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ボイボイ日記・ダバオリターンズ

南国フィリピン南部の街ダバオで
はっぴぃな定年ライフを満喫する為の生活情報発信

上を向いて歩こう

2011年03月28日 | 海外ロングステイ

東日本大震災が起こって早や2週間が過ぎました。
ライフラインも少しづつ復旧しているようですが、まだまだ寒さ厳しい中での避難生活の様子をテレビで見る度に胸が苦しくなります。
しかし被災地での子供たちの可愛い笑顔が写しだされると『日本は負けない! 絶対に復旧を果たす!』と希望の光が見えて来ます。
昨晩市内の<三人の王様像広場>でチェンマイ商工会議所がリーダーシップを取って去る19日から展開されていた<義捐金>の募金活動の最終日のイベントが開催されました。
1週間の活動で集まった義捐金の総額は170万バーツ(約500万円)に達し、活動のフィナーレとなった昨晩、各団体、企業別にチェンマイ県知事に渡され(トップ写真)、その後に在チェンマイ日本国総領事に手渡されました。
会場には沢山のタイ人の方々が日本の被災者のことを心配して駆けつけてくれました。 
イベントの最後に<ハーモニックスCLL>のコーラスで、チェンマイの方々へ今回の募金の感謝と、日本の被災者の皆さまに元気と勇気を届ける「歌声」を披露しました。
                  
「荒城の月」、「故郷を離るる歌」、「花」、「ふるさと」、「いい日旅立ち」、「空よ」、「上を向いて歩こう」、「さくらさくら」、「心の友」の全9曲をチェンマイの夜空に向かって熱唱しました。        
きっとみんなの歌声は故郷の日本に届いたものと確信しています。
偶然にも昨晩は日本のフジテレビで「上を向いて歩こう・歌でひとつになろう日本」という特別番組が放送されました。
日本を代表するアーチスト27組が生出演して歌で大震災の被災者たちへメッセージを送っていました。
特別番組のタイトル通り番組の最初とフィナーレで「上を向いて歩こう」を歌っていました。
きっとその歌声と一緒にチェンマイからの「上を向いて歩こう」の歌声がハーモニーとなって日本の被災者の元に届いたことでしょう。

        

                         


心の友

2011年03月21日 | 海外ロングステイ

東日本大震災が起こってから10日が過ぎました。
日を追う毎に犠牲者の数が増え続け、この大震災による死者は警察庁のまとめによると21日現在8600人を超えてしまったそうで、行方不明者は約1万8千人にのぼり、合計で2万7千人を超える史上最大の大惨事となってしまいました。
地震発生後から世界の国々から支援の手が差し延べられていて、救援隊を派遣した国も沢山あり、タイ政府も医療チームの第一陣を去る15日に派遣し、このチームは千葉県内で10日間の救援活動を続けています。
チェンマイのデパートや大型スーパー、レストランなどには「義捐金」を募る募金箱が設置され、タイ人だけではなくチェンマイに暮す諸外国の方々も募金に協力しています。
タイは2004年に起こったスマトラ沖地震の際にプーケットで津波の被害を受け、日本からも支援の手が差し延べられたことを忘れずにいてくれて、タイ人の方々の恩返しの優しい気持が強く伝わって来ます。
去る19日にはタイ人とチェンマイ在住の外国人達が日本の被災者の方々のことを思ってチャリティーコンサートを市内のパヤップ大学で開催してくれて収益金を全て義捐金の充ててくれました。(写真下)
また、来る27日にはチェンマイ商工会議所(タイ人の団体)が同じくチャリティーコンサートを市内の中心にある<三人の王様像広場>で開催することになっていて、私も所属している<ハーモニックスCLL>のコーラスグループも出演する予定となっています。
チェンマイからの歌声が日本の被災者の方々に届くよう、精一杯大きな声で歌わせていただきます。
当日ラストに歌う楽曲が「心の友」という五輪真弓の作品で、インドネシアでは第二の国歌とも言われているポピュラーな曲です。
遠く日本を離れて暮している私たちの気持が被災者の心に届くことを願って・・・。

