私は目下、映画沼にハマっている。きのうのブログで、私はそう書いた。以前はそんなことはなかった。現役時代の私は、映画にもテレビドラマにも、さほど関心を持たなかった。
私の嗜好はいつ変わったのだろうか。
省みると、それは私が脳出血に倒れ、後遺症のために手足の自由が利かなくなった時が境だと思う。何がそうさせたのか。
手足が自由だった(病前の)私は、部屋を出て、閑散とした街の通りや、公園という人工の自然の中をよくほっつき歩いた。鬱々した気分を晴らすためである。
パスカルはこう書いている。
「慰めを持たない王は、不幸に満ちた人間になる。だから人は注意してそれ(自分に向き合うこと)を避ける。そして王の身辺には必ずたくさんの人々がいて、仕事のあとには娯楽が続くように気を配り、ヒマがあれば楽しみや遊びを設(しつら)えて、空白の時間ができないようにとり計らう。王は、いかに王であろうとも、自分に向き合えば惨めになるからである。
(中略)幸福になるためには、自分を知らないほうが人間にとってより一層よいのではないだろうか?」
(『パンセ』142−144)
まさに私は不幸になることを避けようとして、自分に向き合うことを避けるため、部屋を出て、街や公園の中をひたすらほっつき歩いたのだった。
だが、どれだけ街をほっつき歩いても、公園の中をどれだけほっつき歩いても、私は自分からーー鬱々した自分からーー解放されることがなかった。どこを歩いていても、鬱々した自分は、重苦しい影のように私にまつわり付いてくるのだった。
ところがである。映画を見ているときだけは違うのだ。
そのことに気づいたのは、私が脳出血に倒れ、手足の自由を奪われてからだった。
「男はつらいよ」シリーズを見ているとき、私は鬱々した自分を忘れ、寅さんと一緒に全国を旅したり、恋をしたり、女に振られたり、オイチャン、オバサンと喧嘩をしたりすることができる。「釣りバカ日誌」を見れば、底抜けに明るいハマちゃんと一緒に、大海原で釣りを楽しむことができるのである。
夜、ベッドにもぐり込み、スマホでアマゾンの動画サイトを開く時間は、私が自分を忘れ、気晴らしができる唯一の安らげる時間であり、慰めの時間なのである。