「ジョニーは戦場へ行った」 1971年 アメリカ
監督 ダルトン・トランボ
出演 ティモシー・ボトムズ
キャシー・フィールズ
ジェイソン・ロバーズ
マーシャ・ハント
ドナルド・サザーランド
ダイアン・ヴァーシ
ストーリー
第1次大戦にアメリカが参戦し、コロラド州の青年ジョー・ボナムは、ヨーロッパの戦場へと出征していった。
ジョーはいま、<姓名不詳重傷兵第407号>として、前線の手術室に横たわっている。
延髄と性器だけが助かり、心臓は動いていた。
軍医長テイラリーは「もう死者と同じように何も感じない、意識もない男を生かしておくのは、彼から我々が学ぶためだ」と説明した。
軍医長の命令で<407号>は人目につかない場所に移されることになり、倉庫に運び込まれた。
<407号>は新しいベッドに移し変えられ看護婦も変わった。
その看護婦はジョーのために涙を流し、小瓶に赤いバラを1輪、いけてくれた。
やがて雪が降り、看護婦は<407号>の胸に指で文字を書き始めた。
<407号>が頭を枕にたたきつけているのを見た看護婦は軍医を呼んだ。
頭を枕にうちつける<407号>を見た将校は「SOSのモールス信号です」といった。
将校は<407号>の額にモールス信号を送った。
「君は何を望むのか…」「外にでたい。人々にぼくを見せてくれ、できないなら殺してくれ」に上官は愕然とした。
一同が去ったあと、1人残った看護婦は、殺してくれと訴えつづける<407号>の肺に空気を送り込む管を閉じたが、戻ってきた上官がこれを止め、看護婦を追いだしてしまった。
寸評
この映画が封切られた頃はベトナム戦争の真っ最中で、その為「ジョニーは戦場へ行った」は反戦映画として評判を呼んでいたのだが、僕は反戦映画というよりも”尊厳死”について語った作品との印象を持った。
ジョーは四肢を失い目も見えず言葉も発せない生ける屍だ。
最後の方で牧師は「彼を作ったのは神ではない。彼を作ったのは軍だ」と言い放って去っていく。
軍医は負傷兵の治療研究の為に彼を生かしている。
軍が負傷兵を治療するのは完治した彼らを再び戦場に送り出すためである。
言い換えれば殺すために生かしているとも言える。
そのような観点から「ジョニーは戦場へ行った」は反戦映画に属する作品と思われたのだろう。
しかし、モールス信号での会話を思いついたジョーは何を望むかと聞かれ、「外にでたい。人々にぼくを見せてくれ、できないなら殺してくれ」と発進し、殺されることを切望する。
優しい看護婦は彼の望みをかなえようとするが、上官はこれを阻止する。
僕はこの最後の一連の場面で、人が生きている事の意味を否応なく考えていた。
後年、僕の母親は肝硬変を患った末期に意識朦朧となり腹水が溜まり苦しんでいた。
腹水を抜いて楽にしてやってほしいと懇願する僕に、担当医は「そんなことをすれば命を縮めますよ」と告げた。
僕が助かる見込みはあるのかと聞くと、それは絶対にないとの返答だった。
だったら少しでも楽にしてやってほしいと伝えると、「私の本意ではないが、家族のたっての頼みなので少し抜いてみましょう」と処置してくださった。
その時の母は苦しい表情を少し和らげたような気がした。
僕はこの時、延命治療とは何なのかと思った。
生きている時間と引き換えに、苦しむ時間を与える治療とは患者にとって有難いものなのだろうか。
僕はこの時、「ジョニーは戦場へ行った」を思い描いていたような気がする。
映画はモノトーンとカラー映像の組み合わせで描かれていく。
モノトーンのシーンはジョーの今を描いている。
カラー映像で描かれる場面は、ジョーの思い出の出来事であったり、ジョーが想像している内容である。
その対比は分かりやすいし、特にモノトーンの映像はジョーが現在置かれている立場の悲惨さがより強烈に観客に迫ってくる効果をもたらしている。
ジョーに関わる看護師は何人か出てくる。
上司に忠実な看護師も居れば、締めきった窓を開け放つように命じる婦長もいる。