心の友      作詞・作曲 五輪真弓

あなたから苦しみを奪えたその時
私にも生きてゆく勇気が湧いてくる
あなたと出会うまでは孤独なさすらい人
その手のぬくもりを 感じさせて

愛はいつもララバイ
旅に疲れた時
ただ心の友と
私を呼んで

信じあう心さえどこかに忘れて
人は何故 過ぎた日の幸せ追いかける
静かにまぶた閉じて心のドアを開き
私をつかんだら 涙ふいて

愛はいつもララバイ
あなたが弱い時
ただ心の友と
私を呼んで

愛はいつもララバイ
旅に疲れた時
ただ心の友と
私を呼んで

         心の友(五輪真弓歌)試聴
         http://www.casttv.com/video/t20mwn1/-video


OPERATION ともだち

2011年03月15日 | 海外ロングステイ

3月11日に東日本が激震と津波に襲われました。
同時刻にたまたま家に居た私はテレビで緊急地震速報を見ていました。
地震発生から徐々に被害の実態が判明するにつれ、ことの重大さ、想像を絶する被害の大きさに驚愕しています。
被災地のみなさまには心からお見舞いを、亡くなられた方には心からお悔やみを申し上げます。
しかしどんなに壊滅的な被害を受けても、心に大きな傷を受けても、必ず復興、復活の日はやって来ます。
阪神淡路大震災では我々日本人の忍耐力、協調性、冷静さなどによって、世界が驚くほどの早さで見事に復興を成し遂げました。
東日本大震災は、まだまだ全貌が見えず、どれほど悲惨な結果が待ち受けているかは考えるだけでも恐ろしいのですが、不屈の精神で必ずや復活の日が来ることを心から信じています。
タイでも連日のようにテレビで報道され、募金活動も活発に呼びかけられています。
また14日の緊急閣議で、大震災で甚大な被害を受けた日本支援のため、2億バーツ(約5億3500万円)の緊急予算を計上することを承認したそうです。
一方世界の国々からも支援の手が差し延べられていて、地震発生直後から続々と被災地に入り果敢に救援活動を続けています。
その中で特に印象深いのがアメリカからの支援です。
空母「ロナルド・レーガン」が到着して、アメリカからの支援が本格的に行われるようになり、そのアメリカはこの救援活動作戦名を「Operation Tomodachi」と名づけています。
この<オペレーション・ともだち>(友達作戦)の開始にあたってのオバマ大統領の演説が印象的だったので以下に引用させていただきます。
『おはよう、諸君。 後一時間足らずで、諸君ら140名は、極東に向かって旅立ち、史上最強の敵と交戦する。
時を同じくして、世界各地の米兵たちも、他の35隻の原子力空母で、同様の救助に向かう行う手はずだ。
諸君がまもなく赴く戦いは、人類史上最強の救出活動となるだろう。そう、人類史上最強の・・・・
人類・・・・・この言葉は、今日、我々全員にとって、新たな意味を持つ。
地球に対する今回の暴虐行為に少しでも意味があるのなら、 それは我々人類が共有するものの大きさに気づかせてくれた、という点につきるだろう。
今回の侵略は、この惑星で共に生きるのがどういうことかを、新たなる視点から見直させてくれた。
人間同士の無数の差異など瑣末事でしかないことを痛感させ、共通の利益というものの意味を実感させてくれた。
そしてさらに、歴史の方向を変え、人間であることがどういうことかをも定義し直してくれた。
今日このときより、世界の諸民族と諸国家がいかに深く相互に依存しあっているかを、我々は決して忘れることがないだろう。
諸君は日本を愛し、この日本を守り抜くために自らの才能と技術を差し出し、命すら投げ出す覚悟を固めている。
諸君と共に戦列に立てることを、私は心から誇りに思う。
3月11日は日本の祝日だけではなく、地球上のあらゆる国家が肩を組み、こう叫ぶ日となるだろう。
”我々は決して従容と死を受け入れたりしない!我々は生き続ける!生き続けてみせる!”と。
その日こそ、我々は真の独立記念日を祝うのだ!
アメリカ軍作戦名 <Operation Tomodachi>』

※空母の上に書かれた「はじめまして」の人文字に心が打たれました。

 


ハンドンゴルフ場

2011年03月12日 | 海外ロングステイ

朝目覚めてから何となく身体を動かしたい衝動に駆られた時などに、予約なしで一人で行っても気軽にプレイ出来るのが「ハンドンゴルフ場」です。
チェンマイには沢山のゴルフ場があって、チェンマイに住む日本人ゴルファーが良くプレイしているコースが「Green ValleyC.C.」、「LannaC.C.」「Chiangmai Highland C.C.」「 Royal Chiangmai C.C.」「Alpaine C.C.」などなどですが、気軽に一人でもプレイ出来るゴルフ場がこの<Hang Donゴルフ場>です。
ハンドンゴルフ場は市内から車で30分程離れた場所にあるコースで、ドッグレッグあり、池あり、隠しバンカーありで、特にグリーンは速く、傾斜のある非常に面白い9ホールのゴルフ場です。
ティーニンググランドがバックとフロントと違うので、2回ラウンドすることで18ホールをプレイした感じになるゴルフ場で、9ホール、パー36なので、2回ラウンドするとパー72となります。
ゴルフ場のメンテナンスもそれなりに良く、フェアウエイの状態はLannaに勝るとも劣らぬコースだと思います。
平日のグリーンフィ+キャディーフィーが320B(約870円)という驚くべき安さも人気の秘密で、プレヤーは西洋人、ローカルのタイ人が中心で、日本人プレヤーはかなり少ないのもこのハンドンC.C.の特長です。
一人や二人組でのプレヤーが結構居ることもあって、一人でふらりと出かけても一緒にラウンドさせて貰うのが常で、時には先週のブログ記事に書いたようなグルメ情報がゲット出来るラッキーなこともあります。
下の写真はハンドンゴルフ場の名物ホールとも言える<8番ホール>、孤島のパー3で、距離が120から130ヤード程度のショートホールです。
ピンがグリーン奥にあるのと、手前にあるのとでは難易度が異なり、2段グリーンになっていて、ピンが奥にある場合はオーバー覚悟で奥を狙ったほうがベストで、下手に手前グリーンに乗るとパットが少し厄介になります。


