ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

その先の展開

2016-02-22 07:25:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そこからの発展」2月17日
 『証言でつづる戦争』シリーズの第9回は、『加害語った被爆者』でした。そこでは、末端の兵隊として中国での加害行為に加担した人の生々しい証言が列挙されていました。
 『男を捕らえ、拷問する。先端にひし形などの金属を付けた棒で殴り、ろうそくの火で鼻柱も焼く』『壕の前に座らされた男は、故郷に向かい手を合わせて何か唱えている。「突っ込めえ」の号令で、原田は思いっきり走って刺した。銃剣は背中まで達し、壕に落ちた男の腹から内蔵が出ている。銃で頭を撃ち、とどめをさした』『10畳ほどの一室に毒ガスを充満させ、そこに5,6人の捕虜を押し込む。涙や鼻水が流れ、瀕死の状態で外に出し、再び部屋に入れる。全員絶命した』『のどを弾が貫通し息をするたびに血が噴き出す瀕死の中国人を前に、昼食をとらされた』などなど。
 読んでいると気分が重たくなってきます。おそらく誰でも同じでしょう。もちろん、こうした資料を授業で読まされた子供もです。今までも、こうした事実は、「平和教育」の中で取り上げられてきました。そして問題なのは、「平和教育」でこの事実に触れさせた後の展開なのです。
 従来は、戦争は恐ろしい、戦争は人を獣にしてしまう、戦争は勝ち負けに関係なく大きな不幸をもたらす、戦争は決してあってはならない、などという子供の感想を引き出すところで終わってしまうことが大部分でした。あるいは、少し「進んだ」実践となると、子供をその場面の兵隊の立場に立たせ、「もし自分がこの兵隊だったらどうするだろうか」と考えさせ、その気持ちを吹き出しに書かせる、というようなことも考えられます。この心の葛藤を更に焦点化し、上官の命令に従う派と良心を貫き通す派に分かれて討論させるというような試みもあるでしょう。
 しかし、それでは不十分なのです。戦場の狂気は支配する場においてどうすべきかを考えさせるのは、あまりにも戦争というものに対して無知だと言わざるを得ません。仮に自分が上官の刺殺命令を拒んでも、自分は殴られ、他の兵隊が捕虜を刺殺するだけのことで、自分の小さな良心を満足させることはできても、それは自己満足に過ぎないのです。
 本当に「平和」を求めるのであれば、こうなる前の段階、愛国心が偏狭なものへと変化しようとしているその時点、メディアが自由な報道をすることができなくなろうとしているその瞬間、特定の国や民族が嫌○、反○の対象にされていく雰囲気、そうした戦争の芽に敏感になり、戦争という大きな石が転がりだし勢いがついて止められなくなる前に、声をあげることに重要性に気付かせる展開を計画しなければ、本当の「平和教育」にはならないのです。
 必要なのは、「可哀想」という情緒ではなく、言論統制の危うさについての知識なのです。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 東京都の主権者教育に | トップ | ゲスの勘ぐり? »

コメントを投稿

我が国の教育行政と学校の抱える問題」カテゴリの最新記事