最後の担当者は心優しい看護師で、ジョーをいたわり、普通の病人に対するようにバラの花を生けてくれる。
彼の胸にクリスマスと指で書く場面は感動的だ。
ここからこの地味な映画は一気にクライマックスへと駆け上がる。
そのクライマックスは感動を与えるものではない。
言いようのない絶望を感じさせるラストシーンとなっているが、その絶望はジョーと我々に残されたものだ。
僕たちは絶望するしかないのかと思うと悲しすぎる。
監督 ダルトン・トランボ
出演 ティモシー・ボトムズ
キャシー・フィールズ
ジェイソン・ロバーズ
マーシャ・ハント
ドナルド・サザーランド
ダイアン・ヴァーシ
ストーリー
第1次大戦にアメリカが参戦し、コロラド州の青年ジョー・ボナムは、ヨーロッパの戦場へと出征していった。
ジョーはいま、<姓名不詳重傷兵第407号>として、前線の手術室に横たわっている。
延髄と性器だけが助かり、心臓は動いていた。
軍医長テイラリーは「もう死者と同じように何も感じない、意識もない男を生かしておくのは、彼から我々が学ぶためだ」と説明した。
軍医長の命令で<407号>は人目につかない場所に移されることになり、倉庫に運び込まれた。
<407号>は新しいベッドに移し変えられ看護婦も変わった。
その看護婦はジョーのために涙を流し、小瓶に赤いバラを1輪、いけてくれた。
やがて雪が降り、看護婦は<407号>の胸に指で文字を書き始めた。
<407号>が頭を枕にたたきつけているのを見た看護婦は軍医を呼んだ。
頭を枕にうちつける<407号>を見た将校は「SOSのモールス信号です」といった。
将校は<407号>の額にモールス信号を送った。
「君は何を望むのか…」「外にでたい。人々にぼくを見せてくれ、できないなら殺してくれ」に上官は愕然とした。
一同が去ったあと、1人残った看護婦は、殺してくれと訴えつづける<407号>の肺に空気を送り込む管を閉じたが、戻ってきた上官がこれを止め、看護婦を追いだしてしまった。
寸評
この映画が封切られた頃はベトナム戦争の真っ最中で、その為「ジョニーは戦場へ行った」は反戦映画として評判を呼んでいたのだが、僕は反戦映画というよりも”尊厳死”について語った作品との印象を持った。
ジョーは四肢を失い目も見えず言葉も発せない生ける屍だ。
最後の方で牧師は「彼を作ったのは神ではない。彼を作ったのは軍だ」と言い放って去っていく。
軍医は負傷兵の治療研究の為に彼を生かしている。
軍が負傷兵を治療するのは完治した彼らを再び戦場に送り出すためである。
言い換えれば殺すために生かしているとも言える。
そのような観点から「ジョニーは戦場へ行った」は反戦映画に属する作品と思われたのだろう。
しかし、モールス信号での会話を思いついたジョーは何を望むかと聞かれ、「外にでたい。人々にぼくを見せてくれ、できないなら殺してくれ」と発進し、殺されることを切望する。
優しい看護婦は彼の望みをかなえようとするが、上官はこれを阻止する。
僕はこの最後の一連の場面で、人が生きている事の意味を否応なく考えていた。
後年、僕の母親は肝硬変を患った末期に意識朦朧となり腹水が溜まり苦しんでいた。
腹水を抜いて楽にしてやってほしいと懇願する僕に、担当医は「そんなことをすれば命を縮めますよ」と告げた。
僕が助かる見込みはあるのかと聞くと、それは絶対にないとの返答だった。
だったら少しでも楽にしてやってほしいと伝えると、「私の本意ではないが、家族のたっての頼みなので少し抜いてみましょう」と処置してくださった。
その時の母は苦しい表情を少し和らげたような気がした。
僕はこの時、延命治療とは何なのかと思った。
生きている時間と引き換えに、苦しむ時間を与える治療とは患者にとって有難いものなのだろうか。
僕はこの時、「ジョニーは戦場へ行った」を思い描いていたような気がする。
映画はモノトーンとカラー映像の組み合わせで描かれていく。
モノトーンのシーンはジョーの今を描いている。
カラー映像で描かれる場面は、ジョーの思い出の出来事であったり、ジョーが想像している内容である。
その対比は分かりやすいし、特にモノトーンの映像はジョーが現在置かれている立場の悲惨さがより強烈に観客に迫ってくる効果をもたらしている。
ジョーに関わる看護師は何人か出てくる。
上司に忠実な看護師も居れば、締めきった窓を開け放つように命じる婦長もいる。
最後の担当者は心優しい看護師で、ジョーをいたわり、普通の病人に対するようにバラの花を生けてくれる。
彼の胸にクリスマスと指で書く場面は感動的だ。
ここからこの地味な映画は一気にクライマックスへと駆け上がる。
そのクライマックスは感動を与えるものではない。
言いようのない絶望を感じさせるラストシーンとなっているが、その絶望はジョーと我々に残されたものだ。
僕たちは絶望するしかないのかと思うと悲しすぎる。
私もこの映画に対して、全く同様の印象を持ちました。
この映画は、"人間の生命の根源と尊厳"を問いかける、まさに魂を震わせる秀作だと思います。
この「ジョニーは戦場へ行った」という映画を観終えて、私は打ちのめされ、言葉も出ませんでした。
実に、無残な話なのです。酷い、痛ましい、切ない、つらい。
だが、それでいて、この溢れる、不思議な優しさと美しさはどうだろう。
健康で平凡で、つつましいアメリカ青年のジョー(ティモシー・ボトムズ)が、志願兵として第一次世界大戦の戦場へと赴き、直撃弾で顔面を吹き飛ばされ、両手両脚も失ってしまいます。
眼も鼻も口も耳もない、もはやイモ虫のような肉塊は、知覚も記憶も思考も持たぬ、一個の"個体"とみなされ、病院のベッドに横たえられ、やたらに管を突っ込まれ、白布に覆われて、軍医の研究材料用として生かしおかれるのです。
けれど、ジョーは、まさしく"生きて"いたのです。
まぎれもなく、"人間"として--------。
見えず聞こえず、しゃべれぬ暗黒の世界で。
彼の意識には、様々な想念が浮かび、駆け巡ります。
恋人と結ばれた一夜と別れ、敬愛した父(ジェーソン・ロバーズ)との思い出や、優しかった母の姿や、勤め先のパン工場のこと、また、ひどく俗っぽい"キリスト"と呼ばれる男(ドナルド・サザーランド)との出会いなど。
この回想と幻想の、鮮烈な色彩映像はどうだろう。
みずみずしさに優しさが広がり、清冽な美しさに悲しみが立ちのぼります。
そして、黒白に閉ざされた病室の現実の場面と、明暗を交錯させるのです。
途方もなく、気の狂いそうな"孤絶の世界"で、彼はのたうちます。
だが内心の声は、叫びは、誰にも届きません。
助けてくれ、どうにかしてくれ、外へ出たい。
そうだ、僕を見世物に、サラシ者にして、みんなに戦争の正体を見せろ!!
それがダメなら、いっそ殺してくれ!!
ついに、ようやく彼は、頭を上下に振ってモールス信号をたたき、その意思を表明するのだけれど、驚愕した軍部は、逆に彼を倉庫の一室に"生ける屍"として、生ある限り閉じ込めてしまうのです。
看護婦の一人が、彼を哀れみ愛しんで、その額にキスをし、その若い肉体に男の証を探ってやり、更にクリスマスの祝いの言葉を、その胸に指文字で書き伝える時、狂喜した彼が激しくうなずく場面では、抑えていた涙が溢れてきて止まりませんでした。
だが彼女もまた、彼を救うことは出来ないのです。
助けてくれ、殺してくれ。
空しく声なき声を叫び続けてジョーは、なおも"無限の闇"を生きながら死に、死にながら生きねばならないのです。
細胞の働く限り、肉塊の老い朽ちるまで--------。
なんという恐ろしさ、悲惨さだろう。
静かな怒りをこめた、これは見事な反戦映画ですが、同時に、あまりにも切ない青春映画であり、そして何より"人間の生命の根源と尊厳"を問いかける、まぎれもなき愛の映画であると心の底から思います。
この「ジョニーは戦場へ行った」という映画は、今、繁栄の怠惰に身をひたす我々、一人一人に突き刺すばかりの、ダルトン・トランボ監督の凄まじい執念を感じる、祈りの一作だと思います。
場内の暗転が終わり明るくなっても、何だか暗くて辛い気持ちになったことを思い出します。