祈って、その祈ったことが「得た」と確信できる段階は、
“神の子”実相が、自分の本体実在であるという究極の真理が、
はっきり分った時点においてであるはずだ。
最初はその境地には到っていないだろう。
実相への「信」がなせるわざだから。
「真理は汝を自由ならしめん」である。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【『マルコ伝』第11章24節に、イエスは次のように言っているのである。
「この故に汝らに告ぐ、凡て祈りて願う事は、すでに得たりと信ぜよ、然らば得べし」
このようにイエスは「凡て願う事は」といって、願う者の資格も、欲する事物の条件にもなんらの制約を設けなかったのである。われらが「日用の糧」を即刻必要とする際に、イエスは「そんなものを祈るな。汝ら祈るときには霊的自覚についてのみ求めて祈れ」とは言わなかったのである。イエスは「凡て祈りて願う事は」と言い切っているのである。ただ一つ祈る際に“警告”がついているのは、「既に受けたりと信ぜよ」ということなのである。求めよ、さらば与えられん、叩けよ、さらば開かれん・・・何とならば求むる者は誰にでも受けることができるというのがイエスの教えなのである。この教えには、われらが祈る相手である“神”はすべての事物の本源者であらせられるという意味をハッキリと含んでいるのである。】