現象において実相人間が働くのを観る
人間は“神の子”だから
人間の我の立場で
神癒は期待できないのである。
神の立場で考えるべきことがらだ。
神の立場からすれば、
病気など存在していないのであるから、
“神の子”を自覚して人間が「神性それ自身」になってしまえば
当たり前のこととして
病気なんかないのである。
肉体そして現象世界においては
神の力が常に働いている。
そのことは、実相が現われてくると、
実相人間という現象世界の動きの主人公が
常に今ここにいると、直感できるようになる。
この心境に至るまでは、
肉体の動き、現象の動きに、
何につけかににつけ
つかまれがちであるのは、
実際の所だ。
現象の動きを司る神、実相人間の働きを
自覚する必要がある。
それは
不生不滅の「超」の世界に、
存在していて、
しかも現象世界の「みえない主人公」であるのであり、
これが
人間の本体であり“神の子”である。
これが実相人間だ。
実相人間は
働きそのものは現象展開の主人公だから直感できるが、
実相人間自体は「超」的存在だから
視えないし触わることもできない。
人間は“神の子”だから
人間の我の立場で
神癒は期待できないのである。
神の立場で考えるべきことがらだ。
神の立場からすれば、
病気など存在していないのであるから、
“神の子”を自覚して人間が「神性それ自身」になってしまえば
当たり前のこととして
病気なんかないのである。
肉体そして現象世界においては
神の力が常に働いている。
そのことは、実相が現われてくると、
実相人間という現象世界の動きの主人公が
常に今ここにいると、直感できるようになる。
この心境に至るまでは、
肉体の動き、現象の動きに、
何につけかににつけ
つかまれがちであるのは、
実際の所だ。
現象の動きを司る神、実相人間の働きを
自覚する必要がある。
それは
不生不滅の「超」の世界に、
存在していて、
しかも現象世界の「みえない主人公」であるのであり、
これが
人間の本体であり“神の子”である。
これが実相人間だ。
実相人間は
働きそのものは現象展開の主人公だから直感できるが、
実相人間自体は「超」的存在だから
視えないし触わることもできない。