ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

子供の応援団

2011-08-25 08:07:20 | Weblog
「援」8月21日
 豚々拍神氏の『「頑張れよ!」上司はただの応援団』という川柳がサラリーマン川柳欄に掲載されました。こんな頼りない上司の姿は、多くの職場でみられることでしょう。しかし、これが教員だったらどうでしょうか。
 逆上がりができない子供に、「頑張って」。泳げない子供に「怖がらずに」。文章題が解けない子供に「よく考えて」。何を作文に書けばいいか悩んでいる子供に「書きたいことを書いてごらん」。習字が下手でやる気をなくしている子供に「手本をよく見て」。こんな「指導」しかできない教員はいないでしょうか。
 かつて、「指導ではなく支援を」「子供を見守ることが大切」、こんな指導観が、学校現場を席巻したことがありました。そのときには、研究授業で、学習指導案ではなく学習支援案と書かれたペーパーを見せられたこともありました。もちろん、こうした考え方は間違ってはいません。しかし、多くの教員が誤解をしてしまいました。教員が進むべき道を示すことは悪であり、子供が発見するのを待つのが善という誤解です。そして、一部の教員は、こうした誤解に基づいて授業をしてみると、非常に「楽」であることに気付いてしまったのです。何も知らず、何もしなくても、「見守り中」の一言で許されてしまうのですから。
 逆上がりができない原因には様々なものがあります。原因が筋恐怖心なのか、成功のイメージがもてていないのか、筋力不足なのかによって指導法は違ってきます。筋力不足という場合でも、腹筋なのか、握力なのか、腕なのか、蹴る足なのか、それらが複合したものなのかによって、異なる助言をしなければなりません。それができて教えるプロといえるのです。それなのに「頑張って」という声を掛けて見守るだけでは、指導者ではなく、「応援団」にしか過ぎないのです。
 支援も応援も、「援」という共通点があります。しかし、両者はまったく違う概念です。支援は具体的に力をそえて助けることであり、応援はファンとして励ますことです。教員は、子供のファンではなく、コーチです。具体的な助言や環境設定をして、子供だけではたどり着けない地点へ導くことができなければならないのです。
 教員は自分が応援団化していないか、常に自省すべきなのです。
コメント
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