「八甲田山」 1977年 日本
監督 森谷司郎
出演 高倉健 北大路欣也 三國連太郎 加山雄三
島田正吾 大滝秀治 丹波哲郎 藤岡琢也
前田吟 小林桂樹 神山繁 森田健作
緒形拳 栗原小巻 加賀まりこ 秋吉久美子
加藤嘉 花澤徳衛 菅井きん 田崎潤 浜村純
ストーリー
日露戦争開戦を目前にした明治34年末。
「冬の八甲田山を歩いてみたいと思わないか」と友田旅団長から声をかけられた二人の大尉、青森第5連隊の神田と弘前第31連隊の徳島は全身を硬直させた。
第四旅団指令部での会議で、露軍と戦うためには、雪、寒さについて寒地訓練が必要であると決り、冬の八甲田山がその場所に選ばれたのだが、二人の大尉は責任の重さに慄然とした。
雪中行軍は、双方が青森と弘前から出発、八甲田山ですれ違うという大筋で決った。
年が明けて1月20日。
徳島隊は、わずか27名の編成部隊で弘前を出発。
行軍計画は、徳島の意見が全面的に採用され隊員はみな雪になれている者が選ばれた。
出発の日、徳島は神田に手紙を書いた。
それは、我が隊が危険な状態な場合はぜひ援助を……というものであった。
一方、神田大尉も小数精鋭部隊の編成をもうし出たが、大隊長山田少佐に拒否され210名という大部隊で青森を出発。
神田の用意した案内人を山田がことわり、いつのまにか随行のはずの山田に隊の実権は移っていた。
神田の部隊は、低気圧に襲われ、磁石が用をなさなくなり、白い闇の中に方向を失い、次第に隊列は乱れ、狂死するものさえではじめた。
一方徳島の部隊は、女案内人を先頭に風のリズムに合わせ、八甲田山に向って快調に進んでいた。
体力があるうちに八甲田山へと先をいそいだ神田隊と、耐寒訓練をしつつ八甲田山へ向った徳島隊。
しかし八甲田山はそのどちらも拒否するかのように思われた・・・。
寸評
権力の二重構造による悲劇を描いているとはいえ、一言でいえば雪中行軍で兵隊が死んでいくだけの話である。
その単純な話を一大ドラマにしているのは芥川也寸志の音楽と木村大作のカメラだ。
撮影機材の整備が困難であったことを示すように、スクリーン上に映される人物の表情などは不鮮明で、場合によってはそれが誰なのか不明な時もある。
吹雪の中ではライティングもままならなかったであろうと思われるが、反面作り物でない本物のすごさを感じさせて、この映画の主人公は高倉健でも北大路欣也でもなく雪そのものだった。
スクリーン上で多くの時間を占めて描かれたのは、雪原あるいは吹雪の中を進む青森第5連隊と弘前第31連隊の姿である。
ただそれだけを捉えているだけなのに異様な緊張感を持続させたのは、まさしく自然の脅威である雪の存在だ。
連隊が縦列で進んでくる。
雪をかき分け進んでくるのだから、当然彼らの前は踏み荒らされていない雪原だ。
それを正面から捉えているのだから撮影班は足跡がつかないように回り込んで撮影したに違いない。
撮影の苦労をしのばせるシーンが随所にある。
そこでは会話もいらない、人のアップもいらない。
雪をかき分け進んでくる連隊の姿さえあればいいという状況で、それを角度を変え、遠景を取り込みながら表現していった木村大作に代表される撮影の功績は計り知れないものがある。
ましてや吹雪のシーンとなると、天候待ちもあっただろうにと思うと出演陣の苦労も想像するに難くない。
その前人未踏ともいえる撮影敢行がこの映画の持つ最大の力だ。
描かれている人物はストレート一本やりと言ったような単純図式だ。
特に青森第5連隊において指揮官の神田大尉を差し置いて上位下達の命令を出し部隊を窮地に陥れる、本来随行員であるはずの大隊長の山田少佐が一人悪役を背負っている。
大隊長の山田は道案内を独断で拒否するし、神田大尉の方針を全く無視する横暴ぶりを見せる。
上官に逆らえない神田大尉の苦悩は部下の言葉でもって示される。
相対するのが弘前第31連隊の徳島大尉で、彼は案内人の女性にも敬意を払う良い人と言う立場だ。
村に到着した時に、案内人を最後尾に下げようと進言する部下を制してかまわず先頭を歩かせ、彼の部隊は彼女の後をついていく。
彼女が去るとき、その功績に感謝し整列して号令一過の敬礼で送るシーンは感動的だ。
大隊長が案内人を拒否するのと対照的に描いて、徳島大尉をヒーローとしている。
神田隊の緒形拳演じる村山伍長は冬山を甘く見る大隊長との対比者として登場し、最後には軍律を無視して自らの意思で離脱し田代温泉にたどり着く。
上層部は、隊は全滅ではなかった、しかも一人は田代にたどり着いているとメンツを重んじる発言をする。
権力の二重構造による悲劇と共に、人命よりもメンツを重んじる上層部の権威主義が批判されてはいた。
ここで生き延びた徳島大尉たちは、後の奉天会戦で極寒に耐えながらも日本軍を勝利に導き戦死した旨のテロップが示されるが、それはこの寒中訓練が役立ったと言っているのか、ここで生き延びたのにかの地で死んでいったはかなさを示していたものなのか、僕には不明であった。
監督 森谷司郎
出演 高倉健 北大路欣也 三國連太郎 加山雄三
島田正吾 大滝秀治 丹波哲郎 藤岡琢也
前田吟 小林桂樹 神山繁 森田健作
緒形拳 栗原小巻 加賀まりこ 秋吉久美子
加藤嘉 花澤徳衛 菅井きん 田崎潤 浜村純
ストーリー
日露戦争開戦を目前にした明治34年末。
「冬の八甲田山を歩いてみたいと思わないか」と友田旅団長から声をかけられた二人の大尉、青森第5連隊の神田と弘前第31連隊の徳島は全身を硬直させた。
第四旅団指令部での会議で、露軍と戦うためには、雪、寒さについて寒地訓練が必要であると決り、冬の八甲田山がその場所に選ばれたのだが、二人の大尉は責任の重さに慄然とした。
雪中行軍は、双方が青森と弘前から出発、八甲田山ですれ違うという大筋で決った。
年が明けて1月20日。
徳島隊は、わずか27名の編成部隊で弘前を出発。
行軍計画は、徳島の意見が全面的に採用され隊員はみな雪になれている者が選ばれた。
出発の日、徳島は神田に手紙を書いた。
それは、我が隊が危険な状態な場合はぜひ援助を……というものであった。
一方、神田大尉も小数精鋭部隊の編成をもうし出たが、大隊長山田少佐に拒否され210名という大部隊で青森を出発。
神田の用意した案内人を山田がことわり、いつのまにか随行のはずの山田に隊の実権は移っていた。
神田の部隊は、低気圧に襲われ、磁石が用をなさなくなり、白い闇の中に方向を失い、次第に隊列は乱れ、狂死するものさえではじめた。
一方徳島の部隊は、女案内人を先頭に風のリズムに合わせ、八甲田山に向って快調に進んでいた。
体力があるうちに八甲田山へと先をいそいだ神田隊と、耐寒訓練をしつつ八甲田山へ向った徳島隊。
しかし八甲田山はそのどちらも拒否するかのように思われた・・・。
寸評
権力の二重構造による悲劇を描いているとはいえ、一言でいえば雪中行軍で兵隊が死んでいくだけの話である。
その単純な話を一大ドラマにしているのは芥川也寸志の音楽と木村大作のカメラだ。
撮影機材の整備が困難であったことを示すように、スクリーン上に映される人物の表情などは不鮮明で、場合によってはそれが誰なのか不明な時もある。
吹雪の中ではライティングもままならなかったであろうと思われるが、反面作り物でない本物のすごさを感じさせて、この映画の主人公は高倉健でも北大路欣也でもなく雪そのものだった。
スクリーン上で多くの時間を占めて描かれたのは、雪原あるいは吹雪の中を進む青森第5連隊と弘前第31連隊の姿である。
ただそれだけを捉えているだけなのに異様な緊張感を持続させたのは、まさしく自然の脅威である雪の存在だ。
連隊が縦列で進んでくる。
雪をかき分け進んでくるのだから、当然彼らの前は踏み荒らされていない雪原だ。
それを正面から捉えているのだから撮影班は足跡がつかないように回り込んで撮影したに違いない。
撮影の苦労をしのばせるシーンが随所にある。
そこでは会話もいらない、人のアップもいらない。
雪をかき分け進んでくる連隊の姿さえあればいいという状況で、それを角度を変え、遠景を取り込みながら表現していった木村大作に代表される撮影の功績は計り知れないものがある。
ましてや吹雪のシーンとなると、天候待ちもあっただろうにと思うと出演陣の苦労も想像するに難くない。
その前人未踏ともいえる撮影敢行がこの映画の持つ最大の力だ。
描かれている人物はストレート一本やりと言ったような単純図式だ。
特に青森第5連隊において指揮官の神田大尉を差し置いて上位下達の命令を出し部隊を窮地に陥れる、本来随行員であるはずの大隊長の山田少佐が一人悪役を背負っている。
大隊長の山田は道案内を独断で拒否するし、神田大尉の方針を全く無視する横暴ぶりを見せる。
上官に逆らえない神田大尉の苦悩は部下の言葉でもって示される。
相対するのが弘前第31連隊の徳島大尉で、彼は案内人の女性にも敬意を払う良い人と言う立場だ。
村に到着した時に、案内人を最後尾に下げようと進言する部下を制してかまわず先頭を歩かせ、彼の部隊は彼女の後をついていく。
彼女が去るとき、その功績に感謝し整列して号令一過の敬礼で送るシーンは感動的だ。
大隊長が案内人を拒否するのと対照的に描いて、徳島大尉をヒーローとしている。
神田隊の緒形拳演じる村山伍長は冬山を甘く見る大隊長との対比者として登場し、最後には軍律を無視して自らの意思で離脱し田代温泉にたどり着く。
上層部は、隊は全滅ではなかった、しかも一人は田代にたどり着いているとメンツを重んじる発言をする。
権力の二重構造による悲劇と共に、人命よりもメンツを重んじる上層部の権威主義が批判されてはいた。
ここで生き延びた徳島大尉たちは、後の奉天会戦で極寒に耐えながらも日本軍を勝利に導き戦死した旨のテロップが示されるが、それはこの寒中訓練が役立ったと言っているのか、ここで生き延びたのにかの地で死んでいったはかなさを示していたものなのか、僕には不明であった。
この映画「八甲田山」は、「砂の器」に次ぐ第二作として、橋本プロダクションが東宝映画と製作提携した作品で、脚本は橋本忍、監督は「動乱」「海峡」の森谷司郎、原作は新田次郎の「八甲田山 死の彷徨」。
昭和49年2月にクランクインしてから、3年余の歳月と7億円の製作費と30万フィートを超すフィルムを費やして完成された、当時の日本映画界にあっては未曾有の超大作です。
この映画のテーマについて、森谷司郎監督は、「厳しい自然と人間の葛藤を通して、人と人との出会い、その生と死の運命を描かなければならない。自然の思いがけない不意打ちと、それに対応しようとする人間の闘い、その強さと、胸にしみるような悲しさを八甲田山中の、人間を圧倒するような量感で迫ってくる雪の中で、アクティブに描きたい。それには映画のもつ表現力が、もっとも強く迫ることができるにちがいない」と語っています。
原作と映画を比較する事は、もともと芸術の分野が違っているので適当ではないかも知れませんが、雪におけるこの原作と映画の表現に差がある事を、原作者の新田次郎は認めています。
彼は、雪に対する"筆の甘さ"に対して、「この映画は、雪を完全にとらえることができたから、雪を背景として起こった人間ドラマを完全に映像化することに成功したのであろう」と率直に語っています。
地吹雪、雪崩、その雪の中の絶望的な彷徨を、厳しく、しかも美しく描き出した映像には、この映画に参加した人達の肉体の限界に迫る苦労が、そのままにじみ出ており、芥川也寸志の音楽をバックに映画のもつ圧倒的な表現力が生かされているように思います。
日露戦争直前の明治35年1月21日、弘前を出発した第31連隊の徳島大尉(高倉健、実名は福島泰蔵大尉)の率いる部隊は37名、その大半が士官であり、十和田湖を迂回して八甲田山に入る10泊11日間、240kmの行程は無謀に見えましたが、綿密で周到な準備と道案内によって万全が期せられていました。
一方、1月23日に青森を出発した第5連隊の神田大尉(北大路欣也、実名は神成文吉大尉)の率いる部隊は211名、2泊3日、50kmの行程は一見容易に見えましたが、混成の部隊であり、第二隊長山田少佐(三國連太郎、実名は山口勲少佐)らの大隊本部が同行しており、指揮命令系統に混乱があると共に、大部隊のため食糧、燃料の運搬のためのソリ隊が足手まといとなっていたし、案内人も雇っていませんでした。
この部隊は初日に目的地の田代まで、後2kmのところで道を見失っていて、零下22度、風速30m、体感温度零下50度という猛吹雪の中で、死の彷徨が続くのです。
1月27日に徳島隊が八甲田山に入った時には、神田隊は壊滅状態になっていましたが、徳島隊は全員無事に踏破に成功したのです。
神田隊の生存者は山田少佐以下12名、凍死199名。
映画はこの両隊の劇的な成否を交互に対比させながら描いていますが、もっと我々観る者にわかりやすくするために、随時、現在地を示す地図を入れるとか、隊名やそのルートを入れるというような工夫が必要だったのではないかと思います。
この映画を観終えて、指揮権の所在と責任の明確化、指揮官の資質と判断力の重要性、周到な調査と準備の必要性、そして、環境の急変に対する臨機応変な適切な対応、特に大自然に対する畏敬の念と慎重な行動の重要性と言う事をつくづく考えさせられました。
尚、八甲田山の踏破に成功した徳島(福島)大尉は、却って、その後、冷遇されたうえ、日露戦争では雪中行軍の生き残りと共に、酷寒の黒溝台の激戦で戦死しています。
この事から、八甲田山で起こった事実を隠蔽しようとする陸軍の陰謀の匂いを感じてしまいます。
また、事実として、その後、自決した山田(山口)少佐の実像は、映画のような悪役的な人ではなかったと言われています。
問題は、危機に耐える事が出来なかった神田(神成)大尉の弱さにあったように思われます。
最も困難な時点で、徳島(福島)大尉は、「吾人もし天に抗する気力なくんば、天は必ず吾人を亡ぼさん。諸子、それ天に勝てよ」と兵に告げているのに、神田(神成)大尉は、「天はわれ等を見放した。俺も死ぬから、全員枕を並べて死のう」と絶叫しているという事からも推察できるのです。