ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

学力を測るという行為

2017-05-17 07:48:22 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校の本質」5月11日
 『AO入試も学力試験』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、文部科学省が、『AO入試や推薦入試でも、2020年度から学力をみる試験の実施を義務付ける方針を固めた』ということです。その背景としては、『入学者の一部に学力不足が指摘されている』ことがあげられていました。
 大学入試制度の細部についてはよく分かりません。ただ、今回のような措置が改めて必要になった理由として、大学だけの問題ではなく、小学校から始まる、学力軽視、あるいは学校役割のの位置付けの変化、学力観の偏りなどが挙げられると考えます。
 小学校から大学に至るまで、同じ法律である学校教育法第1条によって規定されていることから、「一条校」と呼ばれます。それぞれに異なる役割が期待されていますが、基本は、学ぶ場所である、ということです。ですから、学ぶことが最も重視され、学ぶことに関わる評価こそが重みをもつべきなのです。それにもかかわらず、小学校以降、友人関係の豊かさや特別活動における積極性やリーダーシップ、優しさ・思いやりのような性質など、学業以外のことに関する面が重視され、評価されてきたこと、それが先に述べた、学校の位置付けの変化、学力軽視ということです。
 また、「ゆとり教育」の導入時から、今回のアクティブ・ラーニングの推奨に至るまで、共通する学力観、知識の量よりも関心・意欲・態度を重視する学力観も、A0入試の興隆に大きな影響を与えていると思います。本来であれば、実際に学習に取り組み、試行錯誤しながら自分なりの問題解決を図る過程全体をみて初めて評価が可能になる、関心・意欲・態度という側面について、面接や書類審査で簡単に見抜くことができるという思い上がりが、AO入試を肯定したのです。また、一芸に秀でている者は、他の分野でも創造性や粘り強い追究力が期待できるはずという、誤った考え方も、AO入試の拡大を後押ししたのです。
 学校は学ぶところであり、学ぶことに関する能力や資質を評価し、そのことによって客観性を保って入学者を選抜し、能力・資質に適した学びの場を提供していくという常識に立ち返ることが必要なのです。その生徒を長期間継続的に見つめてきた教員以外の者が、関心・意欲・態度や創造性などを短時間で見抜くことは不可能であり、学んだ成果としての知識を中心に学力を測定する以外の方法は難しいというもう一つの常識も軽んじてはなりません。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大変な世の中 | トップ | 学歴社会再評価 »

コメントを投稿

我が国の教育行政と学校の抱える問題」カテゴリの最新記事