gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

現象において実相人間が働くのを観る

2021-08-15 12:22:54 | 日記
現象において実相人間が働くのを観る

人間は“神の子”だから
人間の我の立場で
神癒は期待できないのである。
神の立場で考えるべきことがらだ。
神の立場からすれば、
病気など存在していないのであるから、
“神の子”を自覚して人間が「神性それ自身」になってしまえば
当たり前のこととして
病気なんかないのである。

肉体そして現象世界においては
神の力が常に働いている。
そのことは、実相が現われてくると、
実相人間という現象世界の動きの主人公が
常に今ここにいると、直感できるようになる。
この心境に至るまでは、
肉体の動き、現象の動きに、
何につけかににつけ
つかまれがちであるのは、
実際の所だ。
現象の動きを司る神、実相人間の働きを
自覚する必要がある。
それは
不生不滅の「超」の世界に、
存在していて、
しかも現象世界の「みえない主人公」であるのであり、
これが
人間の本体であり“神の子”である。
これが実相人間だ。
実相人間は
働きそのものは現象展開の主人公だから直感できるが、
実相人間自体は「超」的存在だから
視えないし触わることもできない。

神癒というものは、人間の立場ではなく、“神の義”によって判断すべきことがらなのである。

2021-08-15 11:37:21 | 日記
下記の御文章の大事な指摘は、
次の3点である。
・これを判断するのに人間的基準をもって判断するよりも寧ろ“神の義”の基準によって判断しなければならない
・神の力に全托するためには、完全に全能者たる神に無条件降伏しなければならないのである。
・人間力が極限に達して、もうどうにもならない時が、神の救いの出現する機会なのである。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【以上の症例に於いてそれを貫く最も支配的な真理はこう言うことである・・・これを判断するのに人間的基準をもって判断するよりも寧ろ“神の義”の基準によって判断しなければならないということなのである。人間的基準をもってすれば、神の力に全托すれば治るなどと信ずることはまことに非常識な滑稽なことだと思うことの方が非常に優勢に見えるときですら、完全に全能者たる神に無条件降伏しなければならないのである。重態で、瀕死の幼児を神の祭壇に人身御供として献げることは多くの人々にとっては、無条件全托の信仰原理をあまりにも劇化する行為だと見えるかも知れない。併し、われわれ人間にとっては、少しも人間的執着なく完全に執着の把みを放って神委せの解脱心境にならしめるためには劇的な宗教行為を時々必要とするのである。人間力が極限に達して、もうどうにもならない時が、神の救いの出現する機会なのである。】
 

自分或いは人様を神の祭壇に奉安する感じで神さまに全托する神想観。

2021-08-15 10:59:38 | 日記
自分を祭壇に奉安して(そのようなイメージで)
神さまに全托する神想観をした。
勿論実相を観じるためだ。
この方法は現象のつかみを放し
自分を神に委ねるための効果的な方法だ。
人様の実相を祈る時にも
これは効果的である。
この祈りの精神を
以下のご文章から
読み取っていただきたい。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【到頭、これ以上この幼児は生きることは不可能だと見える状態にまでなったとき、誰かが、あのアブラハムがイサークを悦んで神に献げたと同じように、この赤ちゃんをいわば人身御供として祭壇の上にお供えして神さまに差上げてしまったらと言った。若いこの子の両親はこの子を生かして置きたくて仕方がないものであるから、その子を神さまに差上げてしまうということは真に神に対する全托の信仰を必要とするのであった。それは神に無条件降伏して夫婦の全ての希望と願いとを神にゆだねるという象徴的行事であった。それゆえにこの象徴的行事はこの教会に集まっている信者にとっては非常に意義ある行為であったのである。それで彼らは実際にこの瀕死の赤ちゃんを祭壇に奉安した。そして、彼女の父なる神の御心におまかせして、皆寄って「御心の如くならしめ給え」と祈ったのであった。奇蹟がその時起ったのだ。その瞬間からこの赤ちゃんは健康を恢復し始めたのであった。エグレストン夫人の報告によると、彼女がリッチモンドからウエスト・コーストに来る直前、彼女は当時の赤ちゃんだった此の娘の顔を見て別れを告げて来たのであったが、今や彼女は健康で活発な、どこから見ても完全な9歳の少女になっているのだということであった。】