ジャーマンレストラン

2011年03月05日 | 海外ロングステイ

チェンマイには世界各国からのロングステイヤーが滞在していて、特に極寒の冬となるヨーロッパの国々からのリタイヤ世代が多く住んでいます。
先日ゴルフ場で出会って一緒にラウンドしたプレイヤーがドイツ人の定年退職者で、チェンマイに7年も暮しているという大先輩の方でした。
ラウンド中ににチェンマイで一番美味しい「ドイツ料理」のお店の紹介をお願いしました。
『7年もチェンマイに暮しているドイツ人だったら絶対に美味しいドイツ料理の店を知っている筈』と読んだ私の予想が的中して、隠れ家的なジャーマンレストラン<G&M German Sausage Restaurant>を紹介して貰ったのです。
チェンマイ市内から少し離れたドイ・サケットにあるこのレストラン、オーナーはドイツ人で、奥さんがタイ人の店です。
このレストラン、毎日朝8時から休憩なしで夜まで営業していますが、お奨めは日曜日の「ランチ・ブッフェ」です。
ドイツ料理と言えばお馴染みの各種「ジャーマンソーセージ」(全て手作り)、「ジャーマンポテト」、「サワークラウト」、「シュバイネハクセ」(ローストした豚脚)などなどがブッフェスタイルで食べ放題です。
                               
特に「シュバイネハクセ」は絶品で、じっくりと油で揚げた豚の脚部分はまるで「から揚げハム」のような味わいで、カリっとした皮の部分とジューシーな肉の部分の食感も対照的で感動的な一品です。(写真下左参照)
このG&Mレストラン、最初はたった3つのテーブルで開業したと聞きますが、口込みで徐々にその味の良さが広まって、今では1軒家を改造したレストランスペースはガーデンにまでテーブルの数が増えています。
日曜日のランチブッフェは知る人ぞ知る超人気のメニューなので、午前11時半頃にはかなりのお客でテーブルが埋まってしまい、12時に行ったのではテーブル席を確保するのが困難と言えます。
何故このように人気があるのかと言えば、それは美味しい味と驚くべき価格設定にあるのでしょう。
味は超一流のG&Mのランチブッフェ、上記の料理の数々の他に「デザート」の果物、更に〆として「アイスクリーム」まで出て来て一人前170バーツ(約460円)という驚くべき価格なのです。
このレストランの手作りソーセージやハム、サラミなどの加工品は「G&M」ブランド名で、市内のリンピンスーパーなどでも販売されていて、食後には店内にある売店でもお土産として購入出来ます。
最後に肝心なこのG&Mレストランの所在地ですが、これがかなり説明困難な場所にあるのです。
チェンマイ市内のハイウエイからチェンライへの道路に入り暫く進むとドイ・サケットへの標識に従って右折してから、最初の信号を右折し、約7Km進んでから左折します。(左折する道路の右側に小さな案内板あり・下右写真参照)
左折した後は道なりに進んで行き、右折を2回すると、間もなく右手にMuang-Tonの大きなお寺の前に出ます。
そのお寺の前にある目立たない一軒家が目的のG&Mレストランです。
       G&M German Sausage Restaurant
       269 M 4 Muangton, Doi Saket
       Tel: 053 840531


   


思い出写真館

2011年02月26日 | 海外ロングステイ

New Yorkとブロードウエイ・ミュージカルとの出会い

今から50年前の1961年、私がちょうど20才の時にハリウッド映画「ウエストサイドストーリー」が公開されました。
アメリカンポップスの全盛だった当時、このミュージカル映画をシネマスコープの大画面で見た時の驚きと迫力は今でも鮮明に憶えています。
この「ウエストサイド・ストーリー」は1949年にジェームス・ロビンスがロミオとジュリエットを下敷きに、設定を現代のNYに置き換えて、ユダヤ教とカトリック教徒との対立を盛り込んだミュージカルを仕立てたいと提案したことが発端になっているそうです。
そしてその物語は50年代に設定をアメリカ人不良グループとヒスパニック系不良グループに変更され、音楽をレナード・バーンスタイン、詩をスティーブン・ソンドハイムに依頼して、舞台はロサンジェルスからニューヨークへと移されて「イーストサイド・ストーリー」に変わりました。
                        
やがて、イーストサイドのスラム街が取り壊されて、不良グループが東から西へ移動した為、「ウエストサイド・ストーリー」と変更されました。
そして1957年8月、ワシントンで初演を迎え、同年9月からブロードウエイのWinter Garden劇場で上演が引き継がれました。
憎しみや醜い争いに満ちた話をミュージカルにするなど「自殺行為」と当初は成功を危ぶまれましたが、結果は大成功。
この作品はブロードウエイ・ミュージカルのレベルをぐんと引き上げ、ミュージカルの最高傑作として”古典”の殿堂入りをしています。
そして余りにも有名なこの名作が映画化されてスクリーンに登場したのが冒頭に書いた1961年のことでした。
「Tonight」、「Maria」、「America」、「Cool」などの名曲の数々、そして何よりも衝撃を受けたのがダイナミックな<ダンス・シーン>の素晴らしさでした。
私はこの映画を有楽町にあった「ピカデリー劇場」に何度も足を運んで見に行ったことを憶えています。
そして、『いつか機会を作って本場のブロードウエイ・ミュージカルを見に行きたい!』という<夢>がその時に大きく膨らんでいました。

初めてのNew York

そんな「20歳の夢」が実現したのが1991年、が私50歳の時でした。
メキシコ・シテイに赴任していた当時、50年来の<夢>が実現して初めてのNew York旅行をすることが出来たのです。
当時は残念ながら「ウエストサイド・ストーリー」は上演されていませんでしたが、人気絶頂の「Cat’s」と「オペラ座の怪人」をブロードウエイで観ることが出来、大満足でした。
初めて訪れたNYでは毎日のように観光バスに乗ったり地下鉄に乗って市内観光をしながらNYの街の探索を続けていました。
           
1991年に初めてNYを訪れて以来、計3回NYを訪問しましたが、2回目、3回目の目的は「ミュージカル観劇」一筋で、「ミス・サイゴン」、「クレイジー・フォー・ユー」、「42nd Street」、「フットルース」、「オペラ座の怪人」などを観ることが出来ました。
そして3度目のNY訪問をしてから7年が過ぎた2006年11月、急に<NYのその後>を見に行きたくなって、旅行準備をスタートさせました。

ワールド・トレード・センターのその後

<NYのその後>と言うのは2001年9月11日に衝撃的な同時多発テロで崩壊したワールド・トレード・センター跡地の様子を直接この目で見たくなったのです。
あの日の朝、NHKの「おはよう日本」の画面に映し出されたNYのワールド・トレード・センタービルに2機目の飛行機が激突するシーンをリアルタイムで見てから4年以上が経過していました。
この同時多発テロ事件での犠牲者の数は3,000人にも及び、アメリカ合衆国がアフガニスタンに侵攻する契機となった事件でもあります。
滞在したBelvedere Hotelから徒歩5分足らずにある<49St駅>から地下鉄に乗って、みぞれまじりの寒い朝、一路「ワールド・トレード・センター駅」に向かいました。
約15分程で到着した場所には8年前に聳え建っていた巨大なツインタワーの姿はありません・・・。
ニュース映像などで何度も見ていたその場所に実際に立って見て、改めてテロの恐怖を実感させられました。
    
ツインタワーのあった周辺はすっかり整理されていて、テロ事件の痕跡などは全く残ってはいません。
周りが「柵」で囲まれているものの、柵の間から中の様子は簡単に確認出来て、ブルドーザーやダンプカーの行き交う姿が確認出来ました。(上写真、右)
駅のコンコースだったところにはメモリアル壁画が設えてあって、テロ事件で犠牲になった方々の遺児たちの「絵」が展示されていました。
このワールド・トレード・センター跡地をどうするのかということで、政府関係者を中心に建築家、地元の住民、テロ被害者の家族の間で何度も話し合いが持たれたそうで、その結果「不屈の精神」を持って、元のワールド・トレード・センター以上の建築物を作ることで意見が一致したそうです。
新たに建設するビルの名前は<フリーダム・タワー>。
建築家のダニエル・ルベスキンド氏によるとテロからの脅威に負けない、「自由」と「民主主義」の象徴的意味を持った建物になるそうで、予算15億ドルという壮大な計画です。
フリーダム・タワーは高さ1776フィート(約540m)の高層ビルで、完成の暁には世界一高いビルになる予定で、2008年に完成することになっていましたが、その後種々の変更などがあり、2009年には名称の変更<ワールド・トレード・センター>(英語名:One World Trade Center)が決まって、完成予定も最終的に2013年になりました。

