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“真理キリスト”(神の言)が自分の本体であるという真理を、疑わずにそのまま受け入れる者は、“神の子”を現象に顕わすことができるのである。

2021-08-05 11:39:48 | 日記
吾ら人間は
「神の言」なのだ。
その理由はヨハネ伝の
次の二つの聖句である。
【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。】
【そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。】
吾らが実相を顕現する方法は
次の方法であると、
聖書は記述している。
【しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。】
つまり“真理キリスト”(神の言)が自分の本体であるという真理を、疑わずにそのまま受け入れる者は、“神の子”を現象に顕わすことができるのである。
 
何とも簡単で明快な真理なのであるが、
このことの実現には
私たちには時間が必要なのである。
以上の真理を「本当にそうだ」と思える心境に
もっていく必要があるからだ。
 

神の創造し給いし“実相世界”が、人間の心となり人間の本体となっている、このことの自覚が必要なのである。

2021-08-05 10:56:05 | 日記
ヨハネによる福音書の、
【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。】の神の第一創造の世界は、
まさに吾ら人間の本体となっている。
これは動的実体なのである。
人間の本体は「神の心、神の言」なのである。
この真理が現象の中核として見えなくても実在しているのだから、
安心してこの「神の国」を
ただ受け入れてしまえばよいのである。
この大事な大事な真理を、
吾らはどれほど自覚しているであろうか。
これこそが「真理キリスト」なのである。
アディントン氏は
フレデリック・ベイルズが
自身の祈りによって糖尿病を癒した時の観の内容を、
『奇蹟の時は今』に於いて
採り上げて記述している。
私たちが「実相の観」をする際に、
とても参考になる。
実相世界とはいかなる世界であるのか、
われらが実相を観じる時はどんな「世界」をイメージすべきなのか、
この点につきとても参考になる。
実相世界とは「神の国」であり、
神の「言」によって創造された、
神の第一創造の世界である。
ベイルズ氏はこの実相世界に自分を委ねたのであった。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【『わたしは瞑想のうちに、自分の想念の最後の一筋の糸までもことごとく、わが全身のすべての細胞を貫いてわたしの全身を生かしてい給う神の“透徹せる健全の想念”の中に投げ入れたのである。
 わたしはわが内に神の構図の美しさを観るのである。言語を絶するその調和を観るのである。どんな障礙からも完全に自由なる実相を観るのである。神が瞑想によってこの世界を創造し給いし時、“すべて善し”と宣(のたま)いしその伊吹をわたしは今感ずるのである。心静かに、今、わたしは、天地を創造し給いし、“無限者の心”の奥殿にまします中核体の中に自分自身を投げ入れてそれと融合し、その“無限者の心”はわたしの心となりわが全身を貫流しつつあることを如実に知って、揺るがざる金剛の平和を獲得したのである』】
神の創造し給いし“実相世界”が、
人間の心となり、
人間の本体となっている、
このことの自覚が必要なのである。
この実相世界が今ここに存在していると実感できてくると、
この世が「神」自体だと実感できるので、
安心感・安全感が
湧き出るようになるのである。
 
 
 

フレッド・ベイルズは、神の創造し給いし実相の世界を心に想い描きつつ自分と一体なる“神の力”を繰り返し念じ続けた。その結果、みこころがあらわれたのであった。

2021-08-05 10:30:36 | 日記
糖尿病を患っていたフレッド・ベイルズは
“科学的祈り”において健康を願い、
実相世界を心に思い描きつつ
その世界が自分の「内」にあると信じ、
実相を観じる言葉を繰り返し念じ続けた。
その結果、
氏は神癒を得たのであった。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【『わたしはわが内に神の構図の美しさを観るのである。言語を絶するその調和を観るのである。どんな障礙からも完全に自由なる実相を観るのである。神が瞑想によってこの世界を創造し給いし時、“すべて善し”と宣(のたま)いしその伊吹をわたしは今感ずるのである。心静かに、今、わたしは、天地を創造し給いし、“無限者の心”の奥殿にまします中核体の中に自分自身を投げ入れてそれと融合し、その“無限者の心”はわたしの心となりわが全身を貫流しつつあることを如実に知って、揺るがざる金剛の平和を獲得したのである』
このような言葉を心の中に唱えながら、無限者なる神の力を繰り返し念じ続け、その神の力の貫流せるわが身の聖なる完全さを心に繰り返して念じ、最後に“既に、神癒は完了せり”と宣言して、この神癒を授け給うた神に感謝してそう祈ったのであった。そしてこの祈りの最後の結語は『既にあるが如くみこころのままに』という慣用句であった。】
【その次、診療所の研究室からのリポートによると、“糖”の排出はゼロであった。みこころがあらわれたのだった。それはその後、再発することはなかった。】
この祈りのここが鍵だと思われたことは、
祈りにおいて、
「無限者なる神の力を繰り返し念じ続け、その神の力の貫流せるわが身の聖なる完全さを心に繰り返して念じた」
ということである。