「規則になければ」4月26日
論説委員小倉孝保氏が、『不倫禁止法を笑う』という表題でコラムを書かれていました。その中で小倉氏は、『ニューヨーク州の不倫禁止法、いわゆる姦通罪』について触れています。同法は、『1907年に成立し、自分や相手に配偶者がいる場合の性交を禁じている』ものです。
同法については、『法科大学院で話題になるたび、学生は大爆笑していた』そうで、時代遅れの法律の代名詞のような存在だったのでしょう。今月、州議会によって廃止が決められたそうです。小倉氏は、同法と『同性婚や選択的夫婦別姓が認めらない』我が国の現状とを比べて、その時代遅れという共通点に焦点をあてていますが、全く同感です。ただ私は、もう一つ別の思いも抱きました。
それは、法や規則と道徳や倫理という問題です。不倫はその文字通り、人の道=倫理に外れる行為です。不倫を罰する法がなくなったからといって、不倫が良いこと、望ましいことになったわけではありません。相変わらず、多くの人にとっては、程度の差こそあれ、、不倫は良いことではありません。
私は、同じことを、校則についてあてはめてしまうのです。つまり、校則に禁止とあるから罰する、校則に禁止という規程がないからしてもよい、という考え方は問題ではないか、ということです。
現在、校則は生徒に人権問題として槍玉に上がっています。下着の色まで規定し教員がスカートをめくって調べるという行為が問題であることは当然です。では、校則の規定が改訂され、禁止項目が削除されたからといって、かつて禁止されていた事項についてすべて良いことと見なして放置するというのが適切なのかと問いたいのです。
髪を緑色に染め、唇にピアスをし、へそを出した服で登校し、手には3cmの付け爪をしている生徒に対し、校則で禁じているわけではないから指導はできないという考え方と、校則の有無とは別に大人と子供、教員と生徒として対話をしながら指導して「改善」させることこそ教員としてあるべき姿だという考え方と、どちらが望ましいのか、ということです。
もちろん、「改善」と「 」付けで書いたように、教員にとっては改善でも、生徒にとっては抑圧でしかないということは十分に考えられます。また、そのケースにおいては、指導を受けた生徒自身も「改善」と感じることであっても、一度教員の介入を許せばそれが先例となって実質的な校則による禁止と同じ状況が発生してしまうという懸念ももっともです。
校則にないこと、校則から削られたことについての指導はどうあるべきか、そのことがあまり論じられていない気がするのですが。
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