末つ森でひとやすみ

映画や音楽、読書メモを中心とした備忘録です。のんびり、マイペースに書いていこうと思います。

沈黙 -サイレンス-

2017-06-19 08:00:39 | 映画のはなし
遠藤周作による小説「沈黙」を、
マーティン・スコセッシ監督が映画化した「沈黙 -サイレンス-」が、
ユジク阿佐ヶ谷 にて6/3(土)~16(金)まで上映されていたので、再見してきました。

スコセッシ版「沈黙」の初回鑑賞は、今年の2月。
外国人の監督とスタッフが手がけ、ロケ地も資金面等から日本国内では折り合いがつかずに
台湾で撮影したそうですが、かつらや衣装、小道具や大道具などの類いに違和感はなく、
また、トモギ村のじいさまやモキチ、井上筑後守、通辞といった、
主要人物を演じる日本人キャストの演技にも見応えがあって、
学生の時に読んだきりだった原作を再読した上で、是非また見たいと思いつつ、
仕事でばたばたしているうちに、二度目の鑑賞までに、かなりの時間を要してしまいました。

あらためて見て、原作通りの場面はもちろんのこと、省略の仕方やアレンジもうまく 、
できる限り原作に寄り添いながら、細部まで丁寧に作られていると感じました。
映画を見ると原作を読み返したくなり、原作を読むとまた映画を見たくなる、
しあわせな映画化作品だと思います。

原作の初読は、大学がカトリック系だったため、4年間必修だった宗教学の課題としてでした。
主人公が司祭の立場にありながら、神の存在に疑念を抱き苦悩する件りでは、
キリスト教の本場からミッションを背負ってやって来た聖職者でも、こんな風に考えるのか?
と、かなり衝撃を受け、驚いたものです。

私自身は、これまで特定の宗教を信仰したことは無く、生まれてからずっと日本で暮らしているため、
キリスト教文化圏ならではの物の考え方を知りたくても、推し測る以外に術は無いのですが、
そのせいか、未だこの点について、確たるものを得られないまま本作に臨んでいる感も正直あります。

しかし、「沈黙」は原作・映画ともに、
作品に接した人に対し、"どのように生きるか" を突きつけてくる力があり、
何度読んでも、何度見ても、確実に作中に引き込まれてしまうというのも、
また、私にとって揺るぎない事実です。

一方で、ストーリーの鍵を握るキチジローに対する印象は、だいぶ変わりました。
初読後の記憶では、司祭を窮地に陥れた、卑しい人物という側面ばかりが残っていましたが、
映画の鑑賞と、それにあわせての原作再読とでは、むしろ、憐れみを感じさせる存在でした。

レビューを書く際、さして関連の無い他作品を引き合いに出すやり方は、あまり好きではないのですが、
今回、キチジローの場面で何度も思い浮かんだのが、トールキン作「指輪物語」の "ゴラム" でした。
より連想されたのは、小説版のゴクリよりも、PJ版LotRのゴラムの方です。

また、「指輪物語」でフロドとガンダルフの間で交わされるやり取り、
かつて、ビルボがゴクリ(ゴラム)に示した "Pity" の話が登場するあたりの、一連の会話の中にある台詞、

 "I wish it need not have happened in my time, " said Frodo. 
 "So do I, " said Gandalf, "and so do all who live to see such times. But that is not for them to decide.
  All we have to decide is what to do with the time that is given us."


も、かなりの頻度で頭を過りました。

最後に、原作を再読した際に、妙に印象に残った箇所を書き記しておきます。

 "罪は、普通考えられるように、盗んだり、嘘言をついたりすることではなかった。
  罪とは人がもう一人の人間の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れることだった。"


これは、キチジローに嵌められ捕らえられた司祭が、押し込められた小屋の中で、
以後の処置を待つ間に、周囲の番人たちの様子を感じとり、胸に去来した思いです。
「沈黙」にはドラマチックなシーンが沢山ありますが、それほどではない場面にも、
こうした文章がさらりと挿し込まれていて、それらが、本作を一層深いものにしていると思いました。

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   映画 『沈黙 -サイレンス-』

  ◇原題:Silence
  ◇関連サイト:公式サイト ( 日本版 )、IMDb ( 関連ページ
  ◇鑑賞日:2017.2.14.&6.10. 映画館にて

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