自分は子供の頃からのマヨネーズ好きです。
日本のトップブランドのキューピーマヨネーズが誕生したのは1925年のことで、その後戦争の為製造は一時中断しましたが1948年にマヨネーズの生産を再開し、その年の出荷量は24トンだったそうです。
生まれて初めてマヨネーズを口にしたのは小学生の時なので、多分キューピーが生産を再開して間もなくの頃だったのでしょう。
あの滑らかな食感と味、香りに魅せられて数十年が過ぎました。
最近の日本では「マヨラー」という言葉があって、マヨネーズを好物とする人を指す新語だそうです。
さしずめ私は「マヨラー」の走りだったのかも知れません。
今ではマヨネーズはサラダ以外にも様々な食品に混ぜたり、かけたりして愛用者が増えています。
ご飯、ピラフ、チャーハン、カレーライス、冷やし中華、カップラーメン、焼きそば、お好み焼き、たこ焼き、うどん、きしめん、そうめんつゆ、冷や麦つゆ、ざるそばつゆ、刺身、寿司、各種丼物、パン、洋菓子、コンビーフ、ツナ(ツナマヨ)、納豆、などなど列挙したらキリがなくなる程です。
私のマヨネーズ使用のユニークな方法は「鮭の塩焼き」をマヨネーズで食べることです。
この方法は私が10代の頃からやっているので年期が入った食べ方でもあります。
鮭の塩焼きを醤油やおろし大根無しでマヨネーズを付けて食べる単純な方法ですが、これがなかなかイケるのです。
マヨネーズ(Mayonnaise)はフランス語ですが、語源に関しては多くの説があるようです。
地名由来とするものだけでも、メノルカ島のマオン、マヨルカ島などいくつもの説が存在するそうです。
マオン説では、18世紀半ばに小説三銃士でも知られるフランス宰相、リシュリューの甥の息子ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシが七年戦争の際に名付けたとされているそうで、テレビ番組、『世界ウルルン滞在記』ではマヨルカ島がマヨネーズの語源として紹介されていました。
日本では昭和30年代以降、キユーピー以外にもマヨネーズ製造へ参入するメーカーが現れたり、撤退したメーカーもありましたが、味の素は卵黄タイプのものを発売していたキユーピーに対抗して「全卵タイプ」のマヨネーズを1968年に発売し、その後の日本のマヨネーズ市場が拡大する結果となりました。
2010年の日本のマヨネーズの年間消費量は約20万トンで、日本人1人当あたりに換算すると約1.6キログラムにも達するそうです。
ダバオのスーパーマーケットに行くと「マヨネーズ」の種類が多く驚かされますが、残念ながらどのブランドもキューピーマヨネーズとは程遠い味です。
甘みが強かったり、酸味が足らなかったり、色々試してみたものの、どれもキューピーマヨネーズの味に慣れ親しんだ私の味覚を満足させてくれません。
そんなことから日本から直輸入されたかなり高価なキューピーマヨネーズを買うことになるのですが、こちらでは日本で1本250円程度で入手出来る500g入りのマヨネーズが280ペソ(約625円)します。
そんな中Gaisanoショッピングモールのスーパーで見付けたのがベトナム産の「キューピーマヨネーズ」です。(トップ写真)
パッケージは日本製と良く似ていて、味も日本製品と変わらぬ美味しさなのです。
そして気になる価格も150ペソ(約335円)とフィリピン国内でライセンス生産されたアメリカブランドのマヨネーズと同じような値段で販売されているのです。
キューピーマヨネーズは日本国内ではこのベトナムの他にもアメリカ、中国、マレーシア、タイなどの国々で製造販売されているようです。
正装とは冠婚葬祭や式典など公の場で着る敬意や謙譲の意を表現する衣服のことで、何が正装に当たるかは文化や状況によって異なります。
一般的には19世紀頃のヨーロッパで確立した服飾意識が世界的に通用するとされていますが、民族固有の民族衣装のうち礼式にかなったものを着れば他民族の場に於いても「礼装」になるという認識が現在では広く共有されています。
ハワイでアロハシャツはオフィスやレストランなどでも着用されるだけでなく、式典や冠婚葬祭でも着用が許される「ハワイにおける男性の正装」として認知されるようになって、現在では単なるリゾートウェアというよりは、むしろハワイの民族衣装のように扱われているそうです。
「黒紋付」は、世界にも誇れる日本の民族衣装で、時代を超えた日本の「正装」です。
