「どちらの在り方が」9月22日
日本芸術文化振興会理事長長谷川眞理子氏が、『複数の視点 共存する日本』という表題でコラムを書かれていました。その中で長谷川氏は、『日本文化はそれを伝えるときに、何がどうだとはっきり言語化しない』と述べていらっしゃるのです。
またより具体的に、『いろいろな芸の道では、師の後ろ姿を見て学ぶ、ということになっており(略)最初は、廊下の雑巾掛けからなど、一見よくわからない修業というものもある。要は何が重要なのかを言語化して伝えることはしない。それは、毎日の暮らしの中で、習う側が体得していくことなのである』とも書かれています。
私も古い日本人ですから、長谷川氏の言うことはとてもよく分かります。しかし、一方で、最近新聞で目にしたある記事のことが思い出されました。それは寿司職人の養成システムについての記事でした。海外における和食ブーム、寿司ブームによって日本人寿司職人の需要が高まり、それに応じるためには、板場の清掃から始まって~という従来のやり方では追いつかないので、寿司づくりを数十種類のいくつかの工程に分け、それについての解説書を作り、講師が要点を説明しながら教えるというシステムにより、1年ほどで一人前の寿司職人を送り出すことが可能になったというような趣旨だったと思います。
つまり、長谷川氏が指摘する、我が国の伝統である非言語化による伝達ではなく、徹底した言語化による伝達が、新しい継承の形として生まれてきたということなのです。
さらにもう一つ思い出したことがあります。私の数少ない趣味である将棋についてです。将棋の師匠と弟子も、かつては師匠と弟子が指すのは生涯に2局、入門時と師匠の元を離れる時、つまり棋士になれず退会していくときか、一人前の棋士になれたときの2回だけと言われていました。教えないのです。師匠の後ろ姿に学ぶのです。しかし、今では、ディープラーニングのパソコンを使い、徹底的に一手一手の是非を調べ上げていく手法が主流になりました。背中を見て学ぶ時代は過去のことになったのです。
学ぶと言えば、学校です。我が国の学校における学びはどうなっているのでしょうか。教科の授業は、言語化された学びです。しかし、教員ならば誰もが経験していることですが、子供は担任の背中から多くのことを学びます。担任が平気で嘘をついて自分の失敗をごまかす人間ならば、子供もうそをつき、失敗を認めないようになります。僅かなミスも許さない厳格な教員の下では、級友のミスを意地悪いくらいに追及する子供が多くなります。そういう意味では、非言語化された学びが残っています。
今後、リモート授業が一般化し、教員との生の接触が減れば、学校における非言語の学びは姿を消し、人としての在り方、生き方を言語を通して学ぶようになるでしょう。AIを活用した学びにおいても、非言語化は進むでしょう。それが良いことなのかどうかは分かりません。
また、別の視点から見てみると、非言語化が進んだ学校において求められる教員の資質も変わっていくことが予想されます。なにしろ「背中で教える」的な部分は不要になっていくのですから。陶冶という考え方自体、古臭いものになっていくはずです。
ただ、学校における学び、学びとは伝承抜きには語れませんが、非言語化された伝承は本当になくなっていってしまってよいものなのか、考えてみることは無駄ではないと思います。
私は、日本の特質である師が背中で教える伝統に郷愁を覚える人間です。それでも、上述した「毎日の暮らしの中で、習う側が体得していくことなのである」という考え方だけは否定しておきたいと思っています。それは、学びの結果責任を子供に押し付ける考え方だからです。
子供が悪いことをしたり、失敗したりしたとき、教員(保護者)はきちんと態度で示していたのにそれを学ばなかった子供が悪い、と指導に当たる側の責任を免除し子供を責めることに結びつく発想だからです。
その他のことについては、今後も考え続けていきたいと思います。