ゆこちんのトランペット

トランペット奏者 藤井裕子のコンサート情報、トランペット談義のつもりが…こぼれ話や大きな声では言えない話も…毎日更新中♪

プライドって…

2011年02月15日 14時01分51秒 | Weblog
ちょいと思う所があって…書いてみる。

「プライド」…これって、本来はいいものだと思う。「誇り高い勇者」なんて、本当に強そうだし、それでいて気高い精神の持ち主!って思えちゃう。
それに、「この仕事に誇りを持って」とか「自分の誇りをかけて」…なんてときは、その道のプロフェッショナル(職業かどうかではなく)が誠心誠意、精一杯出来る限りの力を尽くす究極の感じがして、とても憧れる。

ところが…「プライドが高い」というと、なんか急に違う気がする。
プライドと誇りって英語か日本語の問題だと思うのに、何だかニュアンスが急に「中身が伴ってない」っていう感じになる。


自分にだって、プライドはある。プライド高いところもあると思う。そのプライドをいい方に使う事は自分の目指す所でありたく、逆にプライドの高さが自分にとって「邪魔」になるようなことにはなりたくないと思う。


ところで…最近驚く事に、中身と無関係にプライドが高くて、そのためにガラスのハートになってるっていうことがある(人がいる?!)気がする。

例えば…まだその道を全然究めてない、あるいはその道で少なくともそこそこ認められているのではない、そういうレベルの人のプライドって一体なんだろう?って思う。

初心者のプライド…それって一体なんだろう?自尊心ってことだろうか?でもそれってなんだ?

まだやり始めとか、上手くない状態なんだったら、自分で努力して何がしか掴めるまで、自分の信じるやり方(先達の教えてくれるやり方を信じるならそれだし、そうでないなら独自に考えた何か)で、日々努力していくしかない。

それが例えば、初心者だから上手く言っていない部分を指摘されたとする…

そうしたときに、「プライドが傷ついた」と言うのは、どういうことだろう?

注意されると、だれでもいい気分ではないだろう。私だって、とってもハッピーになるかって言ったら、その瞬間で言えばそりゃー嘘になる。
でも、長い目でみて、自分のやりたいことに近づくためのヒントになるわけだから、ありがたいことだと思う。

例えとしては悪いけど、例えば「社会の窓」が開いてる人がいたとして、教えるか教えないかだよね。
教えなければ、その瞬間は誰も傷つかないけど、1日中それで街を歩いたんだとして、みんな心の中で笑ってたんだと知ったら、あとから激しく傷つくよぉ。
どうして教えてくれなかった?!!!ってちょっと腹すら立つ。
言わなかった事が優しさだとしても、やっぱり一瞬の恥で済むか、長々と恥をさらすかって事考えたら、教えてあげるのが優しさだと思う。
もちろん、教え方にも配慮が必要で、そこで立ち直れないくらいのダメージ与えるなら言わない方がいいかもしれない。だから何か上手く伝える必要はある。




まあ、やはり例えがどうかとは思うけど、指摘する方も恨まれるかもしれないというリスクを負いつつ、でもその人がどうやっていくべきかを指導者なら示してやらねばなるまいさ。

何かを注意されて、傷つくってのは、言われ方に傷つくこともあるだろうけど、言われること自体に傷つくってのは問題だ。

自分はちゃんとできてる、って思っていると何かを言われたときは心外だろう。何がダメなんだよ?!みたいな。
あるいは、「できないもん…」的しょんぼり系。


また、注意された事を親がかわいそうだ…と思うのも可哀そうだ。
子供には無限の可能性がある、と信じるなら、何かができるようになるまで、見守って支えてあげてほしい。愚痴を聞いてあげるのはいい。でもだからって、そこから逃げるという選択は、もし頑張れば乗り越えられる、乗り越えるべきことなのであれば、その子の可能性を信じて、応援してあげてほしい。

世の中に出たら、あっという間に競争社会で、守ってなどくれない。いや、そりゃー義理人情とかそういうのはあるよ、だから捨てたもんじゃないけど、出来る限りの努力をして乗り越えようとしない人を甘やかしてくれるほど甘くないって言う意味ね。

つまり、傷ついてかわいそうね、そういうこと言わないでください、というよりも、なんで言われたのかを考えて、何が求められているのか、何をすべきなのかを考えて、要求以上の成果を見せてやる!!!くらいの気概を見せることが「プライド」なんじゃないかと思う。

できてもないこと、やれてもないこと、それをプライドという言葉の下には使わない。

自分ならもっとこのくらいできるんだ!!!というところを見せ付けるくらいの気持ちで立ち向かう、それがプライドの正しい使い方なんじゃないかなぁ。


だから子供のうちは悪い意味のプライドなんぞ持たずに、でも自分の可能性は信じて。可能性っていうのは、今できてることじゃなくて、正しく努力すればできるはずのことを言うと思う。無限の可能性ってのは、「なんでもできます」ってことじゃなくて、正しく努力することでなんでも「できるようになる」ってことだ。

できるようになるはずなんだから、できるまで頑張る。ただそれだけだと思う。

逆に出来ないと思っているなら、やらない方がいい。きっと出来ないと思ってやってる事は、出来るようにならない。

人が君には無理、と言ったとしても、自分がやりたい!と思うならできるまでやればいい。
人ができるよ!と言っても、自分自身ができない、と思うなら、出来ないから時間の無駄。

ただそれだけだと思っている。

家族は、何か周りからのことをシャットアウトして箱に入れるかのように子供を守るのではなくて、どんな攻撃が来ようと、どんな困難に直面しようとも、くじけない、自分を信じる、そういう心を持てるように見守ってやるのが、実はその子の可能性を一番信じてあげる事だと思う。

私はきっと口はいい方じゃないと思う。ときにグサっとくる事も言ってると思う。

でも、できない子には言わない。やれば出来るはずなのにやらない子には、厳しく臨む。困難でも必死に立ち向かっている子は応援する。
絶対に「やったー!」「よっしゃー!」と思ってほしい。ガラスのハートを守るためにパワーを無駄遣いしないでほしい。そのパワーを目の前の課題に振り向けて、本当の意味の喜びをゲットしてほしいよ。
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