ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

老いと若きの刹那主義

2020-09-03 10:28:20 | 日記
〈今〉にこだわって生きる。〈今〉を味わいながら生きる。この考え方を「刹那主義」と呼ぶとすると、この「刹那主義」に良い印象を抱く人は、あまり多くないだろう。若者にとっては、「刹那主義」は快楽主義と同義であり、ともすれば自堕落な生活のすすめと変わらないものになる。

刹那主義に走る若者に対しては、よくこんなお説教が聞かれる。〈今〉に現を抜かすのも良いが、将来のことも考えて行動しないと、大変なことになるよ。そうなっても知らないぜ。

解りやすい例として差し出されるのが、イソップの寓話「アリとキリギリス」である。

「夏の間、アリたちは冬に備えて食料を蓄えるため、一生懸命働いていました。一方キリギリスは、暑い中、熱心に働くアリをバカにして、バイオリンを弾き、歌いながら、怠けて過ごしていました。やがて冬になると、キリギリスは食料がなくなってしまったので、アリの元へ食料を分けてくれるよう訪ねました。アリは『夏は歌っていたんだから、冬は踊ったらいいじゃないか』と、それを拒否します。結局、キリギリスは飢えて死んでしまいました。」

今、酒だドラッグだ、女だ男だと遊び呆けているお前たちは、このキリギリスみたいに、明日の食い扶持にも困る貧乏な生活を余儀なくされるのだぞ、ーーというわけである。

この文脈からすれば、ロートルの刹那主義は非難の対象にならない。貧乏な老人は、そもそも酒や女に現を抜かすことが出来ない。快楽に専念できるのは、カネに不自由しない老人に決まっている。カネ持ちの老人に向かって「そんな生活をしていると、そのうち・・・」などと言ってみても、説得力がない。そもそも老人にとっては、「そのうち」(将来)は短く、しかも先が読めないほど不確実性に充ち充ちている。いつポックリ逝くかも判らないあやふやな明日なのだ。

老人にとっての刹那主義と、若者にとっての刹那主義は、ではどう違うのか。その別れ道はどこにあるのか。

それは、そこに感謝の念が伴うかどうかだと私は考える。だれでも歳をとれば、今まで当たり前にできていたことが出来なくなってくる。出来ることの範囲は徐々に狭まってくる。そんな中で、まだ「出来る」ことがあれば、そのことへの感謝の念は自ずと湧いてくる。若者の場合は、当たり前のことが当たり前にできるので、そんな感謝の念は起こりようがないのである。

けさ「団塊シニア」さんのブログ記事「当たり前のことに感謝」を読みながら、私はつらつらとそんなことを考えた。
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