ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

天才向け教育?

2018-04-11 15:37:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「助言はなし」4月1日  茶道資料館副館長筒井紘一氏が、連載コラムの最終回で、『決定心』について書かれていました。なお、「決定心」とは「けつじょうしん」と読むのだそうです。その中で筒井氏は、世阿弥の言葉を引用し、『稽古・練習はできるだけ多くしなさい、ただし、自分勝手の思い込みでしてはならない』と述べていらっしゃいました。独りよがりなトレーニングでは、却って悪い癖がついてしまうというのはよくあることです。だから、適切な指導・助言をしてくれるコーチのような存在が必要という話なのだと理解しました。  私もこのブログで、教員の授業力向上のためには、授業記録の分析という地道な取り組みと適切な助言をもらうことができる先達の存在が欠かせないと言ってきました。私自身、目賀田八郎氏という大先達に出会ったお陰で、その後の教員人生が成り立っているという話も紹介してきました。  ところが、筒井氏が世阿弥の言葉に引き続き紹介した『千利休の孫で千家三代の宗旦が、三男の江岑に対して、花入を置くための薄板を床の上に据えるように命じた』では、宗旦は一切「指導・助言」をしないのです。何回も試みる江岑に対し、ただ、『心に叶わず』とダメ出しをするだけで、しまいに江岑は泣き出してしまうのです。そして、涙を流し続ける江岑に対しても、『そなたのような器量では、千家の家風を継ぐことは難しい。十分な工夫を重ねてみなければ、事の善しあしは分からないのではないか』などと厳しい言葉を投げかけるのです。  この話は、その後も試行錯誤を重ねつつ努力を続けた江岑が、ついには宗旦から称賛されるようになり、『茶道の教えとは自分で学ぼうとする決定心に根本がある』と悟るというところで終わるのです。つまり、この話が示しているのは、途中で教えてしまうと自分で工夫する心がなくなり、進歩や成長が止まってしまうという考え方であり、指導する立場にある者は、弟子の努力や工夫の成果を厳正に評価するだけでよいという師弟観なのです。  私はメンタルが弱い人間です。何回もダメだしを繰り返され、どこが悪いのかも教えてもらえなければ、意欲をなくし潰れてしまうでしょう。ですから、どうしてもこの話には納得がいきません。私が知る限り、授業論では、子供の学習意欲を継続させるために、スモールステップを重視します。いきなり最終的な狙いを目指させるのではなく、そこに至までにいくつもの小目標を設定し、「ここまで出来た。よく頑張ったね。次は○○だ。きっと出来るよ、頑張ろう」と階段を一段一段登るように、一つずつクリアして成長していくイメージです。  もし、授業に悩む新卒の教員に対して、授業を参観して「ダメだ」と言うだけで何の助言も評価も示唆もしなかったとしたら、それでその教員は伸びていくのかと考えたとき、こんなやり方ではダメだという結論にしかなりません。私は、教委勤務時代に指導力不足教員研修を担当し、多くの授業を見て指導助言してきました。その際には、出来るだけ細かく具体的に、を心掛けてきました。私のそんなやり方が、むしろ「指導力不足教員」にはよくなかったのでしょうか。自ら学ぼうとする「決定心」を培うために、もっと突き放せばよかったのでしょうか。  筒井氏は、人一倍能力と資質に恵まれたエリートの育成について語っており、平凡な人間はまた別ということなのでしょうか。人を育てるという営みのあり方について、混乱してしまいました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする