「スローライフ・スローフード」は忙しい(その2)
父も付き添いにあたり、仕方なく見様見真似、聞きかじりでの野菜造りをすることとなります。
幸いな事に、農家生まれの妻を伴侶にしたことも畑仕事を続けられる理由でもありました。
お互いに豊かとは言えない家の生まれで、野菜の自給自足なんて当たり前の事でしたから。
そんな生活の中に大きな比重を占めた畑仕事の犠牲になったのは、二人の娘たちだったでしょうか。
何しろ、幼い時はベビーベッドさえ山の畑に運び、寝かせながら仕事をしたりしたものですから。
そして、その後もゴールデンウイークと言えば、豚糞主体の堆肥の散布が我が家の一大行事でした。
娘たちに手が掛からなくなった頃に、妻は学校給食の調理員としての仕事に就きます。
父母の影響で私も料理、食べ物には興味が強い方でしたが、妻が得た仕事から、増々私たちの食への関心が高まります。
(続く)
自らが設計にも注文を付けた小学校(スベルべの母校)は、食堂も付属していて全員が揃って昼食。
にんと、作った調理員も一緒で、一日ごとに違う学年と食べると言う大きな楽しみがあったようです。
自分が調理した食べ物の感想を直接聞けるわけだから調理にも熱が入りますよね。
こちらは給食と言う点では遅れていましたね。スベルべの記憶では牛乳が取り入れられただけでした。
一家総出と言うけれど、文字通りにそんな農作業が日常生活でしたね。
デイサービスはもちろんの事、保育所なども出来たのはかなり後の事でした。
土木工事は他県よりも進んでいて、道路事情などは良かったようですが、教育・福祉は遅れていたのかなー。
昔の農家は何でも手作業でしたからとにかく今思っても大変だったと思います。私はとてもできません。洗濯からご飯を炊くのから稲刈り田植え、全部人力でしたからー。家に一人で置けないお年寄りとかが居られる方はリヤカーに乗せて一緒に連れて行って見ながら農作業をしていたのも覚えています。今のようにデイサービスも無くて、小さい子供の季節託児所が開設されたのも弟の時からでした。