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実相顕現への黄金の鍵は、各信仰者に即して啓示されることになっている。

2021-08-22 11:20:53 | 日記
実相を観じることで実相があらわれる、
と雅春先生は書いていますし、
そのとおりだと思います。
では実相はどうやって観じるのでしょうか?
見えない「神」をどのようにしたら観じられるのでしょうか?
これが実は難しいのですが、
ここに一つの秘宝があります。
こうした見えないゴールデン・キーは、
実は聖書には沢山の聖句として存在します。
だが、その黄金の鍵を
神様から与えられる心境になって、
各信仰者に個別に啓示されるのです。
雅春先生の聖典にも仏教の経典にもあるはずです。
私に啓示されて聖句はこれであります。
実相が現成する際は、
各人に即した「黄金の鍵」が
啓示されるのではないでしょうか。
(参考 神癒への道 谷口雅春)
【若し吾々が、動揺極まりなき、変化極まりなき吾々の周囲から一転して、確呼として不滅の救いに面せんと欲するならば、詩篇の第125編の第一の句を読めとハンブリン氏は云っています。この一篇は、吾々を変化常なき光景の現象世界より、神の息吹きが甘香(かん)ばしく降りている所のより高き領域にまで引き上げてくれるところの力強き言葉に満たされているのです。それは絶対真理の積極的な表現であります。
「神に凭(よ)頼める者はシオンの山の如くなるべし。動くことなく永久(とわ)に変ることなし」と。】
この聖句を神想観で始めに何回もとなえますと、
実相に全托の状態に、
気持ちが整ってくるのです。
「神の子円満完全」と念じて
神にお委せの心境が、
形成させるのです。
素晴らしいです。やってみてください。
 
聖書には
こうした「黄金の鍵」が
たくさん散りばめられております。
それが聖書のすごいところです。
 

祈らなくても必要なものを与えられる境地は「観の転換」が成就したときに、自然とそうなる境地である。

2021-08-22 10:56:36 | 日記
祈らなくても必要なものを与えられる境地は「観の転換」が成就したときに、自然とそうなる境地である。
祈らなくとも「想えばそう成る」境地は
「この世は神の国也」と
現象世界よりもその奥の実相世界こそが、
実在也と、
確信つよくなった時「観」の力にて自然とそう成る境地である。
実相への「信」に対して神が与えてくださるご褒美である。
自分の観の転換で周囲の人たちが自然と光明化する段階で、
本格的に人を変える力量が、
神から与えられた、
といえるのである。
「想った通りに成る世界」である。
だが実相というものは徐々に現われてくるものだから、
急速度の実相顕現なんて期待すべきではないと感じる。
一日で現象が黄金の世界に変ったなんて体験談は
私はあまり重きをおかない。
ちょっとした現象の良化を神体験として発表するものが多い。
その人に人間自体が神なる人格に本当に変わったのですか、
と聞きたくなる。
(人生は心で支配せよ 谷口雅春)
【兎も角「吾れ神の子なり」との信念が強烈に得られる時、吾等は「神は吾れになくてはならぬ物を求むるに先立ちて与え給う」と坐(い)ながら静かに黙念するのみにて、求むるものは自然の秩序を通じて、即ち何らかの現実的順序を経て吾等に与えられることになるのである。「神は汝らにとりて必需物(なくてはならぬもの)を求むるに先立ちて知り給う」「汝らわれを呼ぶに先立ちて、われ汝らに応えん」とは神の言葉であるのである。】
 

神想観は「吾れ無限なる神と偕(とも)なるが故に求むるところのものは必ず成就する」と云う信念を、深き感情のドン底より把握することが出来るまで思念すべきである。

2021-08-22 10:26:49 | 日記
神想観は
「神」を想うことが基本であるが、
その「神を想うこと」自体が、
難しいのである。
どうしても
人間は始めから“神の子”であり、
「神の国」は「内」にあり、
自分の本体“神の子”は
「内」に、父なる神と共に実在していて
それが現象世界を創り出す霊的原型だという究極真理を知るからこそ、
「吾れ無限なる神と偕(とも)なるが故に求むるところのものは必ず成就する」
という信念形成にいたるわけである。
真理をはっきり把握した時に
実相の観法が確実化するのだ。
真理の成就は正直時間がかかる。
片手間ではできない。
(人生は心で支配せよ 谷口雅春)
【「神想観」を行うには端座合掌瞑目し、精神を集中して黙念するのである。精神は動的なものであるから、単に精神統一と称して無念無想の境涯に入ろうとしてもなかなか無念無想になり切れるものではない。たとい自己の能動的な雑念妄想を無の境涯に入れたところで、他より波動し来る思想を吾々は感受しない訳には行かないから、どうしても所動的な雑念妄想にわずらわされがちのものである。それよりもむしろ吾々は自己の悪想念と、波動し来る他よりの悪想念とを排除するために、みずから進んで能動的に積極的に善きものを招き寄せる善き想念を強烈に思念すべきである。即ち上述せる如き順序と方法とに従って「吾れ無限なる神と偕(とも)なるが故に求むるところのものは必ず成就する」と云う信念を、深き感情のドン底より把握することが出来るまで「神想観」を毎朝夕15分ないし30分位ずつ繰り返し行うがよいのである。】