今回の「ミュージカル観劇」は・・・。

今回のNY滞在中に観たミュージカルは二つ。
<Mamma Mia!>と<The Lion King>です。
<Mamma Mia!>はあの「アバ」のヒット曲が20曲以上も劇中で歌われるブロードウエイ人気の作品です。
ロンドン生まれのポップミュージカルで、母親の昔仲間の3人の熟女がレトロで派手な衣装で「マネー・マネー・マネー」や「チキチータ」などの懐かしいヒット曲を歌いまくり、カーテンコールの「ダンシング・クイーン」では満員の観客総立ちで盛り上がりました。
ラッキーなことにネットで手配してあった「座席」が最前列の中央、キーボードを兼ねた指揮者の隣で、舞台と「オーケストラ・ピット」が見える場所でこのミュージカルを満喫しました。
   
<The Lion King>は1998年に行った時にはチケットが<2000年>まで完売で果たせなかったので、そのリベンジが実現しました。
98年の時には日本に戻ってから「劇団四季」バージョンの「ライオン・キング」を観てお茶を濁した感じでしたが、今回ブロードウエイ版を観ることが出来て改めてこのミュージカルの素晴らしさを再発見出来満足でした。
この「The Lion King」の初演は1997年11月で、今でも満席状態が続いていて人気の高さが伺えます。


ナンの町へ

2011年02月19日 | 海外ロングステイ

旅仲間と一緒に2泊3日でナンの町ツアーに行って来ました。
ナンは北タイでは馴染みの薄い町ですが、ドイプーカ国立公園や井戸水から塩が取れるポークルアなどの観光地もあって、地方の田舎町ならではの落ち着いた雰囲気の素敵な町でした。

<チョンプープーカ>
ドーイプーカー国立公園はナーン県にあって、公園のある場所は高地ですが、数百万年前は海の底だったそうです。
そんなことから公園内の山は石灰岩で出来ていて、多くの鍾乳洞と滝があります。
チョンプープーカは毎年2月頃に木の枝先に長さ30cm程のピンクの花房を咲かせます。
                              
チョンプープーカは台湾や中国の雲南省やベトナムの北部でも発見されているそうです。
ミヤンマーやラオスでも生育していると推定されていますが、ドーイプーカー国立公園の高地が気温と湿度の関係からチョンプープーカの生育に最も適していているようです。
大変貴重なこのチョンプープーカは今では20数本だけしか残っておらず、その保護と増殖に課題が残されているそうです。

<ワットプラタート・チェーへーン>
ランナー地域の仏教信仰の一つの形態に、人の運命は生まれた年の十二支に支配されており、自分の属する十二支の仏塔に詣でなければならないという信仰が昔からあって、今でも巡礼が行われています。
今年の干支でもある「卯」を祭ったお寺がナンの市内から2キロのところにあります。
                 
お寺の境内のあちこちにウサギの置物が供えられていて、親しみやすいお寺でした。
以下に改めて12ヶ所の「プラタート・プラチャムピークート」(生まれ年の干支に属するプラタート<仏塔>を記述します)

子年 プラタート・シーチョームトーン   チェンマイ県チョームトーン郡
丑年 プラタート・ラムパーンルワン   ラムパーン県コカー郡
寅年 プラタート・チョーヘー        プレー県プレー市
卯年 プラタート・チェーヘーン         ナン県プーピエン分郡
辰年 プラタート・プラシン               チェンマイ県チェンマイ市
巳年 マハーボーディー寺院の菩提樹(インド・ブッダガヤ)
      *不可能な場合はワット・ジェット・ヨート(チェンマイ市)ないし
        プラタートチェーディー・シーマハーポート(ウボンラーチャターニー県ムアン
          ウボンラーチャターニー郡)
午年 シュエダゴン・パゴダ(ミャンマー・ヤンゴン)
      *不可能な場合はプラ・ボーロマタート  ターィ県バーンターク郡
未年 プラタート・ドーイステープ      チェンマイ市
申年 プラタート・パノム                ナコーンパノム県タートパノム郡
酉年 プラタート・ハリプンチャイ       ラムプーン県ラムプーン市
戌年 プラ・ケートケーオチュラーマニー(天国)
      *通常はワット・ケートカーラームの仏塔   チェンマイ市
亥年(豚年) プラタート・ドーイトゥン   チェンライ県メーファールワン郡

                           


フラワーフェスティバル2011

2011年02月12日 | 海外ロングステイ

「北方の薔薇」と呼ばれるチェンマイのフラワーフェスティバルは、毎年2月の第一土曜・日曜日にかけて行われます。
ソンクラーン(水掛け祭り)とローイクラトン(灯籠流し祭り)は、タイ全土で行われていますが、フラワーフェスティバルはチェンマイだけで開催されている春を告げる美しいお祭りで、今年で33回目となる歴史あるイベントです。
色鮮やかな生花で彩られた山車が市内を練り歩くこのお祭りは、華やかで可憐ということで、地元の人々は勿論世界中からの観光客にも人気があります。
               
チェンマイは、乾季は気候が冷涼で、その気候を利用して、他の地域ではなかなか栽培出来ない珍しい花を多く栽培していることでも有名で、フラワーフェスティバルは、それらの花々が集結する場でもあるのです。
知人のお陰でナラワット橋の近くに作られた「特設桟敷」の特別席でこのパレードを観戦することが出来、直ぐ傍には<ミス・チェンマイ2011>が出迎えてくれて、美しいオーキッドの生花を胸に付けてくれました。(写真下)
フラワーフェスティバルの目玉であるパレードは、土曜日の朝8時に行われ、ナラワット橋を出発し、ターペー通り~お堀沿いの道~プアックハット公園まで続きます。
パレードに使われた山車などは、そのままプアックハット公園前に展示され、公園の辺り一帯は歩行者天国となって道の両側では、様々な種類の蘭を始めとする植木市が立つなど、タイ北部の名産物、旬の果物の即売所などがズラリと並んで、朝晩の冷え込みが少し和らいだチェンマイに「春」の訪れを感じさせてくれます。

              

 


思い出写真館

2011年02月05日 | 海外ロングステイ

青春グラフィティー

1950年後半から60年前半が私の青春真っ只中でした。
1950年代の日本は、戦後の経済復興が軌道にのりつつある時代で、テレビの本放送が始まるなど、豊かさへの憧れ、便利さへの欲求が高まって行きました。
1954年のエルヴィス・プレスリーの登場によって、アメリカで誕生したロックンロールが、1956年4月、ヒットチャートのトップになった<ハートブレイク・ホテル>に始まる驚異的なメガヒットによるヒットチャート独占のニュースや楽曲がラジオを通して日本に上陸したのです。
この時期の日本は、アメリカとの時差が2年はあって、実際に<ハートブレイクホ テル>が国内で話題になったのは昭和33年(1958年)あたりでした。
それを受けて誕生した「ウエスタンカーニバル」を機に、日本ナイズされたすさまじい狂乱のロカビリーブームが「社会現象」規模で起こります。
そんな時代に同年代の友人とはかなり違った青春時代を送った私でした。
子供の頃から音楽好きだった私の心をしっかり捉えてしまった「ロカビリー」、そして歌うことには自信を持っていた私がプロを目指して始動したのが18歳の時でした。
当時人気を誇っていたフジテレビの”ヒットキットショー”のオーデションにパスして1000人の応募者の中から5人の新人歌手として選ばれてテレビ出演出来たことがきっかけで芸能界に足を踏み入れたのです。
         
テレビのオンエアの後、或るプロダクションから声がかかって、ロカビリー・バンドのメンバーに参入して、米軍のキャンプ廻り、ジャズ喫茶のステージと忙しい日々を送っていました。
更に大学受験にも挑戦して、学生と2足の草鞋を履いた状態で活動を続けていました。
そしてジャズ喫茶の草分け的存在だった銀座「テネシー」の専属歌手として約1年間のステージを踏み、レイモンド服部、水島早苗に師事し、スタンダード・ジャズの勉強に本格的に取り組む一方、モダンバレー界の第一人者、竹部玲子の門をたたき、ミュージカルタレントとしてのレッスンも始めていました。
銀座テネシー時代に同じステージに上がっていたのが<若い二人>がブレークする前の「故・北原謙二」や、カントリーウェスタンバンド「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」でベースを弾いていた「故・いかりや長介」(ギタリストは寺内タケシ)で、他には尾藤イサオ、伊藤照子(俳優伊藤雄之助の娘)などが居ました。
当時の私の持ち歌は「片目のジャック」、「ハウンド・ドッグ」、「トラブル」、「What'd I Say」、「霧の中のジョニー」などなどでした。
         
そして一年後にはテネシーを離れ、別のプロダクションに移籍し、歌って踊れるグループ、「ザ・スパッツ」を結成し、リーダーとしてテレビ番組「ナイトショー」でデビューをしました。(写真下、左から二番目が私です)
因みに1964年4月に発売された「平凡パンチ」のテレビCMをこの「スパッツ」がやったことが記憶に残っています。
しかし学生とタレントとしての二重生活に追われいた大学の3年が終わろうとしていた頃、当時の生活に疑問を感じ始め、将来への不安も重なったことでかなり悩んだ結果、芸能の世界から思い切って転換を図り<学生>だけに専念しようと決心し、即実行したのでした。
そして
大学4年生となった最後の一年間はそれまで感じ得なかった充実感を味わうことが出来、卒業と同時にその後33年間「縁」が続いた会社に入社して、サラリーマン人生をスタートさせたのでした。
         


日本語はお洒落?

2011年01月29日 | 海外ロングステイ

その昔海外旅行に行った時のお土産物屋の店先に「日本語話す店員あります」とか「日本人置いています」とかの西洋言語ロジックを日本語に直訳した看板を見ることは珍しくありませんでしたが、チェンマイのショッピングモールの中にある日本食レストランで最近良く目にする日本語表示はかなり正確で驚かされます。
これらの日本語は日本人向けに書かれているのではなく、地元のタイ人へ向けてのもので、さしずめ日本国内で見る英語やイタリア語、フランス語などで書かれたものと同様の「お洒落な」効果を狙ったものでしょう。
                 
特に最近のチェンマイでは「和食ブーム」で、街中のあちこちで「寿司屋」を目にします。
地元のチェンマイっ子や観光客で賑わっている「サンデー・マーケット」でも「握り寿司」を売っている屋台が数軒あります。
トップの写真の「おいしい」和食レストランはエアポート・プラザの中に最近オープンしたばかりの「しゃぶしゃぶ」と「寿司」のバイキングの店で、日曜日には長蛇の列が出来る程の人気のレストランです。
店の外から中の様子を伺って見ると、若いタイ人のお客が中心で、「天婦羅」、「餃子」、「鯖の塩焼き」などなど、タイ人の好きな料理も豊富に取り揃えてあって人気の理由が良く判りました。
タイ人にとって馴染みのない日本語「おいしい」から一体どのようなイメージが伝わっているのかとても興味があります。
   
 


お茶パワー

2011年01月22日 | 海外ロングステイ

私はかなり昔からの「お茶好き」で、朝起きて直ぐに飲む熱い「お茶」が一日の始まりの「儀式」のようになっています。
渋めで熱い緑茶が好きで、お茶だけは日本から取り寄せているほど、自他共に認めるお茶こだわり人間です。
そんなお茶好きの私の興味を大きく惹いたのが先日放送されたNHKの「ためしてガッテン」で紹介された<お茶!がん死亡率激減!?超健康パワーの裏ワザ>でした。
人口10万人以上の市区町村の中で、がんによる死亡率が日本一低く、高齢者の医療費も全国平均と比べて20パーセント以上も低い驚きの町、静岡県掛川市の紹介から番組は始まりました。
その秘密の鍵を握っていたのが掛川市の特産品「緑茶」だったのです。
掛川で一般に飲まれているのは「深蒸し」と呼ばれる製法で作られたお茶で、色が濃く、細かい浮遊物がたくさん含まれているのが特徴です。
この浮遊物を分析してもらったところ、普通のお茶にはほとんど含まれない成分が見つかりました。
βカロテンには抗酸化作用、ビタミンEには血行促進作用や免疫機能改善効果、クロロフィルには腸内環境を整える働きがあると言われています。
番組ではその掛川の「深蒸し茶」と同じような健康効果を得られる方法を開発して紹介してくれました。
その名も“すり鉢茶”で、作り方は超簡単!
まず、すり鉢にお茶の葉を2グラム弱入れ、熱湯を小さじ1杯ほど足し、すりこ木で1分ほどすります。
ペースト状になったお茶の葉に熱湯を200ミリリットルほど加えて1分ほど置き、茶こしでこすだけで完成です。
この方法で入れたお茶は急須で入れるよりも、少ない茶葉の量で濃厚なお茶を楽しむことが出来、私好みの超渋く、深い味わいの「お茶」に変身するのです。
ガッテンのお勧めは大き目のコップで一日3杯(600ml)ほど毎日飲むことだそうで、番組を見て以来、すっかりこの”すり鉢茶”にはまっています。


思い出写真館

2011年01月15日 | 海外ロングステイ

イグアスの滝

昨年暮れのブログでサンパウロのクリスマス夜景の写真を載せた時にも書きましたが、私は1969年から79年の10年間ブラジルに赴任していました。
10年間のブラジル赴任中にはサンパウロ、リオ・デ・ジャネイロの他にもあちこち国内を旅した思い出が残っています。
その思い出の中でも特に印象深いのが「イグアスの滝」です。 
               
10年の滞在中に3回訪問したことがあって、最後にイグアスの滝を見に行ったのが1998年のブラジル再訪問の時でした(写真下)
イグアスの滝はブラジルとアルゼンチンの国境をなすイグアス川最下流部にかかる世界最大の滝です。
滝幅4km、最大落差が約80mあって滝の両岸はアルゼンチンおよびブラジルの国立公園に指定され、世界遺産に登録されています。
「イグアス」とはグアラニー語で「大なる水」という意味で、イグアスの滝はナイアガラ、ヴィクトリアと並んで世界三大瀑布と呼ばれています。
初めて訪れた時の感動は今でも忘れられず、イグアスの美しい「虹」は晴天ならばいつでも観察出来ます。
「悪魔の喉笛」と呼ばれる滝の中央部の真正面辺りまで橋が作られていて近づくことが出来ますが、傘とレインコートが無いと全身ズブ濡れの洗礼を受けてしまいます。
また、もう一つ驚いたことは豪快に流れ落ちる滝の裏側の岩場に鳥が住んでいて、水の勢いをモノともせずに鳥たちが滝の裏側に出入りしていることでした。
条件がよければ満月の夜、闇に浮かぶ虹を見ることもできるそうで、伝説ではその虹には命を蘇らせる力があり、見た者を幸せにするそうです。

           


新春のお花見

2011年01月07日 | 海外ロングステイ

2009年の12月26日に初めて出かけた「お花見」の時には未だ3分咲きだったこともあって、今年は少し時期をずらして年が明けた後の満開の桜を見ようとCLLの仲間50名と一緒にドイ・プイ(プイ山)の裾野まで昨日出かけて来ました。
ドイ・プイの桜は「ヒマラヤ桜」と呼ばれる品種の桜で、原産地はヒマラヤ山脈で、標高1100~2300mの暖温帯に分布しているそうです。
日本にはネパールのビレンドラ国王が日本の東大に留学中、熱海市に種子を寄贈され、この種子から育てられた3本が特に知られています。
秋咲きで、毎年11月下旬から12月にかけて薄ピンク色のオオヤマザクラに似た花を咲かせ、常緑で、正月には若葉がでます。
               
この桜はチェンマイ及び北部タイでは毎年正月頃が見頃と言われているのですが、事前の現地情報の入手が難しく、現地へ到着するまで開花の状況が掴めません。
「今年こそは満開のお花見を・・・」と期待を膨らませて出かけたのですが、結果は残念ながら前回よりも悪く「二分咲き」でした。
しかし抜けるような青空の下で美味しい空気と美味しいお弁当を食べながら、<花より団子>の気分で日帰りドライブを堪能して来ました。

        


2011年の幕開け

2011年01月01日 | 海外ロングステイ

         新年明けましておめでとうございます

チェンマイで4度目の新年を迎えました。
夕べは知人のお宅で恒例の「年越しパーティー」に招待されてNHKの紅白歌合戦を見ながら「年越し蕎麦」をいただきました。
早いもので1999年に日本を飛び出してから海外暮らしも早や11年目となりました。
チェンマイで今年も清々しい元旦の朝を迎え、日本に居た時と同じように「おせち料理」と「お雑煮」で新年を祝いました。
これから、これも恒例となった<ドイ・スーテップ>のお寺まで出かけて初詣です。
2011年の無病息災を祈願して来ます。


思い出写真館

2010年12月23日 | 海外ロングステイ

サンパウロのクリスマス

私は現役時代の1969年から1979年の10年間、ブラジルに赴任していてサンパウロに9年、リオ・デ・ジャネイロに1年暮していました。
ブラジルに10年間もの長い間暮していたお陰でかなりあちこちブラジル国内を旅しましたが、当時は今のようにデジカメもパソコンも無かった時代なので、思い出の写真はアナログカメラで撮ったプリント写真が少し残っているだけで、スキャナーで取り込んで何枚かの写真をPCに保存しています。
ブラジルは日本の真反対側にある遠い国ということもあって意外と知られていないことが幾つかあります。
その一つが「ブラジルに雪が降る」ことでしょう。
ブラジルは南半球に位置する為日本とは反対に北部が暑く南部が寒く、ちょうどサンパウロを中心に北部のリオ州、バイヤ州、アマゾン州と北へ行く程赤道に近くなって暑くなります。
そして南部はパラナ州、サンタ・カタリナ州、リオ・グランデ・ド・スル州と南極に近づくため寒くなるのです。
特にサンタ・カタリナ州とリオ・グランデ・ド・スル州では冬になると「雪」が降ります。
南風が吹くと涼しく、北風が吹くと暖かいのも日本やタイとは対照的で面白い現象です。
ブラジルはカトリックの国なので、12月に入ると街中がクリスマス・モードに一転して、美しいイルミネーションンで街が輝き始めます。
暑い真夏のクリスマスは日本とはかなり違ったイメージですが、お馴染みのサンタクロースはブラジルでも12月には大活躍しますが、夏には不釣合いな完全冬装備で現れる為、汗だくで頑張っています。
トップの思い出写真はサンパウロ市内中心部にある<Viaduto de Cha>(御茶ノ水橋)の上から撮った一枚で、今から30年以上も前の写真です。
シャッターを開放で約30秒ほどかけて撮った懐かしい思い出の一枚です。
そして下の写真は最近のリオ・デ・ジャネイロのクリスマス・イルミネーションの写真で、後ろに見えるのが有名な<Pao de Acucar>(砂糖パン山)です。