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神想観は自分が“神の子”なる神であることを確認する祈りです。

2021-08-31 11:43:22 | 日記
神想観は自分が“神の子”なる神であることを確認する祈りです。
 
聖経「甘露の法雨」が説く「神のコトバ」というのは「言は神なりき」だから「神」であって、
創造の神の許に神と共にあります。
つまり【万物はこれ神の心、万物はこれ神のコトバ】世界は、
現象世界の根底世界であると同時に
実相世界(神の第一創造世界)でもあります。
実相世界は創造の神が造り給うた
第一創造の霊の世界です。
また“神の子”というのは神が人間を造った霊的設計図だから、
やはり創造の神の許に創造の神と共に居るわけです。
その人間の本体“神の子”=“神の言”の代表者であり、
“神の子”の心を通して万物である“神の言”が
現象顕現されます。
とすれば
「神の子円環完全」「実相円満完全」と観じることは、
神の許にいる、神なる“神の子”を観じることでもあり、
そしてまた神の許に在る神なる“神の言”を観じることでもあります。
ひっくるめていえば、
神と共にある「神の子」及び「神の国」を観じているわけです。
現象人間が
親様の許にいる自分の本体“神の子”を観じているわけです。
神想観は「自分が神の許にいる″神の子”であること」を
確認する祈りです。
自分が“神の子”なる神であることを
確認する祈りです。
 

真理への「信」が確実なものとなりその「信」で観」を行ったときに、実相が現われるのである。

2021-08-31 11:17:42 | 日記
“生命の実相”に立ち帰りたいという強烈な願いが
実相奪還の原動力である。
ただ実相が顕われるためには
真理への「信」を妨げている疑念を
打ち破らねばならない。
真理自体が“生命”を帯びた確たるものに
変質して行く必要はある。
観念的な真理から
生動する真理へと質が変わる必要がある。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【このごとく“神の力”がわれわれに来臨して、われわれを通して自己表現せんとし給うているのが神癒であるのである。患者の心の扉をひらいて、神癒を可能ならしめるところのものは、その人の神癒を受けんとする“願い”と“信”なのである。患者の“信”が、常に到るところに存在して癒しの力を施そうと待ち設けている神の“癒し”を素直に受けとるには、患者自身が閉鎖している疑念という扉を打ち破らなければならないのである。神の癒しが顕現して来る通路は多数あるけれども、癒し給う力は唯ひとつ“神”なのである。医師は傷口を繃帯する、しかし、癒しの力は何処から来るかというと、本来の人間の実相の霊的完全さに立ち帰ろうとする“生命”自体の常住の“願い”を通して、大生命の自然良能が癒しのはたらきをしてくれるのである。】
 
 
 
 

実相への「信」が強固になれば、神の力の流入は実現する。

2021-08-31 10:59:58 | 日記
「実相」さん自身がこう言っている。
「わたし“実相”自身が言うのだよ。わたしは戸の外であなたの中に入る準備ができているのだよ。戸を開いてくれれば、すぐにでも入っていくのだよ」と。
さらにまた「どうか扉を叩いてくれ」と。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【それ故に、実相に於いて貴下が既にあるところの円満完全な姿を、受容し得るに足るほどに、その媒介となる聖物が契機となって、あなたの心の窓がひらかれるならば、たといあなたが神癒の媒介物として、どんな通路を信じようが、あなたは“既にある実相”の開顕に関して道を開いたことになるのである・・・実相はかく宣うのである・・・「見よ、われ戸の外にありて叩く、戸を開くものあらば直ちに入らん」(黙示録第3章20節)その媒介となる種々の聖物は、祈りを籠めた聖衣であるとか、宗教的遺物であるとか、ヨルダン河の聖水であるとか、ギリシャ神話の神像であるとか、それはどちらでもよい訳で、唯それが大生命の創造力を動かし自然良能に彼を癒し得る機会を与えるような高い感受状態にまで患者自身の心境を高めるのに役立ちさえすればそれで可い訳なのである。】
 
 

神の護りは愛にみちみちていて、鉄壁であることを私は証明する。

2021-08-31 10:27:50 | 日記
パラリンピックの選手たちの多くは、
もし不慮の事故とか病気になって身体障害者にならなかったならば、
普通の人として
終わっていたかも知れない。
しかし今回パラリンピックで活躍している選手たちのほとんどが、
まさに彼らの障害をきっかけとして、
潜在能力に華を咲かせた人たちばかりである。
能力の導火線になったのが
まさに彼らの障害である。
私は彼らの姿を見て、
あ、私もこれだったんだ、
と気付いた次第である。
私の2度にわたる入院は、
どちらも重度の、
生命が危ぶまれるというか、
助かるほうが不思議なくらいの
由々しき事態であったのだった。
医師は私に言った。「あなたは九死に一生を得た」と。
でも
私が真理を命懸けで求めるようになり、
人間としても真人間になることを目指せたのは、
まさにこの2回の
難をまともに引き受けたことによる。
でも私には一つの拠り所があった。
それは『聖経甘露の法雨』
であったのだ。
私はここではっきり言えることがある。
神は実相の真理を本気で求めようとする人間を
ほとんど完璧なまでに
護ってくださるということだ。
神の護りは愛にみちみちていて
鉄壁であることを私は証明する。
 
(ヨハネ伝第9章1~3節)
【イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。】