goo blog サービス終了のお知らせ 

おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

炎上

2019-02-09 11:27:33 | 映画
「炎上」 1958年 日本


監督 市川崑
出演 市川雷蔵 仲代達矢 中村鴈治郎
   浦路洋子 中村玉緒 新珠三千代
   舟木洋一 信欣三 香川良介 北林谷栄

ストーリー
溝口吾市(市川雷蔵)は、父(浜村純)の遺書を携えて京都の驟閣寺を訪れた。昭和十九年の春のことである。
彼は父から口癖のように、この世で最も美しいものは驟閣であると教えこまれ、驟閣に信仰に近いまでの憧憬の念を抱いていた。
父の親友でこの寺の住職・田山道詮老師(中村鴈治郎)の好意で徒弟として住むことになった。
昭和二十二年、戦争の悪夢から覚めた驟閣には、進駐軍の将兵を始め観光客が押しよせ、静かな信仰の場から、単なる観光地になり下ってしまった。
二十五年、溝口は古谷大学に通うようになり、そこで内翻足を誇示して超然としている戸苅(仲代達矢)を知る。
彼は、驟閣の美を批判し老師の私生活を暴露した。
溝口の母あき(北林谷栄)は、生活苦から驟閣寺に住みこむことになったが、溝口は父が療養中に母が姦通したことがあることで反対した。
この汚れた母を、美しい驟閣に近づけることは彼には到底出来なかったのである。
口論の挙句、街にさまよい出た溝口は、芸妓を伴った老師に出会った。
戸苅の言ったことは、真実であった。
彼は小刀とカルモチンを買い、戸苅から金を借りて旅に出た。
故郷成生岬の断崖に立ち荒波を見つめる溝口の瞼には、妻に裏切られ淋しく死んでいった父のダビの青白い炎が浮んだ--。
挙動不審のため警察に保護され、連れ戻された溝口を迎えた、母と老師の態度は冷かった。
彼は、自分に残されているのは、ただ一つのことをすることだけだと思った。

寸評
僕は学生時代に「あなたの代表作は何だと思っていますか?」というアンケートを市川崑監督に送ったことがあり、その時の市川監督のご返事は「炎上」であった。
主人公の内面がよく出ていたというようなことが理由だったと思うが詳細は記憶していない。

三島由紀夫の小説『金閣寺』が原作だが、金閣寺の反対があり題名の変更が条件の一つとなり、金閣寺での撮影も許可されなかった。
しかし金閣寺の舎利殿を模したセットはモノクロ画面により本物以上の趣を出している。
このセットは大覚寺の池のほとりに原寸大で建てられたらしい。
驟閣が燃え上がるシーンはこれまたモノクロ映画の極致のような美しさである。
嵐山の中州に建てた2分の1のミニチュアを燃やしたそうだが、火の粉が舞い上がるシーンの何と美しいことか。
この頃の日本映画に対するスタッフたちの職人としての執念を見る思いがする。

大筋は三島の原作に寄っているようだが、三島の持つ「美とはないか」という観念的なことよりも、この作品では肉親との離反、青年の生き方、悩みなどに主眼が置かれているような気がする。
青年は母の不義が許せず、それを黙認した父が話した驟閣に異常な執着を見せる。
溝口吾一はその美しさの根源は不変の美だというが、友人となった戸苅は不変のものなどなく、人間も世の中も変わっていくと反論する。
戸苅の論調はあたかも戦後日本の変革を指しているようでもある。
主人公は吃音であり、戸苅は足が悪い。
それを現在では放送禁止用語となった言葉でののしり合う。
今では見ることが出来ないひどい会話がなされていて、僕はその事にも驚きを隠せない。

寺を舞台にしているが宗教くささはなくて、副司の信欣三などは俗物的に描かれている。
溝口は老師にも見放されるが、その老師も女を囲っている俗物である。
しかしまんざらの俗物人間でもなさそうで、しきりと溝口をかばい援助をしているのである。
老師は驟閣の方にうずくまってひざまずき、何かを懺悔しているような姿を見せ、自分は寺を預かるような人間ではないようなことも言っている。
そして燃え上がる驟閣を目にした老師は「仏の裁きじゃ」とつぶやくのである。
僕は主人公以上に、この老師に非常に興味が湧いた。

溝口は友人の鶴川と寺の階上から生け花をする女性を見て美しい人だと感想を漏らすが、溝口にこの女性の与えた影響は一体なんであったのだろう。
彼女への思いが五番町遊郭での中村玉緒とのやり取りにつながったのだろうか。
溝口は結局死んでしまうが、死で終わった方が良かったのか、生きて苦悩する終わりが良かったのか・・・。
あの結末によって、誰にも苦悩を理解してもらえなかった主人公の苦しみをにじみ出したのだろうか。
いつもながら、特にモノクロ映画における宮川一夫のカメラは素晴らしいと感じさせる一作である。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