現在は男女を問わずブラックフォーマルと称する洋装を、正装として慶弔双方に用いることが日本では一般化されていますが、これは日本においてはあくまで略礼装で、正装には成り得ない存在で、日本の正装は各家に伝わる家紋を染め抜いた黒紋付が「正装」です。
「バロン・タガログ」(Barong Tagalog)はフィリピンで男性が正装として用いる上着で、バナナの葉やパイナップルの葉の繊維を絽のような薄手の織物にして、プルオーバー型の長袖シャツです。
両サイドにスリットが入り、胸の部分を中心に刺繍が施されていて、ズボンからシャツの裾を出して着る礼装です。
バロンはスペイン統治下の平民用の服だったそうですが、バロンをフィリピンの礼服と宣言したのがコモンウェルス発足時(1935年)のマニュエル・ケソン大統領の時からだったそうなので、ピーニャ(パイナップル)の葉から作られたバロンはフィリピン共和国の歴史とも言えるのです。
そして1975年には当時の大統領、フェルナンド・マルコスが7月5日~11日を「バロン・タガログウィーク」と設定し、国の礼服としての確立を図りました。
そして今では結婚式や国の公式の会見などの衣装は全てバロンになっていて、「バロン・タガログ」はフィリピンの民族衣装として多くの人々に知られるようになりました。
去る6月9日の第115回フィリピン独立記念日の行事の一環として、『バロン・タガログへの情熱』と題した展示会がSM Lanangプレミアムモールの1階アトリウムで開催されました。
この展示会ではダバオ生まれの著名な建築家、Michael Ebro Dakudao氏が所有する美しいバロンの数々が披露されました。
Dakudao氏は東京大学の工学部、建築学科に留学経験もあり、学位を取得していて、現在はMindanao Times紙のコラムニストとしても活躍中です。
彼のバロンコレクションはユニークなデザインに特徴があって、バロンの生地素材もバラエティに富んでいます。
特に孔雀の羽根をあしらった手描きのバロンの美しさには目を見張るものがあります。
明日6月12日は第115回目のフィリピン独立記念日です。
歴史年表上ではフィリピンが独立を宣言したのは戦後、1946年7月4日となっていますが、フィリピン国民にとって「フィリピンの独立記念日」は「6月12日」で、政府もこの日を祝日に定めて毎年記念行事を行っています。
1898年4月米西戦争が勃発し、翌5月にアメリカはマニラ湾の海戦に勝利しフィリピン支配のスタートを切りました。
その1年前、スペインに対する武装蜂起によって革命政府を樹立していたエミリオ・アギナルド将軍が亡命先の香港から帰国して、1898年6月12日にカビテ州カウィトでフィリピンの独立を宣言し、自らフィリピン共和国初代大統領に就任したのです。
米西戦争後のパリ講和条約でフィリピンのアメリカ統治が決定し、以後戦後に至るまで米軍政・総督支配と日本軍の占領支配が続きましたが、今日に至るまでフィリピン国民は6月12日をフィリピン共和国の独立記念日として大切にしているのです。
現在の『フィリピン国旗』と『フィリピン国歌』は1898年6月12日の独立記念日に合わせてアギナルド将軍が関係者に依頼して作らせたものです。
明日の115回目のフィリピン独立記念日を前に、「レゴ」で作った巨大フィリピン全土の地図がSM Lanangプレミアムモールのアトリウムで披露されています。
レゴ (LEGO) はデンマークの玩具会社が1934年に「よく遊べ」を意味するデンマーク語 "leg godt" から社名を LEGO として始まりました。
現在のレゴ社の製品は、洗練されたシステムを持つプラスチック製の上質な組み立てブロックですが、同社は創業当時は家具店でした。
レゴ社の歴史は、デンマークのビルンにオーレ・キアク・クリスチャンセンが作った木工所から始まり、家族経営の創造的なこの会社は、後に世界中で人気の玩具会社へと成長を遂げたのです。
レゴブロックは1962年から貿易商社の朝日通商が窓口となって日本市場にも導入されました。
しかし当初は都市部のデパートや、大きな玩具店などにしか出回ることがなかった上、その価格も当時で数百円から数千円と非常に高価で、裕福な家庭の親が買い与える知育玩具というイメージが強かったようです。
その後レゴブロックが広く知れ渡るにつれ、似たアイデアのものや、寸法まで同一の商品が1960年代を中心に日本市場にも出回り、このうち特に有名なものは河田のダイヤブロックと任天堂のN&Bブロックでした。
ダイヤブロックは「複数の突起を持った表側とこれをはめ込む裏側のある直方体形状」という構造はレゴと似ていましたが、規格寸法は別物でした。
N&Bブロックは基本となる直方体の形状と寸法がレゴブロックと寸分たがわず、訴訟にもなった経緯があります。
SM Lanangプレミアムに展示されているレゴで作った巨大フィリピン地図は地元のToy Kingdomの提供によるもので、フィリピン航空、パークイン・ホテルなどの協賛の下に実現しました。
3Dで作られたこの巨大地図はモールの2階、3階から見ると全体像が良く分かります。
ダバオのあるミンダナオ島の地図には「カダヤワン祭り」や「フィリピン・イーグル」も作られていて、そのキメ細かな作業に感動を覚えました。
今月30日までこのレゴで作った巨大地図は展示されます。
地図の隣のスペースには子供たちが自由にレゴで遊べるプレイグランドも併設されています。
ダバオには地元の美味しいフィリピン料理の他に、様々な国の料理がいただけるレストランが沢山あります。
イタリア料理、スペイン料理、中華料理、韓国料理、日本料理などなどバラエティに富んだ料理がいつでも食べれて、どの料理もダバオ産の魚介類を多く使った料理に特長があります。
そんな数あるレストランの中で忘れてはいけない「フランス料理」レストランもしっかりとダバオに根付いています。
中世の頃フランスで食べられていた「フランス料理」は、食材を焼いて大皿に乗せ、手づかみで食事をするという非常にシンプルなものだったそうですが、現在のフランス料理の原形は、ルネサンス期に当時のフランス国王、アンリ2世と結婚したイタリア人のカトリーヌ・ド・メディシスとその専属料理人によってイタリアからもたらされたと言われています。
当初は粗野であったフランス料理に変革をもたらし、ブルボン王朝の最盛期に発達しました。
フランス料理の日本への移入は明治維新の際に行われたそうで、日本国外の来賓への接待としてフランス料理が使用されるようになったのは1873年からだそうです。
そして1872年(明治5年)に現在も営業する日本最古の西洋料理店とされる築地精養軒が開業しました。
それ以来、フランス料理は大正、昭和とさらに発展を遂げて、今日のような不動の地位を占めることとなりました。
そして、フランス人が磨き上げたこの優れた料理は諸外国にも広まって行き、今では中国料理と共に世界中の人が賞味する料理となったのです。
ダバオにある唯一のフランス料理店の名は「クラウデス」(Claude's - Le Cafe de Ville)で、フランス人オーナーシェフのClaudさんの名前から名付けられました。
1929年当時のコロニアル風の家を改造して作られたこのレストラン、お店の雰囲気はダバオ・ナンバーワンと言っても過言ではありません。
オーナーのClaudさんは今はキッチンを出て、レストラン・マネージャーとしてお客さまにフレンドリーな対応をこまめにしています。
このClaud氏はダバオ在住暦が約30年と言う大ベテランで、ダバオでの料理人としての経験も豊富で、パールファーム・ビーチリゾートでのレストランマネージャーやWaterfront Insularホテルのジェネラル・マネージャーの経験もあります。
また、20年程前には東京の「京王プラザホテル」から招かれて、パティシエの指導を1週間ほどして、オリジナルの「サムライ・クレープ」を置き土産にされたと聞きます。
Claude'sでのフレンチは、新鮮なダバオ湾で獲れた魚介類を巧みに取り入れながら、オリジナルの美味しい料理がいただけます。
フランスから直輸入された「生牡蠣」や「フォアグラ」もあって、値段は高いですが、お金ではなかなか買うことが出来ない「至福のひととき」を味わうことが出来ます。
フランス産ワインも豊富で、デザートも他では滅多に味わうことが出来ないフレッシュな苺を使った一品も楽しめます。
ディナーの際には予約をお忘れなく。
Claude's Le Cafe de Ville
The Oboza Heritage House
143 Rizal Street, Davao City
Tel: 222 4287 or 227 9405