おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

王将

2018-09-10 08:13:37 | 映画
将棋の記事を見たので、将棋を題材にした作品を再見。

ご存知坂田三吉をご存知阪妻こと坂東妻三郎が熱演。

「王将」 1948年 日本


監督 伊藤大輔
出演 阪東妻三郎  水戸光子  三條美紀
   奈加テルコ  小杉勇  斎藤達雄
   大友柳太郎  滝沢修  三島雅夫
   香川良介  葛木香一  寺島貢

ストーリー
時は明治も終わりごろ、大阪は天王寺付近、がけ下の長屋住まいで麻裏草履をこしらえてその日暮らしのしがない稼業、これが坂田三吉という男で、将棋が三度の飯より好き。
好きこそものの上手なれで、玄人はだしの腕前、手合わせする者は素人も有段者も相手構わぬナデ切り、負けたためしがないという。
やれ春季大会のそれ、何々主催の将棋会のとあちらこちらに手を出した挙句、家業はおろそかになり収入は減る一方である。
女房の小春は青息吐息、何度亭主に意見したか知れぬが三吉はあらためるどころの沙汰ではない。
関根七段との千日手の一局で、その執念は恐ろしいばかり。
小春は娘の玉江を連れて家出した事も一度や二度ではないが、その度に自分のいなくなった後、子供の様に愚かな三吉がどんなになるだろうと心配してはもどって来るこころ優しい小春であった。
しかし今日も今日とて朝日新聞主催の将棋大会に、会費の二円を工面するに事欠いて、玉江の一張羅の晴衣を質に置いて出掛けた始末の三吉。
小春はそれを知り今はこれまでと、娘をつれて自殺を計る可く鉄道線路の方に出ていった。
勝負半ば注進に驚いた三吉が駒を放り出して飛んで帰り、長屋の皆とやっとの事で小春母子の生命をとりとめ、以後はすっぽり将棋をやめると誓うが、反って小春はその必死の気組みに心変わり、いっそやるなら日本一の将棋差しになれと励ました折も折、関根八段が来阪し三吉と平合わせた・・・・。

寸評
大阪人にとって将棋名人は坂田三吉をおいて他にない。
戯曲やこの作品のヒットに加え、東京への反骨精神も重なり支持を得たのだろう。
新世界には坂田三吉を讃えた顕彰碑もある。
故村田英雄が歌った「王将」という歌謡曲の大ヒットも寄与しているのかもしれない。
西條八十の作詞になるが「吹けば飛ぶよな将棋の駒に 賭けた命を笑わば笑え」と唄いだされるように、三吉が将棋に熱中する姿と、それがために貧乏暮らしに難儀する女房の小春の姿が描かれる。
将棋大会に目がなく、参加費を工面するために家財道具や、はては子供の晴れ着まで売り飛ばしてしまう三吉を
阪妻こと阪東妻三郎がいききと演じている。

宿敵関根金次郎との対局で二五銀という手を指し、その一手で三吉は勝利を得る。
しかし、その銀は進退きわまって出た一手で、出るに出られず引くに引かれず斬死の覚悟で捨て身に出た破れかぶれのハッタリの一手だったのだ。
それを娘の玉江にとがめられるシーンが一番盛り上がるところでもあるが、僕はちょっとした疑問を感じた。
はたして玉江はそれを見抜くほどの将棋に対する腕をどこで磨いていたのかということだ。
父の世話をしているうちに自然と身に着けたというのでは、勝った勝ったと騒いでる周囲の者たちの実力はよほど低いものということになる。
しかし、この時の指摘する三條美紀と指摘された坂東妻三郎の表情は魅せるものがある。
作品中では描かれていないが、「銀が泣いている」という名セリフを生んだ場面で、そうだとすれば三吉は何としてでも勝ちたいという自らの強情さを恥じていたことになる。
「ワシの銀が泣いとる」というセリフはないが、玉江のいう通りなのだと言うことで、勝ったはいいけれどという三吉の心情は描かれている。

周囲の意地で名人位の称号を東京の関根と大阪の坂田で争っていたが、坂田三吉はその称号を自分はその称号にふさわしくないと辞退する。
そして東京で開かれた関根の名人位就任披露パーティにお祝いを言うべく駆けつける。
別室で関根と対面した三吉は祝辞を伝えると共に、関根を仇と思ってきたことを詫び、祝いの品として生計のために行っていた手作りの草履を渡す。
小春が危篤だという知らせも入ってくるもう一つの感動場面だが、ここにきて下賤の者に宿る高貴な精神というテーマが浮かび上がり、伊藤大輔が描きたかったのは破天荒な坂田三吉の生きざまでも、三吉・小春の夫婦物語でもなく、まさにその事だったのではないかと思う。

坂田三吉は非常にお辞儀の長い人であったという証言が残っているようだが、作品中でもそんな坂田を面白おかしく描いている場面が登場する。
僕は坂田三吉に東京に挑み続けた反骨精神旺盛な不遇の棋士というイメージを持っていたのだが、死後の1955年(昭和30年)に日本将棋連盟から名人位と王将位を追贈されているし、この作品を見る限りにおいては反骨一辺倒ではなさそうだし、不遇のままでもなかったようで認識を新たにした。