々なお話
十善戒略解総論 要旨 明治十九年一月 釋雲照著述 長木栄治郎出版



十善戒法は、一切世間出世間の善法の本源であり、積善の家に餘慶ありと言われるように、吉凶殃慶一つとして因なくして果はない。いまこの身が壮健で長寿であるのは前世で不殺生戒を護った餘慶であり、衣食住俸禄あって安楽なのは不偸盗戒の餘慶であり、男女仲良く子孫あり家門繁栄するのは不邪淫戒の餘慶である。

教養や慣習が家に備わるのは不妄語戒の餘慶、穏やかに控えめな徳により周りに重んぜられるは不綺語戒の餘慶、家族仲良く老いて子孫に孝心あるのは不悪口戒の餘慶、家族親族近隣と仲睦まじきは不両舌戒の餘慶である。家に財あり山海の実りあり融通するは不貪欲戒の餘慶、身体健全で顔端正にして周りから侮られず慕われるのは不瞋恚戒の餘慶、神々の守護あり心に憂いなきは不邪見戒の餘慶である。

逆に、殺生する者は、寿命短く、恐怖多く、恨まれ仇多く、死後悪趣(地獄・餓鬼・畜生の世界)に逝く、人に生まれても短命多病となる。偸盗する者は、財産を失い、法により裁かれ、心に常に恐怖あり、死後悪趣に逝く、人に生まれても他に使役され貧しく衣食に困窮する。邪淫する者は、家に和みなく、法に裁かれ、自分を欺き人を畏れる、死後悪趣に逝く、人に生まれても意に随う伴侶は得られず、針の筵に置かれる。

妄語、綺語、悪口、両舌する者は、怨み憎まれること多く、自分を欺き信用なく、しばしば禍に遭い、死後悪趣に生まれる、人に生まれても言葉不自由となる。このように一度なされた善悪の行いは、その業消えることなく、その報い必ずあることを知り、一切の苦楽はみな自分の心から生じるものであるので、善人君子の楽しむべきなのはこの応報の原理なのである。

このような善き戒が身にあるときは、自ずから悪事が遠ざかることは、人に元気が充満しているときには病いに侵されないようなものである。不殺生戒が身にあるときは、たとえ怨みもち生き物を殺害する悪賊や毒虫に遇っても、慈悲心をもってこれに対峙するので自然に遠ざかっていく。不偸盗戒が身にあるときは、金銀財宝を前にしても不要な欲を起こすことなく、放火や盗賊、暴漢が自然に遠ざかっていく。不邪淫戒が身にあるときは、余所の男女に愛着を生ずることなく、隙をうかがったり示しあわせるなどの毒害は寄りつかない。

不妄語戒が身にあるときは、欺いたり心乱れ偽証したり贋の書類を作ったりという悪心は寄りつかない。不綺語戒が身にあるときは、言葉飾ることなく、軽口を言ったり、戯れを言うような迷い患いが寄りつかない。不悪口戒が身にあるときは、言葉柔らかに、罵詈雑言を吐くような悪心が寄りつかない。不両舌戒が身にあるときは、言葉に誠実さが表れ、他者と仲違いをしたり関係を悪くしたり他者を悪く言ったりお世辞を言ったりという悪心が遠ざかる。

不貪欲戒が身にあるときは、足ることを知るがために、欲張り貪り他の盛んなるを羨んだり名利を求めるような悪心が寄りつかない。不瞋恚戒が身にあるときは、身が慈悲そのものとなるので、眉をひそめたり眉間に皺を作ることもなく、憂い悩み嫉妬を起こす悪心が遠ざかる。不邪見戒が身にあるときは、人を見ても自然を見ても因果応報の姿を知るので、邪なものに心惑うことなく、聖なる者を軽蔑し賢者をそしり神を侮り仏菩薩を誹謗するような悪心は決して起こらない。

ときに、この世で戒に則った生活は難しいことであって、通常の人のなせることではないと言う人がある。これに答えるに、例えば殺生をしようとするには、自分の手足を使って、道具を揃え相手の隙をうかがい策を施さねばならず、難義を窮めることであり、不殺生戒を護ることの方がよっぽどなしやすいことであり、実は十悪こそなしがたいものなのである。

また、現世の苦楽は既に前世の善悪業によって決まっているのに、この世で善をなしても利益無しと言う者があるとか。これに答えるに、前世の善悪業に二種、決定業と不定業とがある。善悪の業に強弱重軽があり、その強く重い業はその報いを受ける時には、苦楽の軽重長短が厳然と決定されているとされる。これに対し、不定業はそれが未だ定まらない業のことで、この世で善を行うときには善き縁を催して前世の善業により善き結果をもたらす。また悪をなせるときには、悪縁が増上して前世の悪業が悪い結果をもたらす。これは前世までに蓄えた善悪業が弱く現世の善悪の助縁に引かれてもたらされるものなので、悪をなさず善を行う事によって、悪縁を避け善縁を常に生じ善業が報い結果するように生きるべきなのである。

また、仏法は世間の実情に合わず奇怪で役に立たない荒唐無稽のものだと言う人あり。これに答えるに、きれいな鏡がその姿をそのままに映し出すように、この善悪業をもたらす善悪の行為も一度なすならば、その行いと心のなした軽重によって、必ずこの世でか、来世ないし未来世にてその報いを受けるものであって、僅かでも道徳心ある者は、この因果応報の理を常に忘れることなく、重んじるべきである。誰もが、眼前の小利に惑うことなく、十善戒を守護して善なる大利益に浴すべきである。

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