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祈ったことは「得た」と確信してもよい筈である。“神の子”だから実相においてすべて与えられずみであるからである。真理知るべしである。

2021-08-27 09:57:30 | 日記
祈って、その祈ったことが「得た」と確信できる段階は、
“神の子”実相が、自分の本体実在であるという究極の真理が、
はっきり分った時点においてであるはずだ。
最初はその境地には到っていないだろう。
実相への「信」がなせるわざだから。
「真理は汝を自由ならしめん」である。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【『マルコ伝』第11章24節に、イエスは次のように言っているのである。
「この故に汝らに告ぐ、凡て祈りて願う事は、すでに得たりと信ぜよ、然らば得べし」
このようにイエスは「凡て願う事は」といって、願う者の資格も、欲する事物の条件にもなんらの制約を設けなかったのである。われらが「日用の糧」を即刻必要とする際に、イエスは「そんなものを祈るな。汝ら祈るときには霊的自覚についてのみ求めて祈れ」とは言わなかったのである。イエスは「凡て祈りて願う事は」と言い切っているのである。ただ一つ祈る際に“警告”がついているのは、「既に受けたりと信ぜよ」ということなのである。求めよ、さらば与えられん、叩けよ、さらば開かれん・・・何とならば求むる者は誰にでも受けることができるというのがイエスの教えなのである。この教えには、われらが祈る相手である“神”はすべての事物の本源者であらせられるという意味をハッキリと含んでいるのである。】

神様に対して少しうるさいぐらいに求めることだ!求めるものを下さらない父なる神があるはずはないのだ!

2021-08-27 09:47:16 | 日記
「実相円満完全」「神の子円満完全」と
うるさいぐらいに神にもとめよ、
と聖書は書いている。
求めるから与えられるのである。
つまり吾等は“神の子”の自覚ですくわれたいという「願い」を
強烈に持つ必要があるのだ。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【『ルカ伝』第11章5節~13節には次のように録されているのである。・・・
「また言ひ給ふ『なんぢらの中たれか友あらんに、夜半にその許に往きて「友よ、我に三つのパンを貸せ。わが友、旅より來りしに、之に供ふべき物なし」と言ふ時、かれ内より答へて「われを煩はすな、戸ははや閉ぢ、子らは我と共に臥所にあり、起ちて與へ難し」といふ事ありとも、われ汝らに告ぐ、友なるによりては起ちて與へねど、求の切なるにより、起きて其の要する程のものを與へん。われ汝らに告ぐ、求めよ、さらば與へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求むる者は得、尋ぬる者は見出し、門を叩く者は開かるるなり。汝等のうち父たる者、たれか其の子魚を求めんに、魚の代に蛇を與へ、卵を求めんに蠍を與へんや。さらば汝ら惡しき者ながら、善き賜物をその子らに與ふるを知る。まして天の父は、求むる者に聖靈を賜はざらんや